きけ わだつみの こえ

きけ わだつみのこえ』は第二次世界大戦末期に戦没した日本の学徒兵の遺稿集。

1947年(昭和22年)に東京大学協同組合出版部により編集されて出版された東京大学のみの戦没学徒兵の手記集『はるかなる山河に』を母体として、ひろく全国の大学高等専門学校(旧制)出身の戦没学生の遺稿を募り1949年(昭和24年)10月20日に出版された。BC級戦犯として死刑に処された学徒兵の遺書も掲載されている。

4月22日に日本戦没学生記念会わだつみ会)が結成された。


1963年(昭和38年)に続編として『戦没学生の遺書にみる15年戦争』が光文社から出版され、1966年(昭和41年)に『第2集 きけ わだつみのこえ』に改題された。 

 

1995年12月に「新版 きけわだつみのこえ」が岩波文庫で刊行

旧版支持者から「誤りが多い」、「遺族所有の原本を確認していない」、「遺稿が歪められている」、「遺稿に無い文が付け加えられている」、「訂正を申し入れたのに増刷でも反映されなかった」といった批判を浴びる

1998年(平成10年)、中村克郎らが新たに「わだつみ遺族の会」を結成。うち中村克郎と西原若菜が遺族代表として、わだつみ会岩波書店に対して「勝手に原文を改変し、著作権を侵害した」として新版の出版差し止めと精神的苦痛に対する慰謝料を求める訴訟を起こす。

原告が提出した原本と新版第一刷の対照データをもとに岩波書店が修正した第8刷を1999年(平成11年)11月に出版し提出した結果、翌12月、原告は「要求のほとんどが認められた」として訴えを取り下げた。ただし、新版は中村ら原告側が編集に携わっている『はるかなる山河に』などを源泉として作成されており、裁判では誤りを自ら訂正しなかった原告を含めた双方に過失があると判断された。

ウィキペディア及び「きけわだつみのこえ戦後史」参照

 

様々な議論が交わされてきたが、戦争に投げ込まれ殺し殺された若者の悲痛な叫び,

時に冷静で理性的な声、に耳を傾け、忘れず同様なことが起きないよう。

 

1982年7月16日第一刷発行

1994年5月6日第35刷発行

編者 日本戦没学生記念会わだつみ会

発行 岩波書店

 

感想(旧版序文)

渡辺一夫

本書は、先に公刊された『はるかなる山河に』の続篇である。編集に当っては、組合出版部の方々が論議を重ね、その結論を顧問格の僕が批評し、更に出版部の人々が協議して、ようやく方針が決定したのである。僕としては、全体の方針を、肯定し、適切だと思っている。初め、僕は、かなり過激な日本精神主義的な、ある時には戦争謳歌にも近いような若干の短文までをも、全部採録するのが「公正」であると主張したのであったが、出版部の方々は、必ずしも僕の意見には賛同の意を表されなかった。現下の社会情勢その他に、少しでも悪い影響を与えるようなことがあってはならぬというのが、その理由であった。僕もそれはもっともだと思った。

その上僕は、形式的に「公正」を求めたところで、かえって「公正」を欠くことがあると思ったし、更に、若い戦没学徒の何人かに、一時でも過激な日本主義的なことや戦争謳歌に近いことを書き綴らせるにいたった酷薄な条件とは、あの極めて愚劣な戦争と、あの極めて残忍闇黒な国家組織と軍隊組織とその主要構成員とであったことを思い、これらの痛ましい若干の記録は、追いつめられ、狂乱せしめられた若い魂の叫び声に外ならぬと考えた。そして、影響を顧慮することも当然であるが、これらの極度に痛ましい記録を公表することは、我々として耐えられないとも思い、出版部側の意見に賛成したのである。その上、今記したような痛ましい記録を、更に痛ましくしたような言辞を戦前戦中に弄して、若い学徒を煽てあげていた人々が、現に平気で平和を享受していることを思う時、純真なるがままに、煽動の犠牲になり、しかも今は、白骨となっている学徒諸氏の切ない痛ましすぎる声は、しばらく伏せたほうがよいとも思ったしだいだ。

しかし、それでも本書のいかなる頁にも、追いつめられた若い魂が、ー自然死ではもちろんなく、自殺でもない死、他殺死を自ら求めるように、またこれを「散華」と思うように、訓練され、教育された若い魂が、若い生命のある人間として、また夢多かるべき青年として、また十分な理性を育てられた学徒として、不合理を合理として認め、いやなことをすきなことと思い、不自然を自然と考えねばならぬように強いられ、縛りつけられ、追いこまれた時に、発した叫び声が聞かれるのである。この叫び声は、僕として、通読するのに耐えられないくらい悲痛である。それがいかに勇ましい乃至潔い言葉で綴ってあっても、悲痛で暗澹としている。(後略)

 

上原良司
慶応大学経済学部学生。昭和18年12月入営。1945年5月11日陸軍特別攻撃隊員として沖縄嘉手納湾の米国機動部隊に突入戦死。22歳。

遺書

生を享けてより二十数年何一つ不自由なく育てられた私は幸福でした。温かき御両親の愛の下、良き兄妹の勉励により、私は楽しい日を送る事ができました。そしてややもすれば我儘になりつつあった事もありました。この間御両親様に心配をお掛けした事は兄妹中で私が一番でした。それが何の御恩返しもせぬ中に先立つ事は心苦しくてなりません。
空中勤務者としての私は毎日毎日が死を前提としての生活を送りました。一字一言が毎日の遺書であり遺言であったのです。高空においては、死は決して恐怖の的ではないのです。このまま突っ込んで果して死ぬだろうか、否、どうしても死ぬとは思えませんでした。そして、何かこう突っ込んで見たい衝動に駈られた事もありました。私は決して死を恐れてはいません。
むしろ嬉しく感じます。何故なれば、懐しい龍兄さんに会えると信ずるからです。
天国における再会こそ私の最も希ましい事です
私は明確にいえば自由主義に憧れていました。日本が真に永久に続くためには自由主義が必要であると思ったからです。これは馬鹿な事に見えるかも知れません。それは現在日本が全体主義的な気分に包まれているからです。しかし、真に大きな眼を開き、人間の本性を考えた時、自由主義こそ合理的になる主義だと思います。
戦争において勝敗をえんとすればその国の主義を見れば事前において判明すると思います。人間の本性に合った自然な主義を持った国の勝戦は火を見るより明らかであると思います。私の理想は空しく敗れました。人間にとって一国の興亡は実に重大な事でありますが、宇宙全体から考えた時は実に些細な事です。
離れにある私の本箱の右の引出しに遺本があります。開かなかったら左の引出しを開けて釘を抜いて出して下さい。
ではくれぐれも御自愛のほどを祈ります。
大きい兄さん清子始め皆さんに宜しく、
ではさようなら、御機嫌よく、さらば永遠に。
良司
ご両親様


所感
栄光ある祖国日本の代表的攻撃隊ともいうべき陸軍特別攻撃隊に選ばれ、身の光栄これに過ぐるものなしと痛感致しております。
思えば長き学生時代を通じて得た、信念とも申すべき理論万能の道理から考えた場合、これはあるいは、自由主義者といわれるかも知れませんが自由の勝利は明白な事だと思います。人間の本性たる自由を滅す事は絶対に出来なく、例えそれが抑えられているごとく見えても、底においては常に闘いつつ最後には必ず勝つという事は彼のイタリヤのクローチェもいっているごとく真理であると思います。権力主義の国家は一時的に隆盛であろうとも必ずや最後には敗れる事は明白な事実です。我々はその真理を今次世界大戦の枢軸国家において見る事が出来ると思います。ファシズムのイタリヤは如何、ナチズムのドイツまた、既に敗れ、今や権力主義国家は、土台石の壊れた建築物のごとく次から次へと滅亡しつつあります。真理の普遍さは今、現実によって証明されつつ過去において歴史が示したごとく未来永久に自由の偉大さを証明して行くと思われます。自己の信念の正しかったこと、この事はあるいは祖国にとって恐るべきことであるかもしれませんが吾人にとってはうれしい限りです。現在のいかなる闘争もその根底をなす
すものは必ず思想なりと思う次第です。既に思想によって、その闘争の結果を明白に見ることができると信じます。

愛する祖国日本をして、かつての大英帝国のごとき大帝国たらしめんとする私の野望はついに空しくなりました、真に日本を愛する者をして、立たしめたなら日本は現在の如き状態にあるいは追い込まれなかった思います。世界どこにおいても肩で風を切って歩く日本人、これが私の夢見た理想でした。
空の特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬと一友人がいったことは確かです。
操縦桿を採る器械、人格もなく感情もなくもちろん理性もなく、ただ敵の航空母艦に向って吸いつく磁石の中の鉄の一分子にすぎぬのです。理性をもって考えたなら実に考えられぬ事で強いて考えうれば、彼らがいうごとく自殺者とでもいいましょうか。精神の国、日本においてのみ見られることだと思います。一器械である吾人は何もいう権利もありませんがただ、願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を、国民の方々にお願いするのみです。
こんな精神状態で征ったならもちろん、死んでも何にもならないかも知れません。故に最初に述べたごとく特別攻撃隊に選ばれた事を光栄に思っている次第です。
飛行機に乗れば器械に過ぎぬのですけれど、いったん下りればやはり人間ですから、そこには感情もあり、熱情も動きます。愛する恋人に死なれた時、自分も一緒に精神的には死んでおりました。天国に待ちある人、天国において彼女と会えると思うと死は天国に行く途中でしかありませんから何でもありません。明日は出撃です。過激にわたり、もちろん発表すべき事ではありませんでしたが、偽わらぬ心境は以上述べたごとくです。何も系統だてず思ったままを雑然と述べた事を許して下さい。明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。彼の後姿は淋しいですが、心中満足で一杯です。
いいたい事をいいたいだけいいました。無礼を御許し下さい。ではこの辺で。
出撃の前夜記す。

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第五十六振武隊 三式戦に搭乗し知覧より出撃

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三式戦闘機


5月11日知覧を発進戦死した陸軍特攻隊は34名

第44振武隊 一式戦 1機

第49振武隊 一式戦 2機

第51振武隊 悠久隊 一式戦 7機  朝鮮半島出身・光山文博(卓庚絃)を含む

第52振武隊 一式戦 3機

第55振武隊 三式戦 3機

第56振武隊 三式戦 3機   上原良司を含む、全て特操2期の少尉 

 第60振武隊 四式戦 1機

第61振武隊 四式戦 3機

第65振武隊 九七式戦 3機

第70振武隊 一式戦 3機

第76振武隊 九七式戦 3機

第78振武隊桜花隊 一式戦 1機 (喜界島より出撃)

誠第41飛行隊芙揺隊 九七式戦 1機 (沖縄中基地より出撃)

 

特別操縦士出身1期7名 京都薬学専門学校出身(朝鮮半島出身)の

            光山文博(卓庚絃)を含む

       2期6名 慶応大学出身の上原良司を含む 

少年飛行兵 13期 8名  1941/42年に14歳で少年飛行学校へ入校、17/18歳か

      14機 2名

      15期 2名

陸士(陸軍士官学校)出身 57期(1942/7入校1944/3卒業) 3名

下士官操縦学生 93期1名

幹部候補生 8期 9期 2名

米子乗員養成所 2名

仙台乗員養成所 1名

 

 5月11日は海軍も103名出撃戦死した。

鹿屋基地から

第八神風桜花特別攻撃隊 桜花と一式陸攻 各3機 24名

神雷部隊第10建武隊 零戦52型 爆装500㎏ 4機

第5筑波隊 同上9機

第7七生隊 同上1機

第6神剣隊 同上4機

第6昭和隊 同上2機

第7昭和隊 同上6機 空母バンカーヒルを大破した安則盛三、小川清を含む

 

串良基地から

水雷桜隊 天山爆装800㎏10機30名

 

宮崎基地から

第9銀河隊 銀河爆装800㎏6機18名

 

指宿基地から

第2魁隊 零式水偵・94水偵 各1機 爆装800㎏ 4名

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 5月11日特攻による米軍被害「ドキュメント神風」

                       戦死行方不明  負傷   

空母バンカーヒルAircraft Carrier Bunker Hill (CV-17)     402    264

   第7昭和隊 海軍鹿屋基地出撃 旅順師範出身 13期予備学生 安則盛三中尉

 第7昭和隊 海軍鹿屋基地出撃 早稲田大学出身 14期予備学生 小川清中尉

  いずれも爆装500㎏の零戦52型にてBunker Hill CV-17に突入、空母の戦死者402名

  負傷者264名、特攻機による単一艦艇の被害では最大と思われる。

       

駆逐艦エバンズ destroyer Evans (DD-552)              戦死  32     負傷      27

Eight days later, May 10, 1945, she got underway with Hugh W. Hadley for a radar picket station northwest of Okinawa. During the first night on station, 10–11 May, enemy planes were constantly in evidence; more than a hundred attacked the two destroyers and the two LCSs with them. Evans fought determinedly against this overwhelming assault, shooting down many of them, but in quick succession, four kamikazes struck her. After engineering spaces flooded, and she lost power, Evans' crew strove to save her, using portable fire extinguishers and bucket brigades.   They succeeded, though 32 were killed and 27 wounded, and the ship was towed into Kerama Retto on 14 May for repairs. 

wikipedia

 

駆逐艦ヒューWハドリ destroyer Hugh W. Hadlley DD-774   戦死30    負傷121

 In a mass kamikaze attack on May 11, 1945, the destroyer Hugh W. Hadley (DD-774) shot down 23 planes including three that crashed into the ship at Radar Picket Station #15 to the northwest of Okinawa. The number of planes shot down by Hadley's gunners was a naval record for a ship in a single action. The kamikaze attacks over a period of one hour and 40 minutes resulted in 30 deaths and 121 wounded among the Hadley crew. The destroyer Robley D. Evans (DD-552), which fought with Hadley at the same picket station, shot down another 19 Japanese aircraft during the mass kamikaze attack.

 As the kamikaze with 40mm shells streaking into it dove towards the ship's deck, he released a small bomb. The bomb made a direct hit on the portside 40mm (44 mount) and the plane crashed into the deck just aft of the quad 40mm (43 mount) on the starboard side. When the bomb hit the base of the 44 mount, the entire gun just disappeared out to sea. Nothing was left of the mount or most of the men manning it. The plane penetrated the after deck house of the starboard quad 40mm and destroyed the officer quarters below. Flaming gasoline sprayed crewmen on nearby guns. Fires raged and magazines were exploding sending shrapnel through any man who was in the way.

 Kamikaze Destroyer: USS Hugh W. Hadley (DD774)
by Jeffrey R. Veesenmeyer
Merriam Press, 2014, 320 pages

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Hugh W. Hadley DD-774

特攻機3機命中の他

第八神風桜花特別攻撃隊3機の内 高野次郎中尉 金沢高工 予備学生13期突入
「神雷部隊始末記」
 

 

沖縄戦と特攻 

 

4月1日、大本営では「昭和二十年度前期陸海軍戦備ニ関スル申合」が行われ、

「陸海軍全機特攻化」が決定された。同日、連合国軍は沖縄本島に上陸を開始した。

 

4月6日正午、海軍の特攻作戦「菊水一号作戦」と陸軍の作戦「第一次航空総攻撃」が発令された。4月6日海軍特攻隊は291名が出撃戦死、陸軍特攻隊は63名が出撃戦死。

 

5月5日沖縄の陸軍地上部隊は総攻撃をかけた。5月3-9日海軍菊水5号作戦152名特攻戦死、陸軍第六次航空総攻撃178名特攻戦死

 

5月8日ドイツ軍降伏

 

5月11日海軍菊水6号作戦15日までに153名特攻出撃戦死、陸軍第7次航空総攻撃14日までに47名特攻出撃戦死

 

5月27日陸軍地上部隊首里撤退、海軍菊水8号作戦、陸軍第九次航空総攻撃

 

6月23日日本の沖縄守備軍最高指揮官牛島と参謀長の長が、摩文仁の軍司令部で自決

 

6月25日大本営沖縄本島における組織的な戦闘の終了を発表

 

4-6月特攻戦死者数

           4月    5月   6月       合計

 特攻戦死者数 海軍  1041   437    99        1577

        陸軍    433           511           162       1106

                          合計        1474           948           261          2683

陸海軍全特攻隊戦死者4060名の内66%が沖縄特攻

実際には沖縄戦前後でも沖縄方面での特攻はあったので、これより沖縄戦関連の特攻数は大きくなる。尚、全特攻戦死者数は数え方で変わる

 

沖縄戦 日本側人的損害 約20万人(内民間沖縄県人9万人以上)

    米側人的損害 死者約2万人戦傷者約5万人

両国にとって第二次世界大戦で最大の被害を出した戦闘であった

 

「きけわだつみのこえ」に収録されている学徒の内、沖縄戦での特攻隊員は

 

 市島保男
(1)大正十一年一月四日(2)神奈川県(3)早稲田大学第二高等学院をへて、昭和十七年早稲田大学商学部進学(4)昭和十八年十二月横須賀海兵団入団(5)昭和二十年四月二十九日第五昭和特別攻撃隊員として、沖縄東南海上にて戦死、海軍大尉、二十三歳

四月二十四日
ただ命を待つだけの軽い気持である。
隣の室で「誰か故郷を思わざる」をオルガンで弾いている者がある。平和な南国の雰囲気である。徒然(うれづれ)なるままにれんげ摘(つ)みに出掛けたが、今は捧げる人もなし。梨の花と共に包みわずかに思い出を偲(しの)ぶ。夕闇の中をバスに行く。
隣りの室では酒を飲んで騒いでいるが、それもまたよし。俺は死するまで静かな気持でいたい。人間は死するまで精進しつづけるべきだ。まして大和魂(やまとだましい)を代表する我々特攻隊員である。
その名に恥じない行動を最後まで堅持したい。私は自己の人生は人間が歩(あゆ)み得る最も美しい道の一つを歩んで来たと信じている。精神も肉体も父母から受けたままで美しく生き抜けたのは神の大なる愛と私を囲んでいた人々の美しい愛情の御蔭であった。今限りなく美しい祖国に我が清き生命を捧げ得る事に大きな誇りと喜びを感ずる。

 

大塚晟夫

(1)大正11年3月23日(2)東京都(3)中央大学専門部(4)昭和18年12月9目海軍入団(5)昭和20年4月28日沖縄嘉手納沖にて第三草薙隊特攻隊員として戦死、海軍少尉候補生、23歳

昭和20年4月21日

はっきり言うが俺は好きで死ぬんじゃない。何の心に残る所なく死ぬんじゃない。国の前途が心配でたまらない・いやそれよりも、父上、母上、そして君たちの前途が心配だ.心配で心配でたまらない・皆が俺の死を知って心定まらず悲しんでお互いにくだらない道を踏んで行ったならば俺は一体どうなるんだろう。

皆が俺の心を察して今まで通り明朗に仲良く生活してくれたならば俺はどんなに嬉しいだろう。

君たちは三人とも女だ。これから先の難行苦行が思いやられる。しかし聡明な君たちは必ずや各自の正しい人道を歩(あゆ)んでゆくだろう。

俺は君たちの胸の中に生きている。会いたくば我が名を呼び給え。

 

4月25日

今朝は水らしくも曹長五時半に起きて上半身裸体となって体操をした.誠に気持ちがよい.

白木の箱には紙一枚しか入っていないそうだが本当かな。髪の毛か爪を贈ろうと思うのだが生憎昨日床屋へ行ったし、爪もつんでしまった。しまったと思うがもう遅い。こういうものは一朝一夕には出来ないからな。

 俺は断っておくが、墓なんか要らないからな。あんな片苦しいものの中へ入ってしまったなら窮屈(ぎゆうくつ)でやり切れない。俺みたいなバガボンドは墓は要らない。父上や母上にその事をよろしく言ってくれ。

人間の幸福なんてものはその人の考え一つで捉えることが出来るものだ。俺が消えたからとて何も悲しむ事はない。俺がもし生きていて、家の者の誰かが死んでも俺はかえって家のために尽そうと努力するだろう。

4月28日

今日は午前六時に起きて清(すがすが)々しい山頂の空気を吸った。朝気の吸い納(おさ)めである。

今日やる事は何もかもやり納めである。搭乗員整列は午後二時、出発は午後三時すぎである。

書きたいことがあるようでないようで変だ。

どうも死ぬような気がしない。ちょっと旅行に行くような軽い気だ。鏡を見たって死相などどこにも表われていない。

 

この日、第三草薙隊は第二国分基地から10機の250kg爆弾装備九九式艦上爆撃機(複座)で出撃。

隊員20名の内訳 海兵 1名 予科練 4名 予備学生・生徒 15名

中大2、鹿児島高農、東大、武徳会専、小樽高商、明大、早大3、三重高農、東農大、

東亜専、西南学院、慶大

陸軍は

都城東より第61振武隊が四式戦で7名

知覧より第67・76振武隊が97式戦で12名、徳之島より第77振武隊が8名、

万世より第102振武隊1名、知覧より第106振武隊白虎隊6名、台中より誠第34飛行隊

四式戦4名、宮古より誠第116飛行隊九七式戦2名、桃園より誠第119飛行隊二式戦4名

宜蘭より三式戦4名が出撃戦死

 

米軍損傷は

駆逐艦 Wadsworth(DD-516), Daly (DD-519), Twiggs (DD-591), Bennion (DD-662)

            Brown (DD-546)

掃海艇 Butler (DMS-29) High Speed Minesweeper

LCI-580(歩兵揚陸艦

傷病者輸送船Pinkney (APH-2) 戦死35名 負傷者12名

病院船 Comfort (AH-6) 戦死30名 負傷48名

 

 

 

佐々木八郎
(1)大正12年3月7日(2)東京都(3)第一高校をへて、昭和17年4月東京大学経済学部に入学(4)昭和18年12月9日海軍入団(5)昭和20年4月14日沖縄海上で昭和特攻隊員として戦死、23歳

 

『愛』と『戦』と『死』
宮沢賢治作。“烏の北斗七星"に関聯してー
宮沢賢治はその生い立ち、性格から、その身につけた風格から、僕の最も敬愛し、思慕する詩人の一人であるが、彼の思想、言葉をかえて言えば彼の全作品の底に流れている一貫したもの、それがまた僕の心を強く打たないではおかないのだ。『世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない。』という句に集約表現される彼の理想、正しく、清く、健やかなもの1人間の人間としての美しさへの愛、とても一口には言いつくせない、深味のある、東洋的の香りの高い、しかも暖か昧のこもったその思想、それが、いつか僕自身の中に育くまれて来ていた人間や社会についての理想にぴったりあうのである。そして右に写した、"烏の北斗七星〃という童話の中に描き出された彼の戦争観が、そのままに僕の現在の気持を現しているといえるような気がするので、ここにその全文を書き写した次第なのである。僕は一時"烏"という異名を頂戴した事がある。そして今は海軍航空に志願している。そんなつまらない所まで似ているかも知れないが、次に宮沢賢治の“烏と北斗七星"における戦争観を敷衍して僕の今の気持を記して見よう。
副次的要素としては、大尉と砲艦のリーベも僕の現在に縁がないでもないが、それはここでは省略する、僕の最も心を打たれるのは、大尉が“明日は戦死するのだ"と思いながら、”わたくしがこの戦に勝つことがいいのか、山烏の勝つ方がいいのか、それはわたくしにはわかりません。みんなあなたのお考えの通りです。わたくしはわたくしにきまったように力一ぱいたたかいます。みんな、みんな、あなたのお考えの通りです。"と祈る所と、山烏を葬りながら“ああ、マジエル様、どうか憎むことのできない敵を殺さないでいいように早くこの世界がなりますように、そのためならば、わたくしのからだなどは何べん引裂かれてもかまいません“という所に見られる“愛”と、“戦”と、“死”という問題についての最も美しい、ヒューマニスティクな考え方なのだ。人間として、これらの問題に当たる時、これ以上に人間らしい、美しい、崇高な方法があるだろうか。そして、本当の意味での人間としての勇敢さ、強さが、これほどはっきりと現れている情景がほかにあるだろうか。(後略)

 

4月14日鹿屋基地出撃 第一昭和隊 零戦21型250kg爆弾装備 10名

内訳 海兵 1名 予科練 1名 

予備学生 8名 二松学舎、盛岡高工、東京三師範、東大、法大2、日大、早大

 

陸軍

喜界島より 第29振武隊一式戦 2名 出撃戦死

 

米軍損傷艦艇

戦艦  ニューヨークNew York (BB-34)

駆逐艦 Sigbee (DD-502) 戦死22名 負傷74名 Dashiell (DD-659) Hund (DD-674)

 

 

杉村裕
(1)大正12年2月26日(2)東京都(3)東京高校をへて、昭和17年九月東京大学法学部政治学科に入学(4)昭和18年12月9日武山海兵団に入団(5)昭和20年7月10日北海道千歳航空基地にて特攻訓練中戦死、海軍中尉

 

長谷川信
(1)大正11年4月12日(2)福島県(3)昭和17年明治学院高等部に入学(4)昭和18年12月入営、陸軍特別操縦見習士官(5)昭和20年4月12日武陽特別攻撃隊員として沖縄にて戦死、陸軍少尉、23歳

 

昭和19年4月20日(陸軍飛行学校にて)
弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をば遂ぐるなりと信じて念仏申さんと思い立つ心。
単純なるもの、は美しい
素朴なるもの、は美しい
純真なるもの、は美しい
おおらかなるもの、は美しい
編上靴(へんじようか)の配給を受くる時、自分の飯を貰(もら)う時、腹が減って飯を前にした時、人問の姿や表情は一変する。明日から食堂に行って食卓に坐る時、お念仏をしようと思う。あのいやな眼附を自分もしていると思ったらゾーッとする。眼を晦って、お念仏しようと思う。

 

 1月18日
歩兵の将校で長らく中支の作戦に転戦した方の話を聞く。
女の兵隊や、捕虜の殺し方、それはむごいとか残忍とかそんな言葉じゃ言い表わせないほどのものだ。
俺は航空隊に転科したことに、一つのほっとした安堵を感じる。つまる所は同じかも知れたいが、直接に手をかけてそれを行わなくてもよい、ということだ。
人間の獣性というか、そんなものの深く深く人間性の中に根を張っていることを沁々と思う入間は、人間がこの世を創った時以来、少しも進歩していないのだ。
今次の戦争には、もはや正義云々の問題はなくただただ民族間の憎悪の爆発あるのみだ。
敵対し合う民族は各々その滅亡まで戦を止めることはないであろう。
恐しきかな、あさましきかな
人類よ、猿の親類よ。

 

 

 

林市造
(1)大正11年2月6日(2)福岡県個福岡高校をへて、昭和17年10月京都大学経済学部に入学(3)昭和18年12月10日海軍入団(4)昭和20年4月12日第二七生特攻隊員として沖縄にて戦死、海軍少尉、23歳

 

元山より母堂へ最後の手紙
お母さん、とうとう悲しい便りを出さねばならないときがきました。
親思う心にまさる親心今日のおとずれ何ときくらん、この歌がしみじみと思われます。
ほんとに私は幸福だったです。我ままばかりとおしましたね。
けれどもあれも私の甘え心だと思って許して下さいね。
晴れて特攻隊員と選ばれて出陣するのは嬉しいですが、お母さんのことを思うと泣けて来ます。
母チャンが私をたのみと必死でそだててくれたことを思うと、何も喜ばせることが出来ずに、安心させることもできずに死んでゆくのがつらいです。

私は至らぬものですが、私を母チャンに諦めてくれ、ということは、立派に死んだと喜んで下さいということはとてもできません。けど余りこんなことはいいますまい。
母チャンは私の気持をよくしっておられるのですから。
婚約その他の話、二回目にお手紙いただいたときはもうわかっていたのですがどうしてもことわることができませんでした。また私もまだ母チャンに甘えたかったのです。あ頃の手紙ほどうれしかったものはなかったのです。一度あってしみじみと話したかったのですが、やはりだかれてねたかったのですが、門司が最後となりました。この手紙は出撃を明後日ひかえてかいています。ひょっとすると博多の上をとおるかもしれないのでたのしみにしています。かげながらお別れしようと思って。
千代子姉さんにもお会い出来ず、お礼いいたかったのですが残念です。私が高校をうけるときの私の家のものの気づかいが宮崎町の家と共に思いだされて来ます。
母チャン、母チャンが私にこうせよといわれた事に反対してここまで来てしまいました。私として希望どおりで嬉しいと思いたいのですが、母チャンいわれるようにした方がよかったなあと思います。
でも私は技量抜群として選ばれるのですからよろこんで下さい。私たちぐらいの飛行時間で第一線に出るなんかほんとは出来ないのです。
選ばれた者の中でも特に同じ学生を一人ひっぱってゆくようにされて光栄なのです。
私が死んでも満喜雄さんがいますしお母さんにとっては私の方が大事かも知れませんが一般的にみたら満喜雄さんも事をなし得る点において絶対にひけをとらない人です。
千代子姉さん博子姉さんもおられます。たのもしい孫もいるではありませんか。私もいつも傍にいますから、楽しく日を送って下さい。お母さんが楽しまれることは私がたのしむことです。お母さんが悲しまれると私も悲しくなります。みんなと一緒にたのしくくらして下さい。
ともすれぱずるい考えに、お母さんの傍にかえりたいという考えにさそわれるのですけど、これはいけない事なのです。洗礼を受けた時、私は『死ね』といわれましたね。アメリカの弾にあたって死ぬより前に汝を救うものの御手によりて殺すのだといわれましたが、これを私は思い出しております。すべてが神様の御手にあるのです。神様の下にある私たちには、この世の生死は問題になりませんね。
エス様もみこころのままになしたまえとお祈りになったのですね。私はこの頃毎日聖書をよんでいます。よんでいると、お母さんの近くにいる気持がするからです。私は聖書と讃美歌と飛行機につんでつっこみます。それから校長先生からいただいたミッションの徽章と、お母さんからいただいたお守りです。

結婚の話、なんだかあんな人々をからかったみたいですがこんな事情からよろしくお断
りして下さい。意志もあったのですから(ほんとに時間があったら結婚して母さんを喜ば
してあげようと思ったです〉
許して下さい、とこれはお母さんにもいわねばなりませんが、お母さんはなんでも私のしたことはゆるして下さいますから安心です。
お母さんは偉い人ですね。私はいつもどうしてもお母さんに及ばないのを感じていました。
お母さんは苦しいことも身にひきうけてなされます。私のとてもまねのできない所です。
お母さんの欠点は子供をあまりかわいがりすぎられる所ですが、これはいけないというのは無理ですね。私はこれがすきなのですから。
お母さんだけは、また私の兄弟たちはそして私の友達は私を知ってくれるので私は安心して征けます。
私はお母さんに祈ってつっこみます。お母さんの祈りはいつも神様はみそなわして下さいますから。
この手紙、梅野にことづけて渡してもらうのですが、絶対に他人にみせないで下さいね。やっぱり恥ですからね。もうすぐ死ぬということが何だか人ごとのように感じられます。いつでもまたお母さんにあえる気がするのです。あえないなんて考えるとほんとに悲しいですから。

 

第二七生隊 4月12日1304 鹿屋基地 零戦21型 250kg爆弾装備 17名

海兵 1名 予備学生16名

明大、京大3,日大2,台北大2、京城大、立命館大、九大、早大、法大、立大、

東亜同大、東大

 同日発進したのは

第三神風桜花特別攻撃隊 他

 

 林憲正
(1)大正八年十一月(2)愛媛県(3)松山高商をへて、昭和十六年慶応大学経済学部入学、十八年九月卒業(4)昭和十八年九月三重航空隊に入隊(5)昭和二十年八月九日神風特攻隊員として本州東方海面にて戦死、海軍中尉、二十五歳

 

六月三十日
朝起きて見ると雨。もっと眠られることがうれしくてまた毛布をかぶった。七時すぎ起きておそい朝食を終え兵舎で艦型識別の幻灯をやった。今それを終えて私室へかえりレコードかけながらこれを記している。隣では床へ毛布を引いて上大迫、山辺、手島、那須がブリッジに興じている。窓外は相変らず霧雨。
私は凡てどうすることも出来ぬ。
私はまことに近い将来にこの世から去らねばならぬのであるから。
私は早く戦争に行きたい。私は早く死にたい。江口にこういわしめ私をもまたそんな気持に駈り立て更に我々学徒出身の搭乗員を凡てそんな心境に追い込んで行った海軍の伝統精神、あるいはその党派性を私は有難く思う。

 

雲ながるる果てに  戦没海軍飛行予備学生の手記」収録の特攻戦死者

 

植村真久 立教大学   昭和19/10/26 大和隊 10/26 比島方面 学徒特攻二人目
吹野(框)京都大学 20/1/6 旭日隊 比島方面

 

以下は昭和20年1945年 4月、5月、6月の沖縄戦特攻戦死者

清水正義 慶応義塾大学 第三御盾隊 菊水一号作戦 20/4/6戦死
山田鉄雄 立教大学 第一護皇白鷺隊 20/4/6
福知貴  東京薬学専門学校 第210部隊零戦隊 20/4/11
伊熊次郎 日本大学 同上
鹿野茂  中央大学 草薙隊 20/4/28
旗生良景 京都大学 八幡神忠隊 20/4/28
山下久夫 関西大学 第二正統隊 20/4/28
市島保男 早稲田大学 第五昭和隊 20/4/29
中西斎季 慶応義塾大学 神雷部隊第九建武隊 20/4/29
本川譲治 慶応義塾大学 菊水雷桜隊 20/5/11
飯沼孟  横浜専門学校 第二魁隊 20/5/11
安則清三 旅順師範学校 第七昭和隊 20/5/11 空母バンカーヒル突入
古川正崇 大阪外国語学校 振天隊 20/5/29
溝口幸次郎 中央大学 神雷第一爆戦隊 20/6/22

 

以下は8月特攻戦死

林憲正  慶応義塾大学 第七御盾隊第二次流星隊 20/8/9
小城亜細亜 立教大学 第四御盾隊 20/8/13