知覧特攻基地 鳥浜トメ 朝鮮人特攻隊員 Korean Kamikaze

鹿児島県 知覧 特攻基地 / 富屋食堂 鳥浜トメ

 

小林威夫少尉

 

 昭和17年1942年、鹿児島県知覧に陸軍の飛行学校ができた。その時、富屋食堂という食堂が軍指定食堂になった。食堂の女主人は鳥浜トメと言い、働き者で屈託がなく、町の人から信頼されていた。飛行学校ではまだ、20歳にならない少年兵が過酷な訓練に明け暮れた。彼らにとって明るくやさしい富屋のトメは母親代わりだった。

 

1944年3月28日、飛行学校の教官であった小林少尉がトメを突然訪ねてきた。飛行学校の少年兵同様、やさしく世話をしてもらった少尉はトメを実の母にように思っていた。「ホタル帰る」トメの次女、赤羽礼子と石井宏共著によると、

「小母さん、小林です。久しぶりにお目にかかれて、こんなにうれしいことはありません」トメは小林の好きそうなものをいろいろ作って差し出したが、小林は何ものどを通らないという。「今度はどちら方面に行くの」と聞けば「小母さん、聞かないでくれよ」と答えた時にトメはつい昨日、知覧に特攻隊基地ができたと聞いたことを思い出した。「お父さんに最後の姿を伝える便りを差し上げましょう」というと「日が経ってから知らせてくれ」と言われるが、翌29日出撃するとすぐにトメは「おゆるしください、毎日新聞を見ていてください」と書き送らざるを得なかった。

 

小林威夫少尉はエンジンの故障で沖縄に到達できず、途中で不時着炎上したため、「大分方面で事故死」とされ、特攻隊の戦死者名簿に加えられなかった。それを聞いたトメは「特攻隊員として出撃し、その心は特攻隊員と同じではないか、そうした高貴な心を持って出撃した人をどうして差別するのか」と関係筋を説得して歩いた。いま小林中尉の名は特攻隊戦死者の名簿に加えられている。

第40振武隊 中尉 小林威夫 東京都出身 昭20.3.29出撃

今これを引用している時に、正式な記録を見ても3月29日の陸軍特攻出撃戦死には「誠第十七飛行隊、誠第四十一飛行隊」の5名しかない。しかし、これ以外にトメの多くの話からその人柄は容易に想像できる。

 

 「ホタル帰る」はトメの娘である礼子がトメと共に経験した特攻隊員たちとの出来事を口述したものである。

 トメと特攻隊員との多くのエピソードはテレビ、映画、本で多く取り上げられた。一方トメは特に晩年、ジャーナリストの質問に対して多くを語らなかった。真実が伝えられていなかったからだと言われる。

 

特攻は自ら若い命を捨てて過酷な死に方をする非人間的な攻撃である一方、家族や愛するものの為の自己犠牲であり、愛する者への思いや親に先立つ不孝を嘆く声が残されており、高貴な人間性の発揮というまったく両極端の状況を両立されているが故に多くの人々が今なお心動かされる。

ただ、その感動を単純に特攻賛美と称揚のみに終わるのであれば、彼らの望まざる過酷な運命に至った歴史を再び繰り返す危険がある。それは特攻隊員こそが、敗戦から復興した日本人に決して望まなかったものであろう。この点、我々は注意が必要である。

 

卓庚鉱タクキョンヒョン (光山文博)
生年:1920年3月5日

戦死:1945年5月11日(24歳)

場所:沖縄飛行場西

出身:尚南道

卒業:京都薬学専門学校

特攻部隊:五一振武隊

出撃地:知覧

出身:特操一期

階級:少尉→大尉(特攻戦死により2階級特進)

靖国合祀。

 

 卓庚鉱タクキョンヒョン (光山文博)は当時、日本の植民地であった朝鮮半島出身者で差別に会いながらも薬学専門学校を卒業し、海軍少尉となったが、特攻戦死した。トメに世話になり特攻前夜にトメを訪れ、涙を隠しながらアリランを一緒に歌って別れた。

光山少尉とトメ

左は光山少尉、右は鳥浜トメ。

 光山文博少尉は京都薬学専門学校を卒業し、一時就職もしたが、昭和十八年、特別操縦見習士官(特操)を志願し、その一期生として大刀洗陸軍飛行学校 知覧分教場に入校し、六か月間の速成教育を受けてパイロットとなった。その知覧の生徒の頃、光山は富屋に日曜日ごとにやってきてはトメや娘たちと親しんだ。半年ののち巣立って知覧を出ていって、各地の部隊をめぐったが、行く先々から「知覧の小母ちゃん、元気ですか」と葉書が来た。

そして昭和二十年の五月の初め、富屋の表の引巻戸を開けて「小母ちゃーん」と呼びながら入ってきた男がいた。相手の顔を見ると顔がこわばった。「まあ、光山さんじゃないの」それは一年半前に知覧を出ていった光山にまちがいなかった。トメがショックを受けたのは、いまのこの時期に知覧に現れる航空兵は特攻隊員ばかりなので、光山が特攻隊員になったのをすぐに悟ったからである。

トメは光山を食堂の裏にある離れに案内した。そこは光山の"指定席"で、飛行学校の生徒の頃から彼の好きな場所であった。彼は寝ころがってウーンと伸びをした。その様子は一見して屈託なさそうだが、その横顔はトメには以前より淋しさの影が濃くなったように思われた。それから光山少尉は毎日のように富屋に入りびたっていた。このときの光山の特別に淋しそうな表情には特別のわけがあったことを、礼子たちは何十年も経ってから知ることになる。光山の母親がその前の年の暮れに亡くなっていたのだった。

五月十日の夜、「小母ちゃん、いよいよ明日出撃なんだ」とボソリと言った。「長いあいだいろいろありがとう。小母ちゃんのようないい人は見たことがないよ。おれ、ここにいると朝鮮人ていうことを忘れそうになるんだ。長いあいだ、ほんとに親身になって世話してもらってありがとう。実の親も及ばないほどだった」「そんなことないよ。何もしてやれなかったよ」「小母ちゃん、歌を歌ってもいいかな」「いいわよ、どうぞ、どうぞ」「じゃ、おれの国の歌を歌うからな」

光山は離れの床の間の床柱を背にしてあぐらをかいて坐ると、かぶっていた戦闘帽のひさしをぐいと下げた。光山の眼がそのひさしの下に隠れた。トメと二人の娘は彼のすぐ横に正座した。しばらく瞑想していた光山は、突然びっくりするような大きな声で歌い出した。
アーリラン、アーリラン、アーラーリヨ
アーリラン峠を越えていくわたしを捨てて行くきみは
一里もいけず足いたむ

光山の歌声がやんでも、部屋の中にはトメたちのしゃくりあげる鳴咽があとを引いていた。いつのまにか四人は肩を組んで泣いていた。

光山はさようならを言う前に、自分の使っていた黄色い布の財布を取り出した。布は朝鮮のものだということだった。光山は筆と硯を借りて、その財布に「贈為鳥浜トメ殿光山少尉」と書いた。「小母ちゃん、飛行兵って何も持っていないんだよ。だから形見といっても、あげるものは何にもないんだけど、よかったら、これ、形見だと思って取っておいてくれるかなあ」と言った。
トメは黙ってその財布を押し戴いた。光山は立ち上がった。飛行服のあちこちにトメが作った人形のマスコットや美阿子の作ったマスコットをぶら下げている。トメの作った人形は頭ばかり大きくてまるで照る照る坊主のような感じで、娘たちはみっともないと思ったが、トメも光山少尉も満足していた。トメは別れ際に富屋の三人の写真を渡した。「これ持ってって……」

「そうかい小母ちゃん、ありがとう。みんなと一緒に出撃して行けるなんて、こんなに嬉しいことはないよ」
光山は手を振りながら、灯火管制下の暗い夜の闇に消えていった。

 

光山少尉が出撃すると、トメはいつものように少尉の父親に出撃を知らせてあげる手紙を書こうと思ったが、住所がわからないのに気がついた。以来、いろいろな人に光山少尉の父親の消息を尋ねたがわからなかった。
戦争が終わってもトメは探しつづけた。出撃前の数日のことを知っているのは自分しかいないので、ぜひその様子を実の父親に一言伝えてやりたいと思ったのだ。しかし、光山少尉の父親のみならずなんらかのつながりのあるような人を探しても、だれも出てこなかった。トメはNHK「尋ね人」の時間でもたびたび光山少尉の遺族の消息を知りたい旨の放送をしてもらった。だが杏として消息はつかめなかった。

あるとき、トメの二女の赤羽礼子は、光山少尉の航空服と最後の遺品を詰めた袋が靖国神社の一隅に飾られているのを発見した。普通、遺品の袋などは軍の手によって親元に送還されることになっている。それが靖国神社に保管されているということは、光山少尉戦死の時点においてすでに荷物の受取人である父親をはじめとする遺族の所在は不明だったということになろう。トメの努力にもかかわらず、光山少尉の関係者を探す作業は挫折したまま、平成四年(1992)、トメは89歳でこの世を去った。もし彼女がこの世に心残りがあったとすれば、それは光山少尉の遺族の行方がわからなかったことであろう。

ところが、運命はそれから三年も経って、つまり光山少尉の死から五十年も経って、事実を明るみに出してくれることになった。ある日、韓国のテレビ局の取材班が約十名ほどで赤羽礼子を訪ねてきた。彼らは「出撃前にアリランを歌った特攻兵」のことを知っている人を探しに東京へ来たのだった。そこで礼子は右のような一夜の情景を語って聞かせ、実際にアリランを歌ってみせた。すると取材班は全員で唱和しはじめ、みな歌いながら涙を流したのであった。この礼子の回想を取材した番組は韓国で放送され、それを見た人に同じような感動を与えた。その視聴者の中に光山少尉の従兄や従妹合わせて三人の縁者がいたのである。
翌日、礼子のもとに、最年長の従兄の人から電話がかかってきて、そのあとすぐに東京に飛んできてくれた。その従兄は終戦の直前まで日本におり、もちろん光山少尉と接触があったので、数多くの写真や光山少尉の戸籍証本まで携えてきてくれた。

少尉には妹が一人あった。しかし戦局が厳しくなり、三月頃、光山少尉の特攻志願の願書が受理されたとき、少尉は自分の父と妹を朝鮮に送り返すことに決めた。そして、鉄道に勤めている従兄のところへ頼みに行った。彼は本土決戦になるかどうかはともかく、日本は生命の保証のない非常に危険な状態にある。このまま自分が特攻として死んだなら、父も妹も、面倒を見てくれる人を失い路頭に迷うかもしれない。幸い従兄にいさんは鉄道に勤務していて鉄道や連絡船の切符は手に入るだろうから、どうか父と妹を日本より安全な故郷の釜山に帰してやってくれということであった。
   こうして光山少尉の父と妹は、少尉の死を知ることもなく釜山に移動した。そして、その従兄自身も終戦前に日本を離れたので、その時点で、光山少尉の縁者は日本にいなくなってしまったのである。
そして終戦.韓国は日本から解放されると同時に、反日の姿勢を強め日本と韓国をつなぐ糸はすべて切断されてしまった。トメがいくらNHKの「尋ね人」で放送してみても、その電波は届くことはなかった。そして、まもなく光山少尉の父と妹もこの世を去ってしまったのである。


いま韓国は解放から半世紀以上を経て、ようやく日本に対して敵視の態度を弱めつつある。かつては国禁であった日本の書物やソフトウエアの輸入も解禁になりはじめた。戦後には、その従兄の話によれば、身内が日本のために働いたーとくに特攻兵だったーなどとは口が裂けても言えなかったとのことで、もしそんなことを言おうものならどんな事態が起きたかわからなかったという。

 

以上が「ホタル帰る」2001年刊だが、これはトメの次女礼子の口述なので信憑性が高い。

 

以下は「他者の特攻」による

最初にこの話が書かれたのは1957年『遺族』高木俊朗著だという。しかし、そこにはアリランをうたう場面は出てこない。アリランをうたうエピソードを最初に紹介したのは、1984年に、豊田穣が書いた長編『日本交響楽・完結編』ではないかと思われるがその内容は豊田の伝聞に基づくフィクションである。

1944年10月、陸軍最初の特攻隊として、茨城県鉾田基地で万朶(ばんだ)隊が、静岡県浜松基地富嶽(ふがく)隊が編成された。当時、鉾田基地は、体当り作戦は戦力を消耗するだけで効果はないとして強く反対していた。軍上層部は、陸軍最初の特攻隊の編成を、この鉾田基地に命じた。そして、反対の急先鋒であった岩本益臣(大尉)が隊長に指名された。反対した者が真っ先に特攻に出される現実を、同じ鉾田基地にいた卓庚鉱(光山文博)も知っていただろう。

 

5月11日、沖縄第七次航空総攻撃の一員となった彼は、知覧を出発した。飛び立った特攻機は約80機で、機体不良で引き返す飛行機のほうが多く、結局、飛び続けたのは33機だけだった。特攻機として多くの老朽機が使われた。軍上層部は満足な飛行機を与えないで、エンジントラブルなどで引き返してきた隊員を「不忠者」「臆病者」とののしり、振武寮に収容、隔離した。
しかしながら、生と死だけに限定して考えるならば、機体不良の飛行機にめぐり合った特攻兵は生きる可能性を得たことになる。この日出撃した半数以上がそれを得たのに、卓庚鉱(光山文博)の飛行機は、まともに飛ぶことができた33機の中に入っていた。

 

 光山少尉は、ノートに、和歌一首を記した。この人の一家の生活は、悲惨の限りをつくした。金がなくて、幾日も、たべることができなくて、母とそのころの少尉と妹は、抱きあって泣いた。ついに母は、食物を盗んできて、子供たちに与えた。光山少尉は、そのありのままを、私に語り、さらに、涙を浮かべて訴えたことがあった。それは、朝鮮人に対する、内地人の不当な侮蔑と、非常識な横暴であった。光山少尉の書き残した歌は、その母をしのぶものであった。
たらちねの 母のみもとぞ しのばるる やよひの空の春がすみかな
(高木俊朗『遺族』1957年・出版協同社.90頁)

 従軍記者(陸軍航空本部映画報道班員)としてインドシナ半島で従軍した後、内地に戻った高木俊朗は、知覧基地で数多くの特攻兵の最後の言葉を聞き、戦後、『インパール』『知覧』『陸軍特別攻撃隊上・下』などを書いた。右に掲げた『遺族』は、ある特攻兵(日本人)から渡された日記を、高木が遺族に届けるまでを描いたもので、その中の一節に卓庚鉱(光山文博)が登場する。硬直した思考の軍人とは違う雰囲気を持っていたのであろう、ジャτナリストの高木俊朗に対して何人もの特攻兵が、特攻で死ななければならないことの不条理を語り、軍の検閲を回避するため、高木に手紙や日記を託した。卓庚鉱(光山文博)もまた、高木俊朗に自らの差別体験を吐露した。

在日朝鮮人一・五世や二世にとってのアリランは、民族の歌、故郷の歌であるだけでなく、ソンアンジョン(宋安鍾)がいうように、「『もっぱら血みどろになって戦って』きた先人たちを追懐、哀惜するうた」であるとするならば、卓庚鉱(光山文博)が出撃の前夜に歌ったとされるアリランは、日本人がイメージするような涙と別れのシンボルとしてではなく、高木俊朗に対して吐露したように、子どもの頃から貧困と「日本人の非常識な横暴」に対して、「血みどろになって戦った」自分自身と、同じように闘った父、母、妹の思いを重ね合わせて歌った、家族を偲ぶ歌であったと考えることができよう。

「他者の特攻」

 

韓国における特攻隊員への評価

 韓国においては、戦後のかなりの間、日本の戦争に動員されて死亡した韓国人は、日本に協力した「親日派」(日本で使われる「親日派」と意味が異なる)とされ、批判的に捉えられていた。しかし、民主化の進展によって、彼らは日本の戦争による犠牲者であると位置づけられ、立法処置により、名誉の回復と補償がなされるようになった。
ところが、特攻戦死者に関しては、その社会的評価は従前の評価と変化することなく、いまなお、「日本の戦争に積極的に協力した対日協力者=親日派」とされている。強制的に動員されたのではなく、「志願して特攻した」という、「志願」の点が重視され、その結果、自ら主体的に日本のために死を選んだと解されることによるものと思われる。
加えて、韓国で制定された「親日派」に関する法律が、朝鮮人特攻戦死者の評価に影響していることも無視できない。韓国では、1990年代から法律を媒介に「過去清算」が開始され、政府の委員会によって18の「過去事(歴史的事件)」の真相糾明が行われている。これらは未来を語る上で避けては通れない作業だと認識されたもので、封印されてきた国家犯罪の解明を主たる目的とした。それは、事件の真相を明らかにするだけでなく、被害者へ補償を行い、名誉を回復させ、明らかになった事実を社会として記憶しようとする「歴史の見直し」作業であった。

2004年に成立した「日帝強占下親日反民族行為真相糾明法」は、この流れを構成する一つであり、本法律の目的は1904年から1945年までの間に、日本による植民地統治に協力した者(親日行為者)を特定することにあった。特定するためには、親日行為とは何かを規定する必要があり、列記されている項目の中に、「日本軍の少尉以上の将校で、侵略戦争に積極的に協力した者」とする一項があった。

 日本軍は朝鮮人が特攻によって死亡した場合、二~四階級特進させることを行った。彼らは、これによって全員が将校になっている。この昇進は、特攻の成果を宣伝し、後に続くことを促すために実施した政策的な「栄誉」であり、彼らは生前、将校としての役割を担わなくても、韓国においてはこの規定が存在することから、朝鮮人特攻戦死者は「反民族行為者」であるというイメージが強固になる可能性がある。

 「日帝強占下親日反民族行為真相糾明法」が、その目的のために一定の基準を設け、これに従い親日行為者を特定し、日本軍将校になった者を含むことは、「親日」を糾明するには必要だったかもしれない。しかしながら、死後に少尉に昇進し形式的に将校となった特攻兵を含むことは妥当ではないだろう。
  2010年2月、韓国政府の調査委員会は、朝鮮人特攻戦死者の一人、パクトンフン(朴東薫)の遺族に対して、彼は「生前は将校ではなかった」ことを理由に、「被害者」であると認定した。

しかし、生前から「将校」であった学徒兵は、委員会認定の論理からすると「被害者」と認めてもらうことができなくなる。彼らは、以前は学生であり、職業軍人ではなかったこと、生前は名ばかりの将校であったことを考慮すべきではないだろうか。

 

1945年5月11日出撃の特攻隊 

出撃時刻 基地 隊名 機種

海軍

 鹿屋 第八神風桜花特別攻撃隊 一式陸攻に桜花搭載 3機 総員24名

 鹿屋 神雷部隊第十建武隊 3機 零戦爆装500kg

    第五筑波隊      9  同上 

    第七七生隊     1  同上

    第六神剣隊     4  同上

    第七昭和隊     5  同上  安則盛三、小川清 所属

 串良 菊水雷桜隊     10機(30名) 天山爆装800㎏

 宮崎 第九銀河隊     6機(18名) 銀河爆装800㎏

 指宿 第二魁隊      2機(5名)零水偵爆装800㎏ 94水偵爆装500㎏

             40

    安則盛三中尉(旅順師範)、小川清中尉(早大) 空母バンカーヒル突入

              水偵 駆逐艦ハドリに突入

 

陸軍

 知覧   第四十四振武隊(一式戦「隼」)  2機

 知覧   第四十九振武隊(一式戦)     1

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一式戦闘機(試作名称)キ43。愛称は隼(はやぶさ)。略称は一式戦。連合軍のコードネームはOscar(オスカー)。開発は中島飛行機。 四式戦闘機「疾風」(キ84)とともに帝国陸軍を代表する戦闘機として、太平洋戦争(大東亜戦争)における事実上の主力機として運用された。総生産機数は5,700機以上で、旧日本軍の戦闘機としては海軍の零式艦上戦闘機に次いで2番目に多い

 知覧   第五十一振武隊悠久隊(一式戦)  7   光山少尉所属

 知覧   第五十二振武隊(一式戦)     3

 知覧   第五十五振武隊(三式戦「飛燕」) 3

 知覧   第五十六振武隊(三式戦)     3

    

 都城東  第六十振武隊(四式戦「疾風」)  1

 都城東  第六十一振武隊(四式戦)     3

 知覧   第六十五振武隊(九七式戦)    3

 知覧   第七十振武隊(一式戦)      3

 知覧   第七十六振武隊(九七式戦)    3

 喜界島  第七十八振武隊桜花隊(一式戦)  1

                       33

 

 

当日特攻による米軍被害(3隻いずれも大破)

            戦死・行方不明 負傷  備考

1.空母バンカーヒル    402            264        第七昭和隊 安則、小川中尉突入

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2.駆逐艦エバンズ  戦死行方不明   30    負傷    29  「隼」突入

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駆逐艦USS Evans DD552

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Casualties from USS Evans (DD-552) are brought aboard USS PCER-855 from USS Ringness (APD-100), after Evans was damaged by Kamikaze attacks while on radar picket duty off Okinawa on 11 May 1945. Photographed from on board PCER-855. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.

3.駆逐艦ヒュー・W ハドリ 戦死 30    負傷     121  

 桜花と水上特攻機(第八神風桜花特攻隊及び第二魁隊の水偵)含む4機命中

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USS Hugh W. Hadley (DD-774), seen after completion, in the outer harbour, San Pedro, California, 11 December 1944. US National Archives, 19-N-LCM. Photo # 19-N-75462.

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Starboard side of the aft deck house. From the LTJG Douglas G. Aitken collection.

                

 朝鮮半島出身の特攻戦死者

資料によって異なるが、「他者の特攻」によると、


① 生年月日②戦死した日級③戦死の場所④出生地⑤出身学校⑥所属(隊名)⑦出身期⑧階級⑨特記事項

1. 尹在雄ユンチェウン (松井秀雄)
1924年②1944年11月29日(20歳)③フィリピン・レイテ湾④不明⑤開城商業⑥靖国隊⑦少飛13期⑧伍長 尉⑨朝鮮人特攻戦死者「第一号」とされ、御用新聞『毎日新報』で大きく取り上げられた(1944年12月2日付社説「松井伍長に続こう」)。続いて松井家に総督慰間使が派遣されたこと、母校の校庭で告別式が開かれたことなどが報道された。靖国合祀不明。

2・林長守(本名不明)
1924年②1944年12月7日③フィピン・オルモック湾④大田⑤不明⑥勤皇隊⑦少飛12期⑧伍長→少尉⑨遺族のもとに「大田徴兵翼賛会」が弔問しているように、1944年9月から徴兵制により朝鮮人の入営が始まっていたことから、その状況を後押しするために、利用したか。山本隊長以下10名の隊員は富永中将自らの壮行・別盃の後、(略)山本機の通信員林長守伍長は、レイテ湾上空到着後に「我今より体当りす」と打電した後、通信は途絶した(『陸軍特別攻撃墜モデルアート七月号臨時増刊45・1995年・モデルアート社・61頁)。靖国合祀不明。

3・野山在旭(本名不明)
①不明②1945年1月30日(21歳)③フィリピン・ナスグプ沖④不明⑤不明⑥飛行15戦隊⑦特別幹部候補生⑧不明⑨桝谷健夫編集『血戦特攻隊の記録』2000年・ツバサ広業(株)発行によると、生年は1924年、所属は「海上挺進第一五戦隊」となっている。靖国合祀不明。

4・近藤行雄(本名不明)
朝鮮人ではない可能性があり、遺族を捜して確認する必要がある

 

5・岩本光守(本名不明)
①不明②1945年3月26日③沖縄那覇沖④不明⑤不明⑥独立飛行23中隊⑦航空養成所12期⑧軍曹→少尉⑨7歳の頃に父親について日本に渡り、東京で小学校を卒業後、福岡を経て都城航空機乗員養成所へ入所した。1945年4月22日付毎日新報が「先輩に続く半島神鷲岩本軍曹敵艦に必殺の攻撃」と報道。在日朝鮮人である岩本光守が、なぜ朝鮮の新聞で讃えられたのかは不明。靖国合祀不明。

6・朴東薫パクトンフン (大河正明)
①1928年4月12日②1945年3月29日(18歳)③沖縄本島洋上④成鏡南道⑤興南工業⑥誠41飛行隊⑦少飛15期⑧伍長→少尉⑨靖国合祀。


7・河東繁ハドンハン (河東繁)
① 1926年6月30日②1945年4月16日(18歳)③沖縄周辺洋上④不明⑤不明⑥106振武隊⑦少飛14期⑧伍長→少尉⑨靖国合祀不明。

8・李允範イインボム (平木義範)
1921年又は1923年2月22日②1945年4月22日(21歳又は22歳)③沖縄周辺洋上④全羅南道⑤不明⑥80振武隊⑦航空養成所5期⑧曹長→少尉⑨80振武隊の11人は基本飛行学校の教官、助教で編成され、練習機で特攻したといわれている(桐原久『特攻に散った朝鮮人』)。「留守名簿」によると父親の住所が熊本県八代郡になっていることから在日朝鮮人である可能性がある。靖国合祀不明。

9・朴正碩パクジュンソク (木村正碩)
① 不明②1945年4月28日③沖縄周辺洋上④不明⑤不明⑥77振武隊⑦少飛15期⑧伍長→少尉⑨靖国合祀不明。  

10・卓庚鉱タクキョンヒョン (光山文博)
1920年3月5日②1945年5月11日(24歳)③沖縄飛行場西④慶尚南道⑤京都薬学専門学校⑥51振武隊⑦特操一期⑧少尉→大尉⑨「留守名簿」によると父親の住所が京都市五条区になっている。靖国合祀。

11・尹在文ユンチェムン (東局一文)
①1927年3月10日②1945年5月12日(18歳)③不明④慶尚南道⑤岩倉鉄道学校⑥誠120飛行隊⑦少飛15期⑧伍長→少尉⑨知覧の名簿では日本人になっている。靖国合祀不明。

11.李賢載イヒョンジェ(広岡賢載)

①1926年8月4日②1945年5月27日(18歳)③沖縄周辺洋上④京畿道⑤不明⑥四略30振武隊⑦少飛14期⑧伍長→少尉⑨資料によっては名前が「李賢哉」となっている。金光永と行動をともにしていたといわれ、1945年5月13日付毎日新報は「出撃を控えた半島〇〇二勇士念願は巨艦の撃沈」と報じている。靖国合祀。

12・金光永キムグァンヨン(金田光永)

①1926年10月12日②1945年5月28日(18歳)③沖縄周辺洋上④忠清南道⑤不明⑥431振武隊⑦少飛14期⑧伍長→少尉⑨靖国合祀。

13・盧龍愚ノヨンウ(河田清治)
①1922年12月13日②1945年5月29日(20歳)③静岡県御前崎上空④水原郡松山面⑤京城法律専門学校⑥飛行第3戦隊⑦特操1期⑧少尉→大尉⑨河田宏『内なる祖国へーある朝鮮人学徒兵の死』2005年・原書房において詳しく紹介されている。なお、1945年7月8日付毎日新報は「優等生に陸上選手、皇土防衛の花、法専出身の河田少尉」と讃えている。靖国合祀不明。

14・石橋志郎(本名不明)
① 不明②1945年5月29日(27歳?) ③沖縄周辺洋上④不明⑤不明⑥飛行20戦隊⑦特操一期⑧少尉→大尉⑨朝鮮人であるとされているがその証拠はない。 靖国合祀不明。

15・韓鼎実ハンジョンシル (清原鼎実)
①1925年4月21日②1945年6月6日(20歳)③沖縄周辺洋上④平安北道京城工業⑥121振武隊⑦少飛15期⑧伍長→少尉⑨1945年6月12日に京城中央放送局から彼の肉声が放送された。靖国合祀。

16.崔貞根(高山昇)、17.金尚弼(結城尚弼)は、特攻隊員であるが特攻による戦死ではない可能性がある。

「他者の特攻」

 

 金尚キムサンピル(結城尚弼)についての記載は次のようにある。(一部抜粋)

 「他者の特攻」p130

 延禧専門学校(現、韓国の延世大学校。以下「延専」という)は、一九一五年にアメリカの宣教師が設立した学校で、官立の京城帝国大学に対応する私学の名門といわれていた。私立で、民族意識の高い学校であった「延専」も、一九四一年に朝鮮総督府に接収され、日本人校長が派遣されていた。
京城帝国大学教授の辛島驍(からしまたけし)が、「延専」の校長を兼務していた一九四三年頃は、教授(ほとんどが朝鮮人)約二〇名、学生(全員朝鮮人)五〇〇名で、京城(現、ソウル)の西に広大なキャンパスを有していた。この「延専」に朝鮮軍司令部の参謀長と憲兵がオートバイとサイドカーで乗りつけ、全学生は講堂に集まるよう命じられた。朝鮮軍とは朝鮮を占領する日本軍のことで、一九〇四年に朝鮮に侵攻し、以後、占領軍として朝鮮を支配していた。
「このなかで、大日本帝国の臣民ではないと思う者、手をあげよ」
反抗した者は、ひどく迫害されることを学生の誰もがよく知っていた。だから一人として手を挙げる者はいない。
「ようし、立派だ。それではここに志願書類があるから、志願せよ」
配布されたのは、特操(陸軍特別操縦見習士官)の志願用紙であった。
大日本帝国の臣民でない者は志願しないだろうが、臣民であれば志願するのは当然だからと、全員が志願したことになった。これが当時の「志願」という言葉の意味であった。
キムサンピル(金尚弼)は京城での試験に合格し、東京の航空本部での適性検査にも合格した。
「延専」からの合格者は彼一人だった。
一九四三年九月、「延専」の繰上げ卒業式の日、キムサンピル(金尚弼)の卒業祝いをしようと、彼の母、姉、兄の三人は、校門のところで待っていた。他の卒業生たちは、三々五々、嬉しそうに出てきた。彼の姿だけが、なかなか現れない、と思ううちに、予期しないことが起きた。

 

  急にエンジン音がしたと思ったら、憲兵下士官の運転するサイドカーに乗せられた尚弼が、真っ青な顔を引きつらせて、口を真一文字に結んだまま、横も後ろも振り向かず、わたしたち家族の横を通過してしまったのです。みな、一瞬、立ちすくみましたが、すぐに姉と母が、ブイゴーアイゴーと泣き叫びはじめました。歳老いた母はとうとう失神して、そこに倒れました。
延禧(「延専」)では、ただ一人の合格者ですからね、もし卒業して家に帰したら、逃亡するかもしれない、と軍は考えたのでしょう。そして、まるで罪人を拉致するように、連れ去ってしまったのです。

(桐原久『特攻に散った朝鮮人』1988年・講談社229、130頁)

以上がキムサンピル(金尚弼)の兄、キムサンヨル(金尚烈)が語る、弟が強制的に家族から引き離されたときの様子である。

 朝鮮軍はメディアを通じて特操への志願を促したが、応募は少なく、第一回の募集で、朝鮮では七七人が身体検査に合格したものの、うち朝鮮人は七人しかいなかった。日本では、この制度に合格すれば、最下級の二等兵(初年兵)を経験する必要がないことから応募者が殺到した。しかし、朝鮮での場合、朝鮮人合格者が少なかったということは、合格者のほとんどが、朝鮮の大学・高専校に通う朝鮮在住の日本人学生だったことになる。
こうしてキムサンピル(金尚弼)は、自分の意思を介在させることなく、卒業と同時に日本陸軍の軍人にされ、学徒兵と呼ばれることになった。

 

金尚弼(結城尚弼)が特攻隊員に指名されたのが1945年2月11日。そして戦死したのが4月3日。この間、彼は「何のために死ぬのか」と苦悩し、それを兄との対話という形で残している。
彼の兄、キムサンヨル(金尚烈)によると、「延専」の校門で弟を見送った後、一年以上経ってから、弟より「満州」の敦化の飛行隊にいるから面会に来てほしいと連絡があったという。特操出身者は一年で将校になれたことから、家族に将校になった姿を見せたかったのか、あるいは、将校になったことで教官からの暴力から逃れることができ、精神的余裕ができたために家族に会いたいと思った

日本陸軍将校の軍服を着た弟の姿に驚いた母と兄だが、その夜、兄は弟に必死で逃亡を勧めた。
「日本のためなんかに一生懸命働くことなんかないよ。幸か不幸か飛行機乗りになったのだから、これを活用して逃げろよ、中国か台湾へ中国には朝鮮臨時政府もあるだろう。また台湾にも独立運動の拠点があるそうだ」と勧める兄に対して、弟は「もし僕が逃げたら、やっぱり朝鮮の奴らは卑怯だと、朝鮮全体が馬鹿にされるのです。僕は日本陸軍で朝鮮を代表しているのです。(略)もしここで逃げたら、残った母さんや兄さんたちに日本の憲兵隊からどんなひどい目にあうか……だから僕は絶対逃げませんよ」と応えた.

 1945年2月14日、特攻隊である誠三二飛行隊は「満州」の平台飛行場から九州に向かった。途中、給油のため平壌(現、ピョンヤン)に着陸。ここで二泊するという連絡を受けた兄、キムサンヨル(金尚烈)は平壌の旅館に駆けつけた。
 弟、金尚弼(結城尚弼)は特攻隊員となったことを告げ、「特攻隊員といっても、そう心配することはありませんよ。もう飛行機も足りなくなっていて、いつ出撃できるかわからない」としながら、「今晩は最後になるかもしれないから、じっくり話しましょう」と兄にいった。
 このとき弟は整備兵の今野喜代人を伴って、三人で食事をしており、戦争を生き延びた今野は、「三人で食事をしながら話をしました。でも大事なことになると、会話は朝鮮語になってしまうので、私にはわかりませんでした。当時は朝鮮語は禁止されていたのですが、二人は私の前で堂々と朝鮮語で話をしていました。ただ二人とも目に一杯の涙をためて、真剣に話しているので、私は死に行く心境をこもごも語りあっているのだなあ、と思いながら聞いていました」と語っている。
 兄によると、このときも弟は、逃亡を勧める兄に対して、「兄さんの言うように飛行機だから、逃げる気なら逃げられます。でも、逃げて生きてみても民族のためにどれだけ今の状況で尽くせますか」と、逃亡という選択肢を否定したという。
  

3月28日、99式襲撃機の500㎏爆弾搭載のための機体改造が終わり、松本市を飛び立った金尚弼(結城尚弼)ら六機は宮崎県の新田原基地に到着した。
4月1日、アメリカ軍、沖縄本島上陸。この日のうちに沖縄の北、中飛行場を制圧。
4月2日、金尚弼(結城尚弼)は遺書を書き、「延専」の校長、辛島驍に送る。
4月3日、六機は沖縄に向かった。彼が遺書の通り行動したとしたら、その後、他の五機が突入したのを見届けてから、沖縄着陸を試みた後再度飛び立って敵艦戦に突入したことになる。

 

「他者の特攻」ではキムサンピル(金尚弼)は特攻隊員となったが、特攻で米軍艦船に突入はしなかったのではないかと幾多の資料を基に推定している。

 

防衛庁防衛研修所戦史室「戦史叢書ー沖縄・台湾・硫黄島方面陸軍航空作戦」1970年446頁によると

「結城少尉は部下を目標上空まで誘導し、その攻撃状況を確認のうえ、沖縄に着陸報告し、爾後再び離陸して、自ら特別攻撃を敢行した」と書く。

 

「他者の特攻」では、

 この記述を信じる者は、アメリカ軍が制空権を掌握している沖縄に、着陸するだけでも大変であるのに、着陸を成功させた後、再び離陸して、特攻するとは「神業に近いことで、凄いことをやった特攻隊員がいた」と高く評価する。
 時は1945年4月3日、アメリカ軍が沖縄本島に上陸して三日目であった。沖縄本島の北(読谷)と中(嘉手納)飛行場はアメリカ軍によって制圧されていたが、南(那覇)飛行場は、まだ日本軍が確保していたので、「沖縄着陸」は全く不可能なことではなかった。しかし、すぐ傍にはアメリカ上陸軍がおり、海上には1400隻の大艦隊がいる中で、目標を見つけたら即体当たりするよう求められていた特攻機が、なぜ、このような難しいことをやらなければならなかったのか、実際に突入できたのか、したのかと疑問を呈している。

 

日本軍の記録では結城少尉は1945年4月3日 誠第三十二飛行隊武克隊6機の隊長として九九式襲撃機に搭乗し沖縄西方洋上で特攻戦死となっている。

この日陸軍は第22振武隊2名(一式戦)第23振武隊5名(99式襲撃機)第62振武隊(99式襲撃機)1名、石垣・宜蘭より三式戦6名を含め20名が特攻出撃戦死した。

海軍も39名が特攻出撃戦死した。

主な戦果は護衛空母ウエークアイランドへの至近距離突入程度しか米軍記録にはない。

 

更に引用を続ける。

朝鮮人最初の特攻戦死者といわれる尹在雄ユンチェウン(松井秀雄)がフィリピンで戦死したのは1944年11月で、朝鮮総督府御用新聞であった『毎日新報』は「朝鮮人特攻第一号」を大々的に報道した。
次いで、林長守(本名不明)、岩本光守(本名不明)の突入が報道され、彼らの生い立ちや戦果を大きく伝えた。朝鮮人特攻戦死者は「半島の神鷲」と呼ばれ、遺族も讃えられ、生家は「誉の家」と称された。さらに、彼らの死には、二階級ではなく、四階級特進という恩典が与えられたことも新聞は伝えた。これにより少飛出身の朝鮮人特攻戦死者八人全員が四階級特進し、伍長から少尉になっている。
沖縄戦における最初の朝鮮人特攻戦死者、朴東薫(大河正明)の死も、総督府によって徹底的に利用された。彼の戦死の通知が父親のもとに届くと、朝鮮総督(第九代・阿部信行)が家まで弔問に来るという知らせがあり、村中が大騒ぎになったという。

 

朝鮮半島出身の著名日本軍人

洪 思翊(こう しよく、ホン・サイク、1889年3月4日 - 1946年(昭和21年)9月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。

日本の中央幼年学校に国費留学し、首席で卒業した後、間もなく陸軍士官学校に進学。

1923年(大正12年)には陸軍大学校(35期)も卒業。 旧韓国軍・日本陸軍士官学校時代からの旧友である韓国光復軍司令官池青天から、大韓民国臨時政府に加わったらどうかと誘われたが、朝鮮の独立には未だ時機が至っておらず、今立ち上がることは良策ではないとして、旧友の招聘を断った。だがその一方で、池青天を含む旧韓国軍出身の抗日活動家と秘密裏に友情を保ち、その家族を自費を以て支援したり(これは一歩間違えば洪本人にも危険が及ぶ行為であった)、創氏改名が行われた時も、最後まで改名を行わず、姓の洪をそのまま氏とした。1944年(昭和19年)3月に比島俘虜収容所長としてフィリピンに赴任、同年10月陸軍中将に進級、同年12月には在比第14方面軍兵站監となって終戦を迎えた。連合国軍から、捕虜収容所長時代に食糧不足から捕虜に十分給養できなかった責任を問われた洪は、軍人として弁解や証言することを潔しとせず、自らについては一切沈黙を守った。但し自身の法廷では沈黙を続けたため一切の証言記録が残っていないが、他の戦犯被告人を弁護するための証言は積極的に行ったため、洪の置かれた状況や心情は他の裁判記録によって間接的に窺い知ることができる。韓国国内では日本の陸士同期生などを中心にマスコミで救命運動が行われたが、結局流れを変えることはできなかった。その結果、マニラ軍事法廷で戦犯者として1946年4月18日に死刑判決を受け、同年9月26日にマニラで処刑された。(ウィキペディア

 

李 應俊(イ・ウンジュン、1890年8月12日 - 1985年7月8日)は、大日本帝国陸軍及び大韓民国陸軍の軍人。最終階級は、日本軍人としては大佐、韓国軍人としては中将。本貫は商山李氏(상산이씨)。号は秋研(チュヨン、추연)。創氏改名による日本名は香山 武俊(かやま たけとし)。1914年に陸軍士官学校(第26期)を卒業。同年12月25日、少尉に任官。同期には栗林忠道、洪思翊、池青天などがいる。第二次日韓協約締結と同時に、李甲が独立運動に身を投じてからは、李應俊自身も独立運動に加担するようになった。1919年に三・一独立運動が起きた際は、金擎天や池青天と共に中国への亡命を試みた。しかし金と池が亡命を決行して武装蜂起による独立運動を行ったのとは異なり、李は洪思翊などと同様に日本軍に留まり続けた。終戦の一報が入ると同時にソウルへ向かった。
以後、アメリカ軍政庁の軍事顧問に委嘱され、韓国軍を創設する際には、金錫源などと共に主導的な役割を担った。1947年に第5旅団、第1旅団を歴任。1948年に大韓民国政府が樹立された際は、初代陸軍参謀総長に就任した。1952年に現役に復帰し、陸軍大学総長。総長在任中に中将に昇進。1985年に亡くなった際は、葬儀は陸軍葬で行われ、遺体は国立ソウル顕忠院に埋葬。2007年に親日反民族行為真相糾明委員会が選定した親日反民族行為195人名簿の軍人部門にも選定され、公式に親日反民族行為者に認定されている。

 

朴 正煕(パク・チョンヒ、朝鮮語: 박정희、日本語読み: ぼく せいき、1917年11月14日 - 1979年10月26日)
1942年3月23日 - 満州国軍軍官予科を首席卒業。
1942年 - 日本陸軍士官学校編入(57期相当)。
1944年 4月20日 - 日本陸軍士官学校を三番で卒業

1961年の軍事クーデターで国家再建最高会議議長に就任し、1963年から1979年まで大統領(第5代から第9代)『漢江の奇跡』と呼ばれる高度経済成長が実現。「独裁者」との批判的評価も受けている。 1979年に側近の金載圭によって暗殺。娘は朴槿恵18代大統領。

 

朝鮮\台湾における日本軍志願兵 

『朝鮮及台湾ノ現状/1 朝鮮及台湾ノ現況 1』 アジア歴史資料センター Ref.B02031284700

    募集数   志願者数    台湾 募集数  志願者数

1938年   406 人           2,946 人                    

1939      613              12,528      

1940    3060              84,443

1941    3208            144,743

1942    4077            254,273                              1,020      425,961

1943    6300            303,294                              1,008      601,147

1944                                                                   2,497      759,276 

 

朝鮮での徴兵

1944/45 陸軍 207,703 海軍   22,299  軍属・軍要員 384,514  合計 614,516人

「未来を開く歴史」143頁

 

朝鮮半島・台湾出身の軍人軍属

厚生労働省(1990年、1993年返還名簿・当時厚生省援護局)の統計

地域      分類 動員           復員       不明又は戦没 不明又は戦没率
朝鮮      全体   242,341人       240,159人      22,182人   9.2%
        軍人  116,294人        110,116人      6,178人   5.3%
        軍属  126,047人        110,043人    16,004人     12.7%
台湾      全体     207,183人     176,879人    30,304人     14.6%
        軍人    80,433人       78,287人       2,146人      2.7%
        軍属   126,750人         98,590人       28,160人    22.2%
日本本土 全体 7,814,000人   5,514,000人   2,300,000人     29.4%

wikipidia

靖国神社には朝鮮人戦死者2万1000人が合祀されているという

 

韓国側の主張

(第六次韓日会談請求権関係資料1963)

地域   分類 動員    復員    不明又は戦没  
朝鮮  全体   365,000人 300,000人  65,000人    

 

「在日韓国・朝鮮人の補償・人権法」   

志願兵(1938-43)  20,664   

徴兵 陸軍        186,980

          海軍             22,290

軍属                  145,010

合計               374,944      復員 224,600

  

BC級戦犯の裁判の結果 (中国とソビエト分を除く)        
地域        有罪        死刑
朝鮮        129人      14人
台湾        173人     26人
日本本土 5369人   922人

 

日本のために軍人になったわけではないかもしれないが、すくなくとも日本の軍人として戦死したり、また戦犯になり処刑された方々がいたことを心に刻む。特攻隊員になり特攻戦死した方々も然り。さらに多くの軍属(軍人ではなく軍に属する通訳、捕虜監視、土木工事、工場動員など)も輸送中に輸送船が撃沈されたり、戦闘員として戦死することもあった。

 

 台湾出身特攻隊員

劉志宏(1923-1944)泉川正弘

新竹州出身 東京陸軍航空学校、所沢陸軍航空整備学校で飛行訓練

陸軍少年飛行兵(第11期)となり、操縦士ではないが通信、測量、射撃任務

1944年12月14日菊水隊 レイテ沖海戦において撃墜戦死

「日本人はなぜ特攻を選んだか」

 

高砂義勇隊

1944年11月26日45人の台湾高砂族の兵士によるフィリピン 米軍ブラウエン飛行場強襲により全員戦死。その他多くの高砂族が従軍した。軍人ではなく軍属であったが、勇猛果敢に戦い、戦死者の割合も高かった。戦後、靖国神社合祀に関し魂を祖国台湾に戻す係争や、未払い給与の係争がある。wiki

 

 

 

朝鮮人労働者

 日本が大韓帝国を「併合」した年(1910年)、日本に在住する朝鮮人は2600人しかいなかったが、敗戦時1945年には、220万6541人であった。36年間で850倍に増大した。特に、強制連行が開始された1939年以降、日本に連行される朝鮮人は年間20万人以上となり、その総数は、72万4787人にのぼった。

 

 1937年に日中戦争が始まり、広大な中国を相手にするには、膨大な軍隊と軍需品が必要となり、日本は軍需景気にわいた。生産の拡大により労働力不足が起こり、さらに男性労働者が兵士として動員されたため労働力不足が深刻化した。特に石炭鉱業における労働力不足が深刻になり、こうした労働力を補うために、朝鮮人の動員が閣議決定された(1939年)。政府は「朝鮮人労務者内地移住に関する件」を定め、総督府は「朝鮮人労務者募集並渡航取締要綱」を制定した。
 この閣議決定によって8万5000人の朝鮮人の「移入」が決められ、最初は、日本企業が朝鮮で集団的募集をする自由を政府が認め、地域を割り当て、その地域の日本人警官などが協力する「募集」として行われた。

 1942年「募集」が閣議決定で停止され、新たに「官斡旋」が行われることになった。これは、総督府の外郭団体などが動員計画に基づいて、労働者の募集と日本までの連行を行い、日本企業に引き渡すというもので、朝鮮人をさまざまな口実で警察に連行し、そこで「応募」を強制し、その場から日本に連行するなどが行われた。

 その結果、1941年まで60%台であった達成率は、42年度には92%に高まり、43年度には102%となって「超過達成」となった。この頃から、日本側は朝鮮人労働者を臨時的労働力の対象として見ることをやめ、量的にも質的にも基幹労働力と見るようになった。
「官斡旋」でも企業等の要請に応じられなくなると、1944年9月に「徴用令」を適用し、朝鮮人を徴用することが閣議決定された。この徴用から逃れるために中国への逃亡や集団的な抵抗もあったが、日本は必要な労働力をいつでも動員できるようになった。こうした政府の動員計画に基づく労働力動員の全過程が「強制連行」と定義されており、これによって72万4787人の朝鮮人が日本に強制連行された。

 

 1942年頃から、生活必需品の不足と、闇経済の横行から日本人労働者の不満が高まったため、政府は労働統制に努めた。統制強化で労働争議などを封じ込められた労働者は、強い閉塞感から自然発生的な怠業(遅刻、早退、欠勤)を全国的に発生させた。
1942年、日本人労働者の争議が減少する中で、強制連行された朝鮮人労働者は、危険な労働現場への強制配置による高い死傷率や差別賃金への怒りから、争議を増大させた。

1940年の朝鮮人労働者のストライキサボタージュ、抗争は197件、参加1万5300人。1943年、274件、1万5164人。

1944年、303件、1万5730人と増え、

特に、「集団暴行・直接行動」の増加.

1943年、147件。

1944年、255件

は政府、経営者に衝撃を与えた。
さらに、最後の抵抗として「逃亡」があった。捕まったら残酷なリンチが待っていた逃亡だが「強制連行が開始された1939年から3ヶ年問に炭鉱では35.6%が逃亡したとの数字がある(朝鮮人強制連行調査団)。また別の調査では、39年から45年3月まで連行朝鮮人のうち22万余名が逃亡したという数字がある. 

「国民動員と抵抗」岩波講座日本歴史21近代8 188頁

 

戦後の朝鮮人軍人 

 (財)石川県教育文化財団が上梓した『自分史・戦争と私』は、石川県在住の戦争経験者の体験談をまとめたもので、記載されている172人の中で、唯一人、朝鮮人として本名で登場しているのがペタンウォン(裵旦元)である。彼は戦争を生き延びた在日朝鮮人として、戦後、次のように生きた。
彼は五歳のときに朝鮮から日本に移住し、1942年に徴兵され、すぐにトラック諸島に送られた。最下層の二等兵であった。この島で四年間戦い、敗戦を迎えた。敗戦の少し前、アメリカ軍の爆撃が続き、陣地の構築ができなくなると、軍属として働かされていた多くの朝鮮人が「喰いつぶしや」と日本人将兵にののしられた。敗戦を知ると朝鮮人軍属たちは「虐待した者を出せ、暴行した者を引き出せ、と暴れ狂い、暴れに暴れた」。
この暴動は上陸してきたアメリカ軍によって鎮圧されたが、朝鮮人軍属は特別待遇を受け、真っ先に本国に帰還した。「同じ同胞でありながら私は兵隊であったために仲間に入れてもらえなかった」。その後、捕虜生活を送り、1946年2月、日本への引き揚げ船が来た。アメリカ軍の捕虜として働かされていた期間の賃金が支給された。「日本兵は外地にいると一年を四年と計算されたが、朝鮮籍の私は四倍にしてもらえなかった。日本のために、日本兵として命を捨てる覚悟をしていたのに」。
日本に着くと、復員局の役人から、家族は朝鮮に引き揚げているからもういない、このまま朝鮮に帰るように何度も勧められた。迷いに迷って、石川県に行ってみて家族がいなかったら朝鮮に帰ろうと思った。辰口町(現、能美市)に帰ると、家族全員が元気で暮らしていた。「トラック諸島から生きて帰って、五〇年、恩給も手当てもなく苦労してきた」。
戦時中、朝鮮人軍属がいかに虐げられていたか、1946年時点の日本の政策が、在日朝鮮人を追い出そうと(本国に帰そうと)するものであったことがよく判る証言であろう。
敗戦時、日本には約200万人の朝鮮人がいたといわれている。朝鮮の人口の一割に届こうとするこの数は、植民地支配によるもので、支配がなかったら存在しない数であった。朝鮮が解放されると、これらの人々は帰国したが、財産の持ち出しに厳しい制限がかけられていたために、朝鮮に生活基盤のない人は帰ることができず、約65万人が日本にとどまり、在日朝鮮人となった。
GHQ在日朝鮮人、在日台湾人を「解放民族」としながらも、一方で「敵国人」としても扱おうとし、日本政府も、「戸籍法の適用を受けない者は、当分の間、参政権を停止する」として、徴兵という血の代償として朝鮮人が得た国政参政権は一度も行使されないまま権利を停止し、いまだに停止されたままになっている。
日本国憲法が施行される前日の1947年5月2日、天皇の最後の「勅令」として「外国人登録令」が施行された。これにより、旧植民地出身者は「当分の間、外国人とみなす」とされ、強制退去の対象とされた。
日本人になるよう強要され、天皇のために死ぬよう求められた旧植民地出身者は、天皇の名において簡単に切り捨てられた。
日本人になるように強要しておいて、戦争に負けた途端、日本人にはしないと前言を翻したことになる。

 ただし、旧植民地出身者にすれば、日本人になる必要などなかったし、なりたくもなかっただろう。問題は、旧植民地出身者は植民地支配の被害者であるのに、被害者としての立場が認められず、加害者である日本人が居直ることによって、人権や民族性を回復する機会を奪われ、日本社会において、再び差別の対象になったことにある。
 ヨーロッパ諸国は植民地を放棄する際には、旧植民地の人々の国籍の選択権を認め、さらに二重国籍を認めた。日本は有無をいわさぬ形で国籍を剥奪し、切り捨てた。これは、日本が戦争責任と植民地支配責任から逃げたことを意味し、当事者の意思を無視した一方的な国籍剥奪は、日本国内においては、旧植民地出身者に対する植民地支配を継続するとの宣言でもあった。このときより、日本在住の旧植民地出身者は日本国籍がないことを理由に、戦後補償や社会保障から排除されることになった。
 旧植民地出身者とその子孫らによる粘り強い闘いにより、近年、社会保障が受けられるようになるなど、差別はなくなりつつあるが、居住する根拠が「永住権」ではなく「永住資格」であるために、国籍による差別(戦後補償は受けられず、公務員になれず、参政権がない)は、いまだに継続している。