特攻 白菊 赤とんぼ 複葉機 水上偵察機

特攻が最も多かった月は1945年4月で1474人(696機)次に多いのは5月952人(246機)

つまり沖縄戦の時である。

 特攻に最も多く使われたのは零戦で647機(647人)その内1945年4月に使われたのは255機、5月は65機である。

 

終戦時、海軍はすべて合わせれば7000機以上(これに陸軍機)を残していた。日本軍としては最後の本土決戦の準備はそれなりにしていた。その前に、使えるものはすべて沖縄戦に使ったのだろう。

 

日中戦争なかばから、太平洋戦争の全期間を通じて生産された海軍の軍用機は約三万機と言われている。

そのうち零戦がもっとも多く、約三分の一の10.425機が生産された。

他のおもな機種では、

一式陸上攻撃機  2500機、

九九式艦上爆撃機 1500機、

彗星艦上爆撃機    2100機、

九七艦上攻撃機    1300機、

天山艦上攻撃機    1300機     である。(毎日新聞社日本航空史』)

年度別生産は、

昭和十六年、  2,700機。

昭和十七年、  4,170機。

昭和十八年、  8,950機。

昭和十九年、13,020機。

昭和二十年、  3,150機。

  合計   31,990機であった。

昭和二十年八月十五日現在の飛行機数は約八千機であった。

(昭和二十年九月一日『海軍基地に於ける保存機種、機数』防衛庁戦史室)

海軍 内地7599機  外地 226

 

アメリカとの飛行機の生産高(昭和十六年から昭和十九年)

日本陸軍・海軍軍用機 58,000機

米国陸軍・海軍軍用機260,000機

 

練習機・水上機偵察機による特攻 

戦死者人数(機数)   1945年3月  4月  5月  6月  7月  8月

海軍 

中間練習機「白菊」                                        82(41)    26(13)  

零式練習用戦闘機                                    8(4)     15(8)

零式水上偵察機                                        5(3)     13(7)

94式水上偵察機                                                   39(13)

零式観測機                                                                       14(7)

陸軍

二式高練              40(20)    20(1)       1(1)                  9(9)

九九式高練                                               24(12)

九九式単偵/軍偵                           7(4)        3(2)                                  3(2)  

陸海軍全特攻戦死者

(機数)

1944年        1945年

10月  11月  12月  1月  2月  3月  4月  5月  6月 7月  8月

82      195       262    218    43    470    1474    952    261    22    81

(63)       (145)    (165)    (154)    (21)     (180)      (696)     (246)    (166)    (15)     (47)  

 

 

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白菊

「白菊」は機上作業練習機である。機上作業練習機とは、艦上攻撃機艦上爆撃機、陸上攻撃機のような多座機における操縦員以外の乗員の任務である航法、通信、爆撃、射撃、写真撮影、観測などの訓練を行うための機体である。日本海軍では、操縦員以外でこれら任務を行う飛行機搭乗員を一括して「偵察員」と呼び、複座機や大型機の比率が多かったため、偵察員は操縦員と同数ぐらい必要であった。白菊には操縦員1名の他、教官と3名の練習生が搭乗。

最高速度でも時速230キロ。零戦の約半分。

燃料は「八〇丙」と呼ばれるオクタン価80のアルコール燃料を使用していた。

 

飛行機に使用する燃料の爆発性能を示すものにオクタソ価がある。

筑波空の中練教程で使用した九三式中間練習機(赤トンボ)では、昭和十八年の末であったが、オクタソ価八十七の燃料を使用していた。

しかし、昭和十九年末より二十年のはじめにかけて第二美保空や大和空では、おなじ中練にオクタン価八十四の燃料となった。さらにその後は、「油一滴は血の一滴」といわれるくらい不足し、ついに松根油燃料や、甘薯、馬鈴薯よりとった、いわゆるイモ燃といっていたアルコール燃料がまざって、爆発性能がいちじるしく落ちて飛行中にシリソダーの温度が下がるのを避けるため、九三式中間練習機のエソジン、天風工型のシリンダーのひだ(空冷)に石綿をつめて飛んだ。

 オクタソ価の低い燃料を使用すると、いちばん出力の必要なときに馬力がでず.宙返りをしても頂点あたりでシリンダーが冷えて、パンパソバンとエンジソの不調爆発音がした。

昭和十九年四月から使用した零戦には、オクタン値94の燃料を使用していたが、最終的にはオクタソ価81の燃料となった。これは実施部隊の第一線にある。隊でも同じことであった。

二十年の戦争末期になると、敵の艦載機の来襲があり、ときおり飛行揚に増槽タソクを落としていくがある。たまたま整備員が、その燃料を海軍が当時使用していたオート三輪車に入れ、エンジンをかけ運転してみると、爆発性能があまりにもよく、シリンダーにひびが入ったと話していた。このように、燃料の質でもアメリカと大きな差があった。

 

戦闘機の航空部隊の一か月の燃料の割り当てが、約二万リットルであった。この二万リットルでゼロ戦を整備し、試運転し、訓練飛行し、そして敵機の迎撃に飛び上がらなければならなかった。これにたいして、アメリカのB29は増槽タンクがなければ一機当たり約三万リットルを積んで、飛んでくるのである。

「海軍飛行科予備学生よもやま物語」

 

 1945年(昭和20年)1月8日に大本営が全軍特攻を決定すると、全国の練習航空隊に通常の搭乗員訓練を止め、特攻隊を編成するように命令が下された。 練習機による特攻は、白菊を装備する高知空(菊水白菊隊)、徳島空(徳島白菊隊)、大井空(八洲隊)、鈴鹿空(若菊隊)で実施される事となり、まずは高知空と徳島空で特攻志願者の募集が開始された

当初の設計では機体が大きい白菊の機内の床に板を置いて、そこに250kg爆弾2発をワイヤーで縛って固定するという乱暴なものであったが、最終的には、250kg爆弾を両翼に1発ずつ懸架し、操縦席計器板に信管の安全装置を解除するレバーを装着するよう改造され、エンジンカバーの上に照準器が装着された。航続距離を延伸するために胴体内の後部席に零戦用の増槽を取り付け、通常は480リットルである搭載燃料を700リットル弱まで増加させた。これらの改造により、通常時より大幅に重量が増加し、離陸すら困難となったため、訓練は離陸を中心に行われた。 またこの状態での最高速度は時速180㎞程度とさらに低速になった

 

離陸に慣れてくると、模擬爆弾を搭載しての訓練となったが、起床を夕刻の午後5時として、暗くなるのを待って訓練を開始するといった昼夜逆転日課による訓練を連夜行った。日中にも、黒眼鏡をかけて、視界を夜間と同じにして訓練した。離着陸になれると、模擬爆弾を搭載しての飛行訓練となったが、1945年5月初めのころには夜間飛行を満足にできない搭乗員が多かったのに、1か月もしない5月22日のころには殆どの搭乗員が夜間洋上進行可能な水準となり、海面すれすれの高度15mで編隊飛行することもできるようになっていた

 ウイキペディア

 

白菊特攻は沖縄戦に投入されることとなり、菊水七号作戦中の1945年(昭和20年)5月24日、白菊二十機が出撃した。彼ら、菊水白菊隊は午後七時二十六~五十四分の間に、鹿屋から発進した。夜なら敵戦闘機につかまらないであろうというのである。この日、フロッグマンを乗せた高速輸送艦二隻と掃海艇二隻とが損傷しているが、もしかすると白菊の戦果かも知れない。白菊は30キロの小型爆弾二発が標準だが、特攻のときには九九式艦爆と同じく150キロ通常爆弾一発を抱いて飛んだ。

第一次白菊隊14機が串良の航空基地から出撃した。出撃に際して搭乗員には「白菊は爆装こそ大きいが速力は遅い。戦艦や巡洋艦などの大型艦は狙っても無理であるから、なるべくは輸送艦を狙いこれを爆砕せよ」と命令されている。白菊は速度が著しく遅いため、出撃の際は真っ先に離陸し、次に15分おいて戦闘機が離陸、さらにその後に艦上爆撃機艦上攻撃機が離陸するように決めていた。そうすることにより、戦闘機が途中で白菊を追い越して敵戦闘機と交戦し、白菊はその隙をついて敵艦に突入する計画であった

この日出撃した白菊隊は、故障や不時着の3機を除き11機が未帰還となったが、一部が敵艦隊に到達している。沖縄戦で特攻を指揮した第5航空艦隊司令部はアメリカ軍の無電を傍受しており、「時速160㎞~170㎞の日本軍機に追尾されている。」というアメリカ軍の駆逐艦の無電を聞いた一人の幕僚が、「駆逐艦の方がのろい白菊を追いかけているんだろう。」と笑う有様で、第5航空艦隊司令宇垣纏中将も「夜間は兎も角昼間敵戦闘機に会して一たまりもなき情なき事なり(中略)数あれど之に大なる期待はかけ難し。」と白菊特攻について厳しい評価を下し、夜間や黎明に限定して投入することとしている

 

特攻戦力が欠乏していた第5航空艦隊は、海軍記念日の5月27日深夜にも白菊を鹿屋串良から夜間出撃させた

 

六月二十一日(菊水十号作戦)、未明に白菊六機が突入した。彼らは四国の徳島練習航空隊から選出した兵力だった。

米艦隊はこのときオトリとして目標をちらつかせて、特攻機を吸収せんとした。白菊はこれに引っ掛リ、米中型上陸艇LSM59と駆逐艦ハロランに体当たりして二隻を撃沈した。ハロランはすでに大破し、曳航されていたのである。やや遅れてLSM213号も

白菊に体当たりされ。船体が大破した。

 

 その後も白菊は、沖縄戦終結後の1945年(昭和20年)6月25日まで、のべ115機が出撃し56機が未帰還となった白菊は軽量化のために編隊長機にしか無線が搭載されておらず、日本軍は白菊特攻の戦果をほとんど把握できていなかった 。

 

それでも、海軍は稼働機全てを特攻出撃させるつもりで、本土決戦でも大量の白菊を特攻出撃させる計画であったが、終戦により実現することはなかった。白菊特攻で徳島空で56名、高知空で52名の合計108名が戦死した

 

なお、TVドラマ「水戸黄門」の第14部から第21部まで9年間徳川光圀役を務めた俳優・西村晃は、徳島白菊隊の特攻隊員である。しかし、出撃機不良で基地に引き返し終戦を迎えた。また、この特攻隊での同僚には裏千家15代家元の千玄室がおり、西村の親友である

 

5月24日出撃戦死の特攻隊

海軍

第12航空戦隊二座水偵隊 指宿 零式水上偵察機 爆装250㎏ 2機4名 2300

菊水部隊白菊隊 鹿屋 爆装250㎏x2  8機16名 1926-1950

徳島第一白菊隊 串良 爆装250㎏x2  11機22名 2050-2302

 陸軍
四式重爆撃機 熊本 7名

義列空挺隊 健軍 87名

誠第71飛行隊 八塊 九九式襲撃機 6名 

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「写真太平洋戦争 特攻」
 

 5月25日出撃戦死の特攻隊

海軍

神雷部隊桜花隊 鹿屋 桜花3機 一式陸攻3機21名

第十銀河隊 銀河爆装800㎏ 宮崎 2機6名 第二美保 1機3名

菊水部隊白菊隊 鹿屋 白菊 爆装250㎏x2 1機2名0507

5月26日

菊水部隊 第三白菊隊 鹿屋 爆装250㎏x2 1機2名  2000

5月27日

第三正統隊 第二国分

菊水白菊隊 鹿屋 9機18名

徳島第二白菊隊 串良 7機14名

5月28日

 

 

この低速機が、五月二十四日、鹿屋や徳島から沖縄水域へ向け、二十機発進。三十六人が戦死した。そのうち、海軍兵学校出身者は、例によって隊長をつとめた中尉ひとり。

あとは、日本大学、埼玉師範、明治大学出の予備学生出身者と、予科練出身者で占められ、その中に、十七歳四人と、十六歳一人が含まれている。

その三日後にも、「白菊」は二十機が特攻出撃。このときも、隊長ひとりが海兵出身で、あとは専修大学、神戸商大出などの予備学生、そして予科練出身者であり、そこにも当時十七歳が三人含まれている。

 

白菊の製造機数は798機で、終戦時には370機以上が残存していた。 

 

 「海軍飛行科予備学生よもやま物語」

零戦の半分にもみたない速力、五百馬力の機上作業練習機「白菊」に五百キロの爆装をして、誘導機も直掩機もなしに、単機で夜間特攻に出撃するのは、想像するだに悲壮なものである。藤井三郎(松山高商)は土浦空で基礎教程をおえ、上海空で偵察学生としての訓練を終了した第十三期飛行科予備学生である。昭和二十年の一月末、彼は内地に帰り、高知空に偵察士官として着任した。そして第一飛行隊付となって、計器飛行、黎明、薄暮、夜間飛行と猛訓練をつづけた。訓練内容から考えて、これは特攻の訓練だとみなが予測していた。

堤幸造(横浜専門)が夜間飛行訓練で殉職したのは、五月一日であった。ひととおりの訓練が終了した五月十日、第一次特別攻撃隊の編成と、三十名の氏名が発表された。その中に藤井三郎の名前も記入されていた。

その名憾神風特別攻撃隊菊水部隊白菊隊と命名された。

特攻隊編成の発表と同時に、ガンルーム(士官次室)の令を待っていた。五月二十日の正午、飛行隊長の木下五郎大尉(海兵68期)より、

「五月二十二日、鹿屋基地に進出、二十三日に夜間攻撃に出撃す」の命令が伝達された。

 

二十四日午前十時すぎ、敵艦載機がつぎつぎと来襲し、飛行場めがけて銃爆撃をおこない、滑走路のあちらこちら庭穴があいた。特攻機の白菊は掩体壕に分散してあり、さいわいに被害はなかった。ただちに滑走路の穴埋め作業がはじまり、特攻隊員も基地隊員や整備員といっしょになって土をモヅコで運び、汗だくで整備する。死出の道をみずからの手で整備する。その気持はまことに複雑であった、と藤井は話している。

 

さあ、いよいよ出撃だ。藤井は、なぜか身体中がふるえるようだった。いつもの隊員たちが顔をそろえる。予科練出身の、まだ顔にあどけなさが残る隊員もいる。藤井機の操縦桿をにぎる須藤二飛曹が、飛行帽の上から日の丸の鉢巻きをキリッと締め、ライフジャケットの胸や・背に、日の丸が描かれているのが目につく。出撃が一日延びた、その間に描いたのであろう。藤井のライフジャケットにも、ペアで出撃する須藤二飛曹が描いてくれた日の丸が、色あざやかに目に映えた。

午後六時、神風特別攻撃隊菊水部隊白菊隊十五機に搭乗する操縦員、偵察員三十名が整列する。指揮官の野田勉中尉(海兵七十三期)、その隣りに佐々木威夫、小堀淳三郎、高橋中、藤井三郎、力石権四郎の各少尉が並ぶ。士官は野田中尉をのぞいて、みんな第十三期飛行科予備学生出ばかりであり、あとは上飛曹、一飛曹、二飛曹である。藤井の後に須藤二飛曹が並んでいた。

やがて、飛行隊長の木下五郎大尉より、

「本作戦は沖縄周辺の敵艦艇にたいし、陸海軍合同の七十五機による特攻出撃である。ここ鹿屋基地よりの出撃はお前たち十五機であるが、他の者も、串良、宮崎その他、それぞれの基地より出撃の予定である。お前たちの飛行機には、無線もなく、機銃もない。ただ、二十五番(二百五十キロ)二発あるのみである。無線もなく戦果をお前たちの手で知らせることのできないのは、まことに残念であると思うが、沖縄の陸上の味方陸海軍より、その戦果は報道され、必ず上聞に達するであろう。平素の訓練を生かし、敵艦めがけて突入せよ。なによりも正直に、あの月が見ていてくれるであろう。健闘を祈る」

月齢十五の月をさして、別れの言葉が終わった。

隊員は、待っていたトラックに同乗し、分散されている愛機のところまで運ばれた。掩体壕には特攻機の白菊が二機ずつ隠されていて、整備員によってすでにペラを回し、最後の試運転を開始していた。

常識からいえば、遠距離攻撃は目的地まで偵察機に誘導され、直援機に護られて編隊で飛ぶのであるが、今回の出撃は戦果の確認機もなく、もちろん誘導機もなく、沖縄まで単機での出撃である。よほど偵察員がしっかり航法に注意しなければ、目的地まで飛行できない。しかも夜間出撃なので、みな一抹の不安は隠しきれない。

「おい、しっかり操縦を頼むぞ、航法はまかしておけ。なにかの縁だなあ、お前と同じ棺桶に入るとは」

分隊士、よろしくお願いいたします」と、まだ童顔の残る須藤二飛曹は笑顔でとたえて、前席に乗り込む。

そのとぎ、彼は十九歳であった。こんな二十歳にも満たない若者までが死なねばならぬのかと、藤井は涙がこみあげてきた。

昭和二十年五月二十四日の午後七時四十分、齢十五の美しい月を東の空に仰ぎながら、

「沖縄ヨーソロ!」

二、三時間後には、このまま須藤二飛曹や愛機もろともに、敵艦を道づれに海の藻屑と消えるのだと思うと、急に幼いころの思い出が、つぎからつぎへと走馬灯のように、藤井の脳裏をかけめぐった。彼はいま死地に向かって飛んでいることを、肉親のだれかの心に通じさせたい気持でいっばいになった。そして、

「お母さん、みんなさようなら」と口の中で叫んでみた。

前席の須藤兵曹も同じ思いであろうに、しっかりと操縦桿を握っていたQ

「おい、エンジソの調子はどうだ」

「はい、良好であります。今どのあたりでありますか」

「左はるか屋久島あたりだ」

機は快調なエンジソの音をたてて、沖縄に向かって飛んでいる。目的地へあと一時間半ぐらいと思われるとぎ、「分隊士、潤滑油がもれてきます。潤滑油計が下がってきます」と須藤兵曹がいう。そのうちに潤滑油がますますひどくもれはじめて、風防に当たりはじめる。

分隊士、前方の視界がきかず、だんだん見えなくなってきます」

このままでは、まもなくエソジンが停止する。下手をすれば空中火災を起こすかも知れない、こんなところで死んでは犬死にだ。なんとしても生きて出なおしだ。

分隊士、不時着水します」

「よし、いま爆弾を投下するから、しばらくがんばれ。できるだけ高度をとれ」

しかし、機は急には上昇はしない。もう一刻も猶予はでぎない。高度計は二百五十メートルをさしている。

「よし、投下するぞ、用意……テー!」

一ものすごい轟音と同時に強烈な爆風がきて、機は大きくあおられる。

 

「おい、針路百八十度変針、いまいちど出直しだ」

「はい、わかりました」

機は大きく旋回しはじめる。エンジンの音がだんだん変わってきて、しだいにペラの回転が下がりはじめた。

分隊士、不時着水の準備願います」

「よし、あわてず頑張れ!」

機は海面すれすれに飛行をつづける。少しでも、少しでも島の近くにと祈る。位置測定では、屋久島がいちばん近い。急に、エンジンの音が止んだ。

「着水します!」

いちばん危険な夜間不時着水である。とたんに不気味な接触音とともに、ものすごいショックで、藤井は一瞬、気を失った。着水のショックで機のタンクが破損して燃料が流れ出し、モッコを担いですりむいた肩にしみこんだ。その痛さで藤井は意識をとりもどした。

機内は真っ暗である。どうやら機は着水と同時に転覆したようである。海水が脛より腹とだんだん侵入してくる。機が沈みはじめたようである。

分隊士!分隊士!」と、転覆した機の腹の上から須藤兵曹が呼んでいる。ああよかった、彼も助かったのか。

「おーい、大丈夫か」

「はーい、早く出てきてください、機が沈みます」

海氷にもぐって脱出しようとするが、ライフジャケットが浮いてもぐれない。ジャケットを脱ごうとするが、もし脱いだらこれからさき泳ぐことができない。藤井が躊躇していると、

「バリッ」という音とともに、蓄電池入れ口より月の光が差しこんできた。投下した爆弾の爆風で蓋のビスがゆるんでいて、それを須藤兵曹が引き開けてくれたのだ。必死ではい出すと、須藤兵曹が引き上げてくれた。

まだ沈みきらない機体に立って見たその情景は、月光が波静かな大海原に映えて、本当に美しい。はるかかなたに大ぎな島影が見える。ああ助かった、まだ生命があったのか。こんなことで死んでは犬死にだ。

「おい助かったぞ。いま一度やり直しだ。まだ殺すには早いとエンマさんが言ったぞ」

「はい分隊士」

二人は抱き合って喜んだ。幸い二人ともかすり傷程度で骨折もなく、泳ぐことには支障がない。愛機はやがて沈みはじめた。

藤井は自分のマフラーの端を、お互いのバンドに結んで離れないようにし、須藤兵曹のマフラーを股間のジャケットの紐に結びつけ、鰹よけとして長く流して、月光に映える大海原を泳ぎ出した。約3時間泳ぎ屋久島にたどり着いた。一緒に白菊で出撃した佐々木威夫(明大)、小堀淳三郎(埼玉師範)、高橋中(日大)、力石権四郎(日大)は帰らなかった。

 

陸軍も練習機を特攻に使った。福岡に司令部を置く第6航空軍(靖兵団・菅原道人中将)は.五月二十五日、万世から早朝に合計七機〔第133振武隊〕の二式高等練習機を発進させた。陸軍二式高等練習機は、わざわざ作ったものではなく固定脚の九七式戦闘機を復座にしたものであった。だから練習機といっても、元は戦闘機だからバイロットにもいくらかは慰めとなったに違いない。五月二十七日(菊水八号作戦)の朝、知覧基地から.五機(第131振武隊)が発進した.米駆逐艦アンソニーとブレインを大破させたのは.二式高等練習機である円能性もある。米国側では固定脚であったため九九式艦爆と見誤ったようであるが……五月二八日には白菊、二式高練、九四式水偵の三機種が、陸軍の屠龍や飛燕にまじり出撃している。

 

 

 

 九三式中間練習機 赤とんぼ

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九三式中間練習機 赤とんぼ

 

 海軍のあらゆる練習航空隊に配備され、1934年昭和9年)1月末海軍に制式採用から1945年(昭和20年)の第二次世界大戦終結まで5770機製造された。目立つように橙色に塗られていたことから別名「赤とんぼ」と呼ばれていた。安定性・信頼性が非常に高く扱い易く、同時に高等曲技飛行も可能なほどの操縦性を持ち合わせ、多くの練習生がこの機体を使って訓練を受けた。

 

 本来の実用機の不足を補うため、本機がアルコール燃料でも稼動可能なことから、機体全体を濃緑色で塗装した上に後席に増槽としてドラム缶を装着し、機体強度と発動機推力の限界に近い250 kg爆弾を積み込んでの特攻に駆り出されることとなった。

 

特攻隊として出撃した中には特攻に疑問を持つ者は少なくなかった。しかし、公然と特攻に反対することは難しかった。反対すれば「天皇陛下に対する忠誠、尽忠報国、滅私奉公」という当時の強固なスローガンに反対することとみなされかねなかった。

 

ところが、海軍の美濃部正少佐(夜問戦闘機隊の芙蓉部隊長)は上官に向かって公然と特攻反対を主張した一人だった。昭和20年(1945)3月初め、連合艦隊所属の航空部隊指揮官300名以上が千葉県木更津基地に集められ、「沖縄作戦会議」が行われた。このとき草鹿龍之介参謀長は、「航空燃料が底をつき、今後は一機あたり一カ月に15時間しかない。そこで赤トンボ(九三式中型練習機)の4000機をふくめ、全航空戦力を特攻とする」と訓示した。このとき立ち上がり「赤トンボまで特攻に出すのはナンセンスです」と異議を唱えたのが美濃部少佐だった。草鹿は色をなして「貴様、何をいうか。必死尽忠の士が空をおおって進撃するとき、これを拒む者があるか」と怒鳴った。しかし美濃部は、敵機の速力は300ノット(時速約555キロ)であり、赤トンボは150ノットも出ない、と冷静に説明し、赤トンボはバッタのように撃ち落とされて戦いにならないと主張した。そして、「ものは試し、私は箱根の上空で一機で待っています。ここにおられる方のうち、50人が赤トンボに乗ってきてください。私が一人でぜんぶたたき落としてみせましょう」(生出寿『特攻長官大西瀧治郎』)とまで言った。

 

美濃部少佐はフィリピンで大西第一航空艦隊司令長官から特攻を命じられたときも、敢然と拒絶した。理由は、「特攻には指揮官が要りません。私は指揮官として自分の方法を持っています。私は部隊の兵の使い方は、長官のご指示はうけません」というものだった。美濃部の特攻反対は、特攻作戦全般に関する反対表明ではなく、「少なくとも自分の部下は特攻に出さない」という立場であった。自分の部下からは特攻は出さないとして拒絶した指揮官には、やはり沖縄作戦時に飛行第六五戦隊長だった吉田穆少佐がいた。「図解特攻のすべて」

 

 1944年11月、沖縄海軍航空隊で偵察や対潜哨戒任務を行っていた搭乗員が石垣島に派遣されて「石垣島派遣隊」として編成された。1945年4月には、連合軍が沖縄に進攻してきて沖縄戦が開始され、翌1945年5月、「石垣島派遣隊」は台湾の新竹基地に移動し第一三二海軍航空隊編入されることとなったが、その際に全搭乗員が志願の有無にかかわらず特攻隊員に任じられた。それも、今まで操縦してきた、水上偵察機艦上爆撃機ではない、複葉練習機の本機での特攻出撃と聞かされて、搭乗員たちは驚きを隠せなかったという 

 特攻隊員は虎尾基地に移動して猛訓練を行った。元々、実戦部隊から編成された「石垣島派遣隊」の搭乗員の練度は当時の日本軍航空兵の平均から見ると高く、小隊長の下士官は操縦年数2年で飛行時間が800時間程度、もっとも若くて未熟な搭乗員でも300時間ぐらいで、約100時間の飛行時間で出撃する特攻隊員も多い中で、比較的熟練した搭乗員が揃っていたと言える。その搭乗員らは、劣速の本機での特攻は夜間の出撃が必須で、なおかつレーダーに捉えられない海面すれすれの高度5mで飛行しなければならなかったので、厳しい訓練が繰り返されて、当初は「暗い夜道を1人でとぼとぼと歩くような心細さ」で「すべてが不信と不安で一杯となり、訓練半ばで着陸することもあった」搭乗員らもやがて完全に夜間の超低空飛行ができるようになった零式艦上戦闘機の最新型である零戦52型丙型や、急降下爆撃機彗星一二型の夜間戦闘機型「戊型」といった新鋭機種を優先的に配備されて、燃料節約や、未熟な搭乗員の航法の負担を軽減するために、飛行巡航高度を、飛行が容易な3,000m~4,000mとして、特に有効なレーダー対策も行っていなかった芙蓉部隊のような第1線部隊とは、与えられた機体や置かれた状況が違いすぎるため、かような厳しい訓練を課す必要があった。

 虎尾基地で訓練を受けている搭乗員で編成される特攻隊は、基地の名前から「龍虎隊」と名付けられた。龍虎隊の隊員のなかには、「石垣島派遣隊」の搭乗員の他にも、虎尾基地の零戦が枯渇したため、やむなく本機で夜間爆撃訓練を受けていた非常に操縦技術が高い精鋭や、歴戦の零戦操縦士の角田和男少尉によれば、熟練搭乗員のなかでも、不時着による機体破損回数の多い搭乗員や、出撃時何らかの理由で途中引き返した回数の多い搭乗員も懲罰的に選ばれていたという。先着組の「龍虎隊」は、まず1945年5月20日に「第1龍虎隊」の本機8機、6月9日には「第2龍虎隊」の本機8機が台湾から出撃したが、いずれも天候等の問題もあって宮古島石垣島与那国島に不時着し攻撃に失敗している。

 2度の失敗で、やはり練習機の本機に250kgの爆弾を搭載して長時間飛行するのは無理があるのでは?と判断されたため、宮古島に前進して飛行距離を短縮することとした。「石垣島派遣隊」のときから搭乗員を率いてきた三村弘上飛曹を指揮官とした8機の本機が宮古島に前進し、1945年7月29日に「第3龍虎隊」として出撃が命じられた。宮古島飛行場は滑走路が短く、低速の上、250kg爆弾搭載の過大な機体重量という悪条件のなかで、猛訓練で鍛えられた特攻隊員らが操縦する本機は次々と離陸し、見送っている地上要員を感心させたが、佐原正二郎一飛曹の機体だけが車輪がパンクして離陸ができなかった。7機となった「第3龍虎隊」であったが、そのうち隊長の三村と吉田節雄一飛曹の機体がエンジントラブルに見舞われて引き返し、吉田の機体は飛行場までもたず、近くの畑に不時着し、吉田は重傷を負って再出撃できず、結果的に「第3龍虎隊」唯一の生存者となった。

 

九三中練特攻による龍虎隊の連合艦隊告示はない。

 「写真太平洋戦争 特攻」p52

 

"The Sacred worriors"p268

On July 28 the orders came through: The Callaghan was to proceed to radar picket

No. 5, about thirty-five miles due east of Okinawa, and to remain there until 1:30 a.m, the following day, when she would be relieved before heading east for the United States.

At 12:30 a.m. the officer of the deck called to say he had a bogie about ten miles away. 

 

On picket duty with the Callaghan were the destroyers Cassin Young and Pritchett. Observers on the Cassia Young thought there were as many as twelve planes in the attack. The Callaghan had eyes only for one. The night was brightly moonlit, and from the Callaghan there was no problem in picking out the plane as it approached, ever so slowly.

 

This was no Zeke, or Val, but the oldest of fabric-covered biplanes, with Fixed under-carriage and traveling at about eighty-five miles an hour.

 

The 250-pound bomb she carried must have taxed all her resources.

Commander Bertholf thought the plane was going to fall well astern. He was wrong. Flying apparently unharmed through the hail of anti-aircraft fire, it passed over the stern and crashed the ship near the No. 3 upper handling room. The bomb went through the deck and exploded in the engine room, killing all hands there. "Although 1 was well forward on the bridge, the blast knocked me across the pilothouse like a feather," said Commander Bertholf. A furious gasoline fire broke out on deck. Commander Bertholf immediate thought was that about half his men would be killed.

Five minutes after the plane struck, the No. 3 upper handling room exploded, killing, injuring, and blowing over the side many of the men in the vicinity who were working on damage control. A minute later Captain Bertholf passed the word for all hands except he salvage party to prepare to abandon ship. The crew dropped into the water all available life rafts and floater nets which had not been blown to bits. They lowered the motor whaleboat with wounded, the doctor, pay records, and cash books. The Callaghan began to sink by the stern. The captain remained aboard for another hour amid furiously burning fires while more biplanes with their suicide pilots hovered overhead ready to go in for the kill if the Callaghan showed any sign of surviving.

 

 The Callaghan lost one officer end fory-six men missing in action and two officers and seventy-one men wounded. She was the last ship to be sunk by a kamikaze plane.

 

 After the first plane hit the Callaghan, the Pritchett and the Cassin Young closed in to pick up survivors. About an hour before dawn, a biplane made a slow dive on the Pritchett. The crew saw numerous anti-aircraft hits on the plane, but all seemed to pass through the fabric covering without causing damage. The plane struck the Prirchett a glancing blow but Failed to hurt her much.

 A third biplane had a go at the Cassin Young and was shot down about thirty yards off the starboard bow.

Shortly before daylight, the Pritchett and the Cassin Young Ieft for Hagushi Beach, where they transferred the wounded to a hospital ship before moving south of the entrance to Buckner Bay on patrol.

At about three o'clock next morning bogies approached from the southern coastline of Okinawa. Since a friendly also was in the area, the Cassin Young held its fire when the fire control radar picked up the approaching plane. Not until it was seen to be headed in a suicide dive did the ship's guns open fire. It was too late. The suicide plane hit close to the starboard aft whaleboat davit and exploded.

The Cassin Young survived, but she lost nineteen killed in action, with another forty-six missing. Five died later as a result of wounds. Many of the killed and wounded suffered most terrible injuries from broken steam lines.

This was the last dash for the suicide planes at Okinawa. The operation had cost the United States 12,300 killed and 36,400 wounded.

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第三龍虎隊、左から5人目が隊長三村弘上飛曹

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USS Callaghan DD-792

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USS Cassin Young

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USS Prichett DD-561

 

 残る1機も、対潜哨戒任務中の輸送駆逐艦ホラス・A・バス(輸送駆逐艦)英語版に低空飛行で接近、発見されたときには同艦の船楼に命中し、それをなぎ倒し、1名の戦死者と15名の負傷者が生じた[22]。2日渡った「第3龍虎隊」の攻撃で、アメリカ軍は1隻の駆逐艦が沈没、1隻が大破、2隻が損傷し、4隻で75名の戦死者と129名の負傷者という損害を被った。

 

わずか7機の本機に痛撃を被ったアメリカ軍は、練習機での特攻を脅威と認識、効果が大きかった要因を以下のように分析し、高速の新鋭機による特攻と同等以上の警戒を呼び掛けている。

・木製や布製でありレーダーで探知できる距離が短い。

  • 近接信管が作動しにくい(通常の機体なら半径100フィート(約30m)で作動するが、93式中間練習機では30フィート(約9m)でしか作動しない)。
  • 対空火器のMk.IV20㎜機関砲は、エンジンやタンクといった金属部分に命中しないと信管が作動せずに貫通してしまい効果が薄い。ただし、ボフォース 40mm機関砲は木造部分や羽布張り部分でも有効であった。
  • 非常に機動性が高く、巧みに操縦されていた。

 

 

本土決戦では、本機を中心とした練習機も特攻機として投入される計画であり、陸海軍の練習機合計4,450機が特攻機用に改修されていた 。陸上機、水上機合計5,591機が生産され、この内半数近くは日本飛行機製であったが、製造機数の多さと練習機という任務から、終戦時に残存していた機体数は海軍の機種の中では最も多かった。

 戦後インドネシア独立戦争にて九三式中間練習機インドネシア共和国軍によって練習機等として広く使われた。だが、ほとんどはインドネシア旧宗主国オランダ空軍による飛行場への爆撃により、1947年(昭和22年)までにはほぼ破壊されてしまった。

 

 九九高練(九九式高等練習機)

1950年4月22日23機を中心とする42機が出撃

戦果は掃海艇スワロー撃沈、駆逐艦4隻、掃海艇2隻に体当たり

「図解特攻」

 

 

 零式水上偵察機と零式水上観測機

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零式水上偵察機

脚に大きな浮舟をつけた水上機もまた、特攻出撃させられている。

主として使われたのは、零式水上偵察機と零式水上観測機の二種。いずれも最高時速で370キロ程度と、決して速くはない。ただし、数はある。偵察・連絡・輸送・哨戒と、多用途に使われる零式水上偵察機は、すでに千四百機も生産されていた。

一方、水上観測機は、艦隊決戦などの際、上空から弾着の模様などを観測するのが任務であり、敵側も同様に観測機を出すところから、観測機同士の戦いに備え、機銃三挺を据えてはいたが、速度といい格闘性能といい、もともと攻撃用にはつくられていない。飛行中に敵潜水艦でも発見した場合に備え、30キロ爆弾二発を積むぐらい。それらがいずれも250キロを超す爆弾を抱えて四月二十九日を皮切りに、命を捧げた。

職業軍人である海軍兵学校出身者は一人もいない。下士官の中に、17歳が8名、16歳が3名。

水上機特攻の出撃基地は薩摩半島の指宿。

最後の特攻 「図解特攻」  

 「写真太平洋戦争特攻」

 

 

九四式水上偵察機  「写真太平洋戦争 特攻」

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九四式二号水上偵察機

 

「指揮官たちの特攻」p124

 5月4日 米軍損傷艦艇

駆逐艦モリソン 0829 沈没 戦死者152名 負傷者102名

The first attack on Morrison, a main target as fighter-director ship, was a suicide run by a "Zeke". The plane broke through heavy flak to drop a bomb which splashed off the starboard beam and exploded harmlessly. Next a "Val" and another "Zeke" followed with unsuccessful suicide runs. About 08:25 a "Zeke" approached through intense antiaircraft fire to crash into a stack and the bridge. The blow inflicted heavy casualties and knocked out most of the electrical equipment. The next three planes, all old twin-float biplanes, maneuvered, despite heavy attack, to crash into the damaged ship. With the fourth hit, Morrison, heavily damaged, began to list sharply to starboard.

Few communication circuits remained intact enough to transmit the order to abandon ship. Two explosions occurred almost simultaneously, the bow lifted into the air, and by 08:40 Morrison had plunged beneath the surface. The ship sank so quickly that most men below decks were lost, a total of 152. wikepedia

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USS Morrison DD-560

駆逐艦ルース 0809 沈没 戦死者150名 負傷者94名

中型揚陸艦194号 沈没 戦死者13名 負傷者23名

中型揚陸艦190号 沈没 戦死者13名 負傷者18名

大破

駆逐艦イングラム 戦死者15名 負傷者36名

敷設駆逐艦シェイ 戦死者35名 負傷者91名

空母サンガモン 戦死者46名 負傷者116名

その他

軽巡洋艦バーミンガム 戦死者51名 負傷者81名

など

5月4日出撃特攻隊

指宿基地出撃 0530-0600

第一魁隊 零水偵 爆装800㎏ 2機6名 沖永良部島付近

     94水偵 爆装500㎏ 3機6名 沖永良部島付近 

     94水偵 爆装500㎏ 3機6名 沖縄周辺

琴平水心隊  0600 

                  零水偵 爆装800㎏ 1機2名    沖縄周辺

     94水偵 爆装500㎏ 9機20名 沖縄周辺 

駆逐艦モリソンに突入した3機の複葉機は沖縄周辺に向かった94水偵であろう。 琴平水心隊94水偵搭乗の中に、中尾武則少尉、東大予備学生14期22歳がいる。

 

 「きけわだつみのこえ」より

娑婆よりの最後のおとずれを書こうとしてペンを執ったが、千万言胸に溢れて書くべき言葉を知らない。

君の手紙や電報は四日、香椎に帰ってから見た。二十八日の夜香椎駅の夕闇をすかして私を探した君の姿を思い浮べて誠にすまないと思う。

 

君は姪の浜や新宮の浜のような美しい砂浜にどこまでも続いている足跡を見た事があるだろう。

藤村か誰かの詩にそんな光景を歌ったのがあったように思う。私はそこに交り合った数条の足跡が我々であったように思う。どこに始ってどこに終るかもしれない。どこに交ってどこに別れるかも知れない。そこはかとなく悲しいものは浜辺の足跡である。

 

浪に消される痕であっても、足跡の主のカづよい一足一足が覗かれる。もり上った砂あとに立ち去った人の逞ましい歩みを知る時、私はカづけられる。誠に我々は過去を知らず、未来を知らない。しかし現在に厳然と立つ時、脚に籠るカを知る。加藤からの便りにも『永遠に歩かねばならぬ、永遠に歩き続けねばなりません』とあった。中尾武徳

 

第一魁隊 

甲飛8 飯塚英次 上飛曹
西南学院13 野美山俊輔 少尉
甲飛13 金子清 二飛曹
慶大14 舟津一郎 少尉
国学院14 前原喜雄 少尉
早大14 山本謹治 少尉
日体専13 宮村誠一 少尉
日大13 玉木麻人 少尉
慶大14 渡部庄次 少尉
東大14 林元一 少尉
甲飛12 中村正一 一飛曹
甲飛12 岩佐忠男 一飛曹
東京農大14 佐藤憲次 少尉
早大13 碇山達也 少尉
上智大14 武井青 少尉
法大14 中島之夫 少尉
明大14 山口竜太 少尉
慶大14 河野宗明 少尉
     

琴平水心隊

滋賀師13 碓本守 少尉
東大14 田中敬 少尉
甲飛12 高橋淳一 二飛曹
中大14 橋本清 少尉
立命館大13 斉藤友治 少尉
甲飛13 勝又徳 二飛曹
京商大14 矢野弘一 少尉
京大14 山口久明 少尉
甲飛12 斎藤裕 一飛曹
甲飛11 笹尾愛 上飛曹
立命館大13 四方正則 少尉
甲飛12 轟慧 一飛曹
甲飛13 字野茂 二飛曹
東大14 中尾武徳 少尉
甲飛13 野村竜三 二飛曹
法大14 中谷栄一 少尉
国学院14 矢野幾衛 少尉
甲飛12 徳田昭夫 一飛曹
甲飛13 関口剛史 二飛曹
同志社大14 矧所啓市 少尉
明大専生1 林真喜三 少尉
甲飛12 新山秀夫 一飛曹

 

この日、沖縄戦5回目の航空総攻撃で水上偵察機以外にも多くの特攻隊が出撃した。

新竹基地出撃 忠誠隊 彗星 1機

       振天隊 99爆 1機

宜蘭基地出撃 第十七大義隊 零戦 8機

鹿屋基地出撃 第六神風桜花特別攻撃隊 桜花1機 母機帰着

       第七神風桜花特別攻撃隊 桜花・一式陸攻(1機帰着) 6機

       第四神剣隊 練習戦闘機 爆装250㎏ 15機15名

串良基地出撃 第八幡艦攻隊振武隊 97艦攻 爆装800㎏ 3機9名

       白鷺揚武隊  97艦攻 爆装800㎏ 1機3名

       第二正気隊  97艦攻 爆装800㎏ 2機6名

陸軍

知覧基地出撃 第十八振武隊 一式戦 1機

        十九    一式戦 4機

        二十    一式戦 1機

        二十四   二式複戦 1機

        四十二   一式戦 1機

        六十    四式戦 6機

        六十六   97式戦 4機

        七十七   97式戦 1機

        七十八振武隊桜花隊一式戦 5機

        百五    97式戦 2機

        百六振武隊白虎隊 97式戦 1機

        百九    97式戦 2機

台中基地出撃 誠第三十四飛行隊 四式戦 6機

八塊基地出撃 誠第百二十飛行隊 四式戦 3機

宜蘭基地出撃 19戦隊  三式戦(飛燕) 2機    

       105戦隊 三式戦(飛燕)  2機

                                 原仁少尉(特操1期) 中島渉軍曹(少飛13期)

         いずれか 空母サンガモン突入

八塊基地出撃 誠第百二十三飛行隊 二式複座戦闘機(屠龍) 1機 

       少年飛行兵13期 水越三郎伍長  空母サンガモン突入

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サンガモンに突入寸前で外れた大義零戦

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炎上する空母サンガモン

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特攻によるサンガモンの飛行甲板

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サンガモン飛行甲板被害

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サンガモン上部甲板格納庫被害

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サンガモン乗員

 

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サンガモン突入特攻隊員

飛行時間
開戦時には、海軍航空隊の搭乗員は、みな平均六百五十時問前後の飛行時間をもっていた。しかし、これらの優秀な熟練したパイロットたちは、開戦から一年の間に、あいつぐ空の激戦で、あるいは内地に飛行機受領にかえる途中輸送機の中などで、ほとんど消耗された。

終戦時の日本の搭乗員の飛行時間が、百時間内外だったのに比して、アメリカの塔乗員は五百から六百時間といわれていた

特攻隊の人選にあたり、飛行時間は三百時間程度とされていたが、実際に特攻に出撃していった同期の学鷲たちは二百時間前後で出撃していった。

「海軍飛行科予備学生」