神風特攻隊第一号 First Kamikaze

 


神風特別攻撃隊の実写映像【第二次世界大戦】

  海軍大尉 関行雄

 

                       関行雄 Seki Yukio

 1944年10月28日、

「海軍大尉、関行雄を隊長とする神風特別攻撃隊敷島隊は10月25日に米軍艦に体当たり攻撃し、航空母艦1隻撃沈、同1隻炎上撃破、巡洋艦1隻轟沈した」と当時の海軍省は公表した。

新聞各紙は翌日、一面トップでこれを報じ、

「日本人のみの敢行しうる至誠の華」

「一億必死必中の新たなる決意を以て続かねばならない」

「機上の神々」などと褒めたたえた。

 

関行雄は最初の神風特攻隊隊長となった。

1921年8月29日生まれ、1938年12月海軍兵学校入学17歳(70期)、

1941年20歳卒業、

この写真は兵学校4回生の時。

 

兵学校卒業の3年後、1944年10月25日、戦死23歳

同年5月26日に結婚していた。結婚3か月後に台湾に赴任。

横浜航空隊の波止場から飛行艇での赴任で、妻満里子も見送りに来た。ところが、予定の飛行艇の調子が悪く、欠航となり、満里子は手をたたいて喜んだという。

翌日、関は出発、台湾赴任後、フィリピンに転属し特攻に出たため、二人はその後会うことはなかった。

父は戦前病死していた。

戦後、特攻隊は軍事国家の片棒を担いだということで、戦中、尊敬の的であったのと全く逆の扱いを受けた。行雄が戦死したとき多くの弔問客の相手で忙しがった母は戦後、生活にも苦労し5年目に学校の用務員室で亡くなった。行男の墓をつくるために大事に預けておいた弔慰金は、敗戦で価値を失い墓地を手に入れることもできなくなった。墓とは別に、りっぱな慰霊碑が建ち、慰霊祭が行わるるようになったが、「神風特別攻撃隊」の名付け親である源田実が来ると聞いてから、母は参列しなくなったという。

 

「親一人、子一人」「長男」「妻子持ち」を特攻隊員に選ぶことは避けたといわれるが行雄は「母一人」の「長男」で「新婚の若妻」がいた。

その後の特攻隊員の中には幼い子供の父親もいる。

 

特攻隊隊長 指名

フィリピン配属まもなく突然、出頭命令があり、階下の士官室へ行ってみると、副長の玉井浅一と参謀の猪口力平から250キロ爆弾を装着した零戦の編隊を指揮し、レイテ方面のアメリカ機動部隊めがけて体当たりする攻撃隊の隊長を打診された。

 

すぐには答が出ない。まだ赴任早々。もともと艦爆乗りであり、零戦そのものに馴れていないし、その編隊を指揮したこともない。その上、下痢続きで衰弱し、休んでいるところを、深夜起こされ、呼び出されてのいきなりの発令。とっさに「はい」とは答えられない。そのあげく、ようやく、「一晩考えさせて下さい」と答え、ひとまず粗末な寝室へと戻ったというのが、後になってわかった真相のようである。(「敷島隊の五人」「指揮官たちの特攻」)

 

ところが、当の幕僚たちの書いた本によると、ちがう。

関大尉は唇をむすんでなんの返事もしない。両肱を机の上につき、オールバックの長髪を両手でささえて、目をつむったまま深い考えに沈んでいった。身動きもしない。

一秒、二秒、三秒、四秒、五秒、… と、かれの手がわずかに動いて、髪をかきあげたかと思うと、しずかに頭を持ちあげて言った。

「ぜひ、私にやらせてください」

すこしのよどみもない明瞭な口調であった。(猪口力平・中島正著『神風特別攻撃隊』)

 

大西司令長官の副官門司親徳(ちかのり)は『回想の大西瀧治郎』で、関大尉が決意した直後の光景として、次のように伝えている。

深夜、大西中将が階下へ降りて行ったので、門司副官は急いで半長靴をはき、上着をつけて降りると、士官室兼食堂には、大西中将と猪口参謀、玉井副長、指宿正信大尉、横山岳夫大尉と、もう一人の士官が坐っていた。髪の毛をボサボサのオールバックにした痩せ型の士官であった。猪口参謀がその士官に向かって、「関大尉はまだチョンガー(独身)だっけー」と訊く。これに対して、関は、

「いや」

と言葉少なに答えた。

「そうか、チョンガーじゃなかったか」

と猪口参謀がいった。

 

 10月20日同盟通信社の記者で海軍報道班員の小野田政はマバラカット西飛行場の傍を流れるバンバン川の畔で関と話した。関は小野田に対して次のように語った。

 報道班員、日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。僕なら体当たりせずとも、敵空母の飛行甲板に50番(500キロ爆弾、関の特攻ゼロ戦が装備したのは250キロ爆弾)を命中させる自信がある。僕は天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛のKA(海軍の隠語で妻)のために行くんだ。命令とあらば止むを得まい。日本が敗けたらKAがアメ公に強姦されるかもしれない。僕は彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだ。素晴らしいだろう。

 

 森史郎著「敷島隊の五人」では関大尉の特攻隊隊長指名について種々の疑問を呈している。当の関自身、自分が特攻に選ばれたことに疑問だった。

 

神風特別攻撃隊 敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊

 神風特別攻撃隊は敷島隊5名以外に、大和隊、朝日隊、山桜隊が編成された。
その隊名は本居宣長の詩から取られた。
     敷島の 大和心をひと問はば 朝日に匂(にお)ふ山桜花

 

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 10月20日第一航空艦隊司令長官に内定した大西瀧治郎中将がマバラカット西飛行場にて関と敷島・大和両隊隊員と最後の対面を行い、別れの水杯を交わす。

左から関、中野磐雄、山下憲行、谷暢夫、塩田寛(大和隊)、宮川正(大和隊→菊水隊)。後姿は左が玉井、中央が大西。大西はマニラの本部に帰る前に特攻隊員に会った。(日映・稲垣浩邦カメラマンが10月20日に撮影)

関行雄 Seki Yukio

関は宿舎で妻満里子宛および母サカエ宛の遺書をしたため、満里子の親族に対するお礼や、教官時代の教え子に対しては「教へ子は 散れ山桜 此の如くに」との辞世を残した。また、この日に日本から戻ってきたばかりの同僚にも不満や残る家族への思いを打ち明けた。10月20日には米軍がフィリピン レイテ島に上陸を開始した。

 

10月21日朝、100式司令部偵察機がレイテ島東方洋上でアメリカ機動部隊を発見。敵艦隊発見の報を受けて出撃は敷島・朝日の二隊に決定する。

 

関は玉井に遺髪を託し、9時に僚機を伴ってマバラカット西飛行場を発進した。

しかしマバラカット東飛行場から発進した「朝日隊」と合流して敵艦隊を目指すも見つけられず、燃料状況から攻撃を断念してレガスピに不時着した。関は10月22日早朝、「敷島隊」と「朝日隊」を率いてマバラカットに帰投し、玉井に「相済みません」と涙を流して謝罪した。

 

大和隊 久野好孚中尉

10月21日に初出撃した特攻隊は「敷島隊」「朝日隊」の他に、セブに移動していた「大和隊」があった。16時25分に爆装2機と直掩1機が発進したが、悪天候に阻まれて爆装1機と直掩機は引き返した。しかし隊長の久納好孚中尉は帰らなかった。

 
久納は飛行機が好きで、法政大学の学生時代から学生飛行連盟的なもののメンバーになり、羽田で飛ぶなどしていた。ピアノも巧みに弾き、出撃前夜まで、基地内の洋館のピアノを借り、「月光」など弾いている。

 

中島正飛行長の回顧によると久納は出撃に当たって、「機関銃も無電も不要、外して残して置く」と言う。中島は敵が見つからず帰還中、敵に遭遇したら機銃は必要だと諭したが、「空母が見つからなかったら、レイテへ行きます。レイテに行けば目標は必ずいますから、決して引き返すことはありませんよ」と答えた。

 後日に本人の出撃前の決意から推して、体当たりしたものと発表された。 しかし、最初の特攻隊として発表されたのは後で出撃した敷島隊であった。関が三度も出撃・帰還を繰り返している間に、久納は関より四日早く出撃して、帰らなかった。

    

 

 

10月19日米軍はレイテ島東方約100kmのスルアン島に上陸、巡洋艦駆逐艦などがこれを支援。20日にはレイテ島上陸作戦を開始、戦艦3隻、駆逐艦6隻による艦砲射撃と艦載機約1200機、地上機約3200機による空爆で始まり、ロケット砲装備の上陸用舟艇の先導のもと約700隻の艦船と20万人以上の陸上部隊が押し寄せた。久納が出撃した21日にレイテ湾には多数の米軍艦船がいるという久納の予想は正しかった。

 

アメリカ側の10月21日の記録ではオーストラリア海軍重巡洋艦「オーストラリア」がこの日午前6時30分、日本軍機の攻撃を受けた(戦死行方不明30名、負傷64名、沈没はせず)。しかし、久野が発進したのは午後4時25分なので、これは久野ではないと言われる(「ドキュメント神風」)。日本軍機は99式艦上爆撃機だったともいわれ、久納の乗ったゼロ戦ではなかった。重巡オーストラリアはレイテ島への米軍上陸を援護射撃していた。

 

      攻撃を受け一番煙突が倒壊した重巡洋艦「オーストラリア」

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九九式艦上爆撃機

 Task Force 74 was absorbed on 11 October into Task Unit 77.3.2, assigned to provide close cover for the landing force in the operation to recapture Leyte, and departed that day for Hollandia.[114] At 15:30 on 13 October, Task Group 77.3 (including Australia and her companions) began the seven-day voyage to Leyte.[115] At 09:00 on 20 October, Australia commenced shelling targets prior to the amphibious landings, then was positioned to provide gunfire support and attack targets of opportunity throughout the day.[116] At around 06:00 on 21 October, Japanese aircraft attacked attempted to bomb the Allied ships in Leyte Bay.[117] An Aichi D3A dive-bomber dove for Shropshire, but broke away after heavy anti-aircraft fire was directed at it.[117] The Aichi, damaged by Bofors fire, turned and flew at low level up the port side of the nearby Australia, before striking the cruiser's foremast with its wingroot.[117][118] Although the bulk of the aircraft fell overboard, the bridge and forward superstructure were showered with debris and burning fuel.[117][118] Seven officers (including Captain Dechaineux) and twenty-three sailors were killed by the collision, while another nine officers (including Commodore Collins), fifty-two sailors, and an AIF gunner were wounded.[45][119] Observers aboard Australia and nearby Allied ships differed in their opinions of the collision; some thought that it was an accident, while the majority considered it to be a deliberate ramming aimed at the bridge. Following the attack, commander Harley C. Wright assumed temporary control of the ship. [118][120] Although historian George Hermon Gill claims in the official war history of the RAN that Australia was the first Allied ship hit by a kamikaze attack, other sources, such as Samuel Eliot Morison in History of United States Naval Operations in World War II disagree as it was not a preplanned suicide attack (the first attack where the pilots were ordered to ram their targets occurred four days later), but was most likely performed on the pilot's own initiative, and similar attacks by damaged aircraft had occurred as early as 1942. wiki

敷島隊 突入

 10月23日、「朝日隊」「山桜隊」はマバラカットからダバオに移動した。唯一マバラカットに残った「敷島隊」は23日・24日にも出撃したが悪天候に阻まれて帰投を余儀なくされた。関は帰投のたびに玉井に謝罪し、副島泰然軍医大尉の回想では出撃前夜まで寝る事すら出来なかった状況だったという。久野中尉に後れを取ったと思ったかもしれない。

 

この日レイテ湾突入を目指してブルネイを出撃しパラワン島沖を航行していた栗田艦隊は潜水艦攻撃を受け 重巡愛宕と摩耶が沈没、高雄が大破しブルネイに退避、愛宕は旗艦だったので、戦艦大和を旗艦に変更した。

次の日、10月24日シブヤン海に突入。米軍機延べ264機の攻撃で戦艦武蔵が沈没、重巡妙高脱落、駆逐艦2隻離脱。戦艦大和も命中弾受けるも戦闘継続、レイテ湾へ向かう。

 

ルソン島沖では空母プリンストンルソン島内の基地から出撃した日本軍機 彗星の徹甲爆弾により、爆発沈没(士官10名と兵員98名が戦死)。その爆発で救援に横付けした軽巡バーミンガムも損傷し、死者233名、負傷者426名。

 

夜、栗田艦隊とともにレイテ湾突入を計画しブルネイを出撃していた西村艦隊が栗田艦隊の到着遅延により、単独突入を決める。これを察知したオルデンドルフ少将第七艦隊第2群(戦艦6隻、重巡洋艦4隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦26隻、魚雷艇39隻)は夜戦準備をし、西村艦隊を全滅(戦艦山城、扶桑、重巡最上、駆逐艦4隻)。そのあとを追ってきた志摩艦隊の多くを損傷した。

 

唯一空母を有し比島北東で囮となった小沢艦隊(空母瑞鶴、千代田、千歳、瑞鳳、戦艦伊勢、日向、軽巡6、駆逐艦5)もハルゼー将軍率いる米軍機、米水上部隊、潜水艦の攻撃で空母のすべてを失うなど大打撃を受けた。史上最大の海戦といわれる比島沖海戦(レイテ沖海戦)の中で特攻は開始された。日本は比近海で艦隊と行動を共にする空母はなく、比島の航空基地からの攻撃機に頼り、それも事前の米軍の空襲を受けて破壊され圧倒的に数が足りなかった。

 

 10月24日、大西中将はマバラカット、セブおよびダバオの各基地に対し、10月25日早朝の栗田健男中将のレイテ湾突入に呼応して最初の特攻隊出撃を命じる。栗田艦隊のレイテ湾突入による米軍攻撃はレイテ沖海戦における日本軍の最重要作戦であった。

「敷島隊」には戦闘311飛行隊から関と同じ愛媛出身の大黒繁男上等飛行兵が加わり、直掩には歴戦の西澤廣義飛曹長が加入した。

10月25日7時25分、関率いる「敷島隊」10機(爆弾を装着した爆装6機、援護と成果確認のための直掩4機)はマバラカット西飛行場を発進する。途中、初出撃から行動を共にしていた山下機がエンジン不調でレガスピに引き返し、「敷島隊」の爆装機はこの時点から5機と直掩4機となる。

 10時10分 レイテ湾突入を断念して突然、引き返す栗田艦隊を確認した後、

 10時40分 護衛空母6隻、駆逐艦7隻の米第七艦隊第77.4.3任務群を発見、

 10時49分 隊長機を先頭に全5機突入し戦死した。

 

敷島隊の特攻攻撃を受けた米第七艦隊第77.4.3任務部隊(タフィー3)司令官クリフトン・スプレイグ少将栗田艦隊のレイテ湾突入を防ぐためレイテ湾東方にいたが、その構成は

護衛空母 6隻

  ファンショー・ベイ(旗艦)、ホワイト・プレインズ、カリニン・ベイ、

  セント・ロー、キトカン・ベイ、ガンビア・ベイ

駆逐艦3隻、護衛駆逐艦4隻。

 日出後30分、クリフトン・スプラーグ少将は哨戒機から、戦艦四隻、巡洋艦七隻、駆逐艦一一隻からなる日本水上部隊が、スプラーグ隊の北西二〇カイリの海面を三〇ノット(時速56km)で接近中との報告を受ける。栗田艦隊がレイテ湾に突入すべく突撃してきたのだ。

 「キトカン・ベイ」の見張員が、日本軍戦艦のパゴダ・マストを水平線に発見、パイロットに発進命令。戦力が圧倒的に劣る米艦隊は煙幕を張りながら東方に針路を変え、全速力でスコールめざして走る一方、救援を他の空母部隊やキンケイドの第七艦隊あてに電報で要請。

 午前6時59分、戦艦「大和」が射撃を開始。高速巡洋艦部隊の一部を直衛駆逐艦とともに派遣し、米護衛空母隊を、日本戦艦部隊の主砲の射程内に後退させようとした。巡洋艦部隊は、米護衛空母群に接近すると射撃を開始。

 米艦隊は急角度変針、ガンビアベイとカリニンベイが取り残され、日本の巡洋艦の砲撃を受ける。ガンピアベイは転覆、カリニンベイは右舷に傾斜。しかし、

 午前9時11分栗田艦隊は戦闘を突然中止し、変針。

 

午前10時、米空母セントローの乗組員は、やれやれとコーヒーを飲むなど休息をとっていた。甲板には、戦闘機、雷撃機の出撃の準備のため魚雷4本、爆雷6個、爆弾55発、多量の機銃弾が置かれていた。その時、

 

 午前10時49分、上空にいた関は翼を振って部下に突撃を指示、自ら突入した。

 セントローの艦尾1000メートル付近で急降下をやめた零戦一機が、飛行甲板に着艦するような姿勢で、高度約30メートルで「セント・ロー」めがけて飛んできた。20ミリ機銃一挺と連装40ミリ機銃一基がこれに向かって発砲したが、効果はなかった。この零戦パイロットは避弾運動をとることなくめざして突進してきた。

午前10時52分零戦は爆弾を飛行甲板に投下し、横転して、飛行甲板の五番制動索付近の、中心線から5メートル左舷寄りのところに激突、爆発した。惰力のため機体は、飛行甲板に沿って回転しながら艦首まで飛ばされた。

体当たりしたゼロ戦は甲板上に火のついたガソリンをまき散らし猛烈な火災が発生した。同時に、飛行甲板を貫通して格納庫内でとまった爆弾が爆発した。飛行甲板の舷側張出し待避所までかけ込む時間のなかった何名かの乗組員は、火のついたガソリンを体にあびた。

友軍機が着艦するさいに備えて用意されていた消火ホースが、すぐひき出されて使用された。消火ホースのうち二本は泡沫消火ホースであった。爆弾の貫通により飛行甲板にあいた穴の直径は、六〇センチたらずのものであった。マッケンナ艦長がみたかぎりでは、「セント・ロー」の損害はこれだけであった。

 

だが、飛行甲板の下では、状況は非常にちがっていた。撒水装置が作動しなかった。乗組員が消火ホースをひっぱり出したが、十分な水圧を持っていたのはそのうちの一本のホースだけで、それもきわめて短時間しか水が出なかった。爆弾の爆発後30秒たったとき、格納庫内にあった高オクタン価ガソリン搭載の飛行機がバラバラに吹き飛んだ。ガソリンが格納庫甲板一面にとび散り、烈しく燃えだした。第二回目の爆発により、多数の負傷者が出た。飛行甲板上で、爆弾が貫通した穴から消火ホースで格納庫内に放水していた応急班員でさえ、火炎と濃い黒煙が吹き出してきたので、ひどい火傷をした。

午前10時54分、鮮やかな黄色の閃光が走ったかと思うと、これまでのものよりいっそう猛烈な第三回目の爆発が起きた。この爆発で飛行甲板の一部が吹き飛ばされ、後部エレベーターも空中に投げ出された。このときの爆発で巡洋艦ミネアポリス」のウィリアム・P・テイラー大尉は舷側張出しのドアから海中に吹き飛ばされた。「セント.ロー」の多数の乗組員が舷外に吹き飛ばされ、さらにより多くの乗員が死亡した。

マッケンナ艦長は、「総員退艦用意」の命令を出した。

 午前10時56分、四度目の爆発が起こった。二分後さらに五回目の爆発が起こり、格納庫の左舷隔壁を破壊した。マッケンナ艦長は、「総員退艦」を命じた。乗組員たちが、節を作ったロープや消火ホースを伝わったり、甲板から跳びこんだりしながら、海中に逃れていたとき、爆発がさらにつづいて三回起こった。最後に艦を離れることになっているマッケンナ艦長がまだ艦橋にいたとき、六回目の爆発が起こった。艦長は七回目の爆発のあと退艦した。八回目の爆発後五分間で「セント・ロー」は右舷に傾き沈没していった。

駆逐艦護衛駆逐艦が現場に急行し、生存者の救助に当たった。救助された「セント・ロー」St Lo CVE63の乗組員は784名で、そのうち約半数が負傷したり、火傷を負っていた。乗組員のうち戦死したものは24名であった。

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St Lo (CVE63)

 

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特攻を受けたSt Lo

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特攻を受けたSt Lo

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2019年海底で発見されたセントロー




「ドキュメント神風」(デニスウオーナ、ペギーウオーナー著)には次の記述がある。

 

 関大尉はみずから編隊の先頭に立って、彼自身の改撃を「カリニンベイ」 に向けた。「カリニン・ベイ」は、その日の朝早く、日本軍の砲撃を受け、少なくとも「大和」の46センチ砲弾一発を含む砲弾が命中していた。
「セント.ロー」が特攻機の体当たり攻撃を受けるよりも一分かそこらまえに、関は「カリニン.ベイ」に向けて突撃を始めた。関が乗っていた零戦は、彼が約60度の急降下からきりもみ状態にはいったとき、煙を発しながら飛行甲板に命中して甲板に数個の穴をあけ、それから横すべりして左舷艦首から海中に落ちた。小火災を多数発生させたが、これらの火.災はすぐに消しとめられた。関が抱えていた爆弾は爆発しなかった。隊長が任務の一部しか遂行できなかったのをみて、関の率いる編隊機のパイロットの一人が、彼にならって突撃した。繰り返し対空砲火の命中弾をあび、火災を発していたその二番機は、もうすこしのところで「カリニン・ベイ」をはずれるところであったが、海面に突入するまえに斜めに体当たりした。こんどは爆弾が破裂して、「カリニン・ベイ」の乗組員に軽傷だが多くの負傷者と、その船体に小さな破孔をいくつかあけた。

 

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The U.S. Navy escort carrier USS Kalinin Bay (CVE-68) underway at sea, circa in 1944.

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Flight deck damage from the third of four airplanes that attacked USS Kalinin Bay (CVE-68) after the engagement of the Battle of Samar, 25 October 1944. "At 1050 the task unit came under a concentrated air attack; and, during the 40-minute battle with enemy suicide planes, all escort carriers but Fanshaw Bay (CVE-70) were damaged. One plane crashed through St. Lo's flight deck and exploded her torpedo and bomb magazine, mortally wounding the gallant carrier. Four diving planes attacked Kalinin Bay from astern and the starboard quarter. Intense fire splashed two close aboard; but a third plane crashed into the port side of the flight deck, damaging it badly. The fourth hit destroyed the aft port stack." (Quoted from DANFS, Dictionary of American Naval Fighting Ships.) National Archives (College Park, MD) photos: 80-G-270509 (NS0306807) 80-G-270510 (NS0306807a)

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Deck scene on USS Kalilin Bay (CVE-68) as she is near missed by Japanese shells, during the battle off Samar, 25 October 1944. Japanese ships are faintly visible on the horizon. Photograph by Phi Willard Nieth. National Archives and Records Administration (NARA) photo, # 80-G-288132.

敷島隊の攻撃は続く。「キトカン・ベイ」の見張員が午前10時49分に、四番機とその直掩機を発見した。四番機の零戦は「キトカン・ベイ」の頭上を左舷から右舷に通過し、対空砲火をあびた。四番機はそれから急上昇、反転して機銃を掃射しながら、艦橋をめがけて真っすぐに突っ込んできた。艦橋をはずれたあと、この零戦パイロットは飛行甲板に体当たりするためには、時機を失せず機首を下げるべきだったのに、それに失敗して、その代わりに「キトカン・ベイ」の左舷外側通路に衝突したあと、舷側から約30メートルの海中に突入した。
爆弾が爆発して、艦内に火災を発生させたが、少しばかりの損害をあたえたにすぎなかった。

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USS Kitkun Bay CVE71

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キトカンベイ上空を通過して墜落する日本軍機


敷島隊の最後の五番機は、「ホワイト・プレインズ」に向かった。五番機が飛行甲板の後部に体当たりするよう突進中、「ホワイト・プレインズ」の砲手がこれを徹底的に射撃した。零戦がまさに衝突しようとしたとき、「ホワイト・プレインズ」が取舵を一杯とった。この零戦は左側外側通路のわずか数センチ上をかすめて、舷側通路と水面とのあいだで火の玉となって爆発し、その破片が飛行甲板のうえに夕立のように落下した。この至近弾によって「ホワイト・プレインズ」の船体が激しくねじ曲げられ、一時停電し、装甲鉄板がへこんだ。

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USS White Plains CVE66

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ホワイトプレインスに突入する特攻機

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サマール島沖で栗田艦隊の砲撃に包まれるホワイト・プレインズ(後方)。手前は航空機を発進させているキトカン・ベイの飛行甲板



 敷島隊の四機の直掩機のうち一機が、米軍の戦闘機か、「カリニン.ベイ」の対空砲火によって撃墜された。残り三機の直掩機は、何千メートルも空中高く昇った黒煙と「セント.ロー」が沈没するのを見とどけて、中島正中佐が大和隊を配備していたセブ基地へ急いで帰投した。歴戦のパイロットで、中島中佐の古い戦友でもある西沢広義飛行兵曹長が、興奮して零戦から駆け出してきて、この吉報を報告した。西沢は、編隊の先頭にいた関大尉の零戦が空母(これはその後「セント・ロー」であったと考えられた)を直撃し、ついで別の一機がこれにならって、同じ空母のほとんど同じ個所に体当たりしたと、語った。特攻機の攻撃を受けた米護衛空母の戦闘報告には、同時に特攻機二機の攻撃を受けた唯一の空母は「カリニン・ベイ」とある。

西沢は、巡洋艦一隻も撃沈され、さらに中型空母一隻火災停止と報告しているので、彼の報告は正確さの点では一段劣っていたが、彼は米軍戦闘機の攻撃を受け、その二機を撃墜しながらの特攻戦果確認であったのでやむを得ないだろう。

 セブに帰投した西沢およびその他の直掩機のパイロットたちは、翌日、一式陸攻マバラカット基地へ輸送されている途中、撃墜されたので真実は霞の中に隠れた。このように戦果確認は直掩機がいても簡単ではなかった。次第に直掩機が随伴することもなくなり戦果の確認もできなくなるとともに、最後をみとる僚友もなく突入することになる。 

 

日本映画社・稲垣浩邦カメラマンが撮影した、10月20日の大西との訣別と21日の出撃、それに28日の大本営発表を組み合わせた日本ニュース第232号「神風特別攻撃隊」が公開された。戦争中のニュースの為、将に戦意発揚の内容である。


日本ニュース第232號

 

 菊水隊 

 組織的な航空特攻の公式初戦果としては、関が率いる「敷島隊」となっている。だが、実際は「敷島隊」より3時間早くダバオを発進した「菊水隊」(特攻機2、直衛機1)が戦果を挙げていた(『戦史叢書海軍捷号作戦〈2〉フィリピン沖海戦』)。
菊水隊はミンダナオ島スリガオ沖の東方で米第77.4.1任務群「タフィー1」(護衛空母六、駆逐艦七)を発見、午前7時40分に突撃した。セブ基地に帰還した直衛機の報告で「二機正規空母ノ艦尾二命中火災停止」したことが確認された。突入したのは宮川正一飛曹、加藤豊文一飛曹。直衛は鹽(塩)森実上飛曹である。

 米側の資料によれば、午前7時40分、特攻機が機銃を撃ちながら空母「サンティー」Santeeの飛行甲板左舷前部に命中、16人が戦死、27名が負傷した。さらに空母「スワニ-」Suwanneeを別の一機が襲い、後部エレベーター前に命中した。(71名戦死、82名負傷)

「本来ならば神風特別攻撃における、戦果を確認された最初の隊として、その栄誉は菊水隊に与えられるべきであったが、確認に手間どり連合艦隊司令長官への報告が遅れたためか、その栄誉は関大尉指揮の敷島隊が担うことになった」「戦史叢書 海軍捷号作戦」報告遅れが原因だったのか、あるいは海軍エリート(海軍兵学校出身)の関を前面に出そうとしたのか。真相はわからない。

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Santee

 

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USS Santee (CVE-29) is hit by a Japanese kamikaze, at 0740 on 25 October 1944. Bright orange flames fed by burning avgas billow above Santee's flight deck as fragments of the Zeke, probably piloted by PO1c Kato splash to either side. Santee survived, but had to return to the U.S. for permanent repairs to battle damage and general overhaul. The escort carrier was back in the Philippines in March 1945.

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Kamikaze strikes USS Santee (CVE-29), 25 October 1944. National Archives photo (# 80-G-273453).

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Fires rage after the ship was hit by a Kamikaze at 0740 hours on 25 October 1944, during the 2nd Battle of the Philippine Sea (aka the Battle of Leyte Gulf.) Official US Navy photograph.

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USS Suwannee CVE27

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Photo of the Mitsusbishi A6M5 Navy Type 0 Carrier Fighter Model 52 piloted by PO1c Tamisaku Katsumata. Had Katsumata's Zeke maintained its dive as shown in photo [NS0302710], it would certainly have missed aft of Suwannee, so he corrected its aim point by reducing the dive angle. This is caught in this image taken aft on the carrier's flight deck, showing the underside of the fighter with the trails of tracer rounds passing underneath. Even more rare is the fact that it is known that this particular aircraft had previously been flown by the Japanese ace WO Hiroyoshi Nishizawa, but had been turned over to Katsumata because Nishizawa was scheduled to fly to Manila to pick up new aircraft. Photo NARA (National Archives and Records Administration) facility College Park, MD. Photo and text from Fire From The Sky, by Robert C. Stern.

 

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kamikaze attack on USS Suwannee off Leyte, 26 October 1944. (1) As a returning American torpedo bomber (lower plane) approaches deck for landing, a Japanese suicide plane streaks out of clouds in an 80-degree dive. Photo taken from USS Sangamon (CVE-26)

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(2) The Zeke crashes Suwannee's flight deck and careens into a torpedo bomber which has just been recovered. The two planes erupt upon contact as do nine other planes on her flight deck. Photo taken from USS Sangamon (CVE-26).

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特攻攻撃を受けたUSS Suwannee CVE27

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特攻攻撃を受けたスワニー

米軍は日本軍航空機にニックネームをつけたが、Zekeはその一つで零戦を指す。

 

「ドキュメント神風」p248によると

午前6時30分、朝日隊の上野敬一一等飛行兵曹、他の一隊ー菊水隊の加藤豊文一等飛行兵曹がダバオから発進。(日本の記録では朝日隊1、山桜隊2、菊水隊2の5機)

午前7時40分、二つの特攻隊のうちの一機が「サンティー」めがけて急降下してきた。このとき、「サンティー」は乗組員を戦闘配置につけておらず、きわめて敵から攻撃されやすい状態にあった。高性能爆薬「トルペックス」245ポンドを充填した重さ350ポンドの爆雷約24個と、TNT爆薬を充填したほぼ同数の普通爆弾が、弾薬庫から取り出されて、航空機に搭載するため格納庫内におかれていた。攻撃兵器と燃料の搭載を終えた航空機数機が飛行甲板に並んでいた。

「サンティー」めがけて急降下した日本機は最後の瞬間、彗星あるいは飛燕と誤認されたが加藤か宮川正一等飛行兵曹かが操縦していたゼロ戦で、左舷側から約五メートル内側寄りのところで飛行甲板に命中した。この特攻機は爆弾の破片から63キロの普通爆弾と識別された小型爆弾を携行していた。この爆弾は飛行甲板の下で爆発した。特攻機の命中の衝撃と爆弾の炸裂で長さ約10メートル、幅5メートルの穴が甲板にあいた。非常な幸運に恵まれて、特攻機の命中も爆弾の炸裂も、格納庫甲板の致命的兵器がおかれていた部分には影響をあたえなかった。また飛行甲板のうえにならべられていた攻撃兵器搭載済みの航空機は、特攻機の衝撃や爆弾の炸裂によって影響を受けなかった。それにもかかわらず、この攻撃のため「サンティー」の乗組員16名が戦死し、27名が負傷した。

 

それから数秒後、宮川か加藤のいずれかが操縦する第二の零戦が「スワニー」の艦尾上空を施回した。対空砲火が命中した、その零戦はらせん降下をはじめ、わずかに煙をはきながら、それから四五度の急降下に入り、「スワニー」に向かって突っこんでいった。この零戦が「サンガモン」のほとんど真上にいたとき「スワニー」から発射された五インチ砲弾が零戦に命中した。零戦はコントロールを失い、機体の破片をまき散らしながら「サンガモン」の左舷側の海面に墜落した。

もう一機の零戦が「ペトロフ・ベイ」の至近距離に突入した。

四番目の零戦が現れ、高度2500メートルの雲のなかで旋回していた。この零戦が急降下に入ったとき「スワニ一」がこれに対空砲火を浴びせた。零戦がパッと燃え出したのをみて、乗組員たちは歓声をあげたが、歓声をあげるには少し早すぎた。

午前8時4分、250キロ爆弾を抱えたこの零戦は、後部エレベーター前方の飛行甲板に体当たりし、飛行甲板を突き破って格納庫にとびこみ、飛行甲板に直径約3メートルの穴と、それよりさらに大きな穴を格納甲板にあけた。

 

「スワニー」は26日にも特攻攻撃を受けた。

10月26日、セブ基地の大和隊は、植村真久少尉を指揮官として、一隊は特攻機二機と直掩機一機、他の一隊は特攻機三機と直掩機二機からなる二つのグループを発進させた。第一のグループの日本機は全機撃墜された。

 第ニグループのなかの一機が「スワニー」に体当たりした。特攻機が体当たりしたとき、「スワニー」は飛行甲板前部にならべられた戦闘機七機と雷撃機三機、およびその他一〇機の航空機がガソリンを満載していた。特攻機パイロットは、申し分のない時機を選んで「スワニー」に体当たりした。

 午後零時三十八分、雷撃機が一機、同空母に着艦した。パイロットが雷撃機を前部エレベーターのところまで滑走させたとき、高度1000メートルから急降下した零戦が、この雷撃機の真上に体当たりした。数分後、第二の日本機から投下された爆弾が「スワニー」の飛行甲板を貫通した。引火したガソリンが、格納庫および飛行甲板にならべられていた飛行機の周囲に火災を発生させた。「スワニー」の応急指揮官は、最初の爆風で甲板にたたきつけられて気を失ったが、格納庫内で意識をとり戻すと、撒水消火装置の管制弁を自分の手で開放して、火災が拡がるのを防いだ。爆発のため、艦の操舵装置の大半の機器は破壊され、艦橋は火と煙につつまれた。この攻撃で同空母の乗組員のうち100名以上が戦死し、さらにW・D・ジョンソン艦長を含む170名が負傷した。

しばしば「戦闘配置につけ」の号令がかかるといった状況のなかで、五日間をすごしてきた「ペトロフ・ベイ」の乗組員たちは、引火したガソリンが「スワニー」の舷側から流れ出るのをみて、身ぶるいした。火災現場に近い砲座や外側通路にいた乗組員たちは、.ひどい目に会っていた。

「スワニー」が特攻機の体当たり攻撃を受けてからほんの何秒かたったとき、第二の零戦が「ペトロフ・ベイ」に体当たりしようとした。「ペトロフ・ベイ」の飛行甲板後部に飛行機がならべられていた。これら飛行機の近くにいたもの全員にとって、その零戦が彼らのところに命中したら、多数のものが焼け死ぬことは明らかであった。その零戦は、飛行甲板にならべられている航空機を目ざして一直線に、ほとんど垂直に降下してきた。「ペトロフ・ベイ」は必死になって左に転舵した。零戦は補助翼を左に90度回転させて、完全に「ペトロフ・ベイ」を追跡した。「ペトロフ・ベイ」の艦上では、戦闘配置を離れようとするものは一人もいなかった。飛行甲板まで150メートルの距離に達したとき、零戦は対空砲火のため尾翼を失った。零戦はすぐさま右に水平きりもみ運動を始め、完全に二回転したあと、五インチ砲の張出し砲座の後方約5メートルの海中に突入した。零戦がきりもみを始めたあとでさえも射撃をつづけて零戦の機体をバラバラにうち砕いた。

ムーア中佐はこう語っていた。「これらの乗組員たちは過去二日間、敵から攻撃されており、また僚艦三隻が烈しい攻撃を受けて、猛烈な火災に見舞われた有様を目撃していた。また自殺的急降下は撃退することはできない、と彼らは聞いていた」乗組員たちは、休憩をほとんどとらず、便所にもほとんどいけず、戦闘配食(大方の場合、サンドイッチであった)で我慢しながら、合計102時間も戦闘配置で頑張っていた。

 

10月25日

この日出撃した菊水隊と敷島隊は一日で大きな戦果を挙げた。

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10月25日特攻隊と米護衛空母

この出撃の目的は空母を一隻も持たない栗田艦隊の援護射撃であった。栗田艦隊は戦艦大和戦艦武蔵を含む日本海軍の精鋭で、海軍のその他のほぼ全戦力の援護を受けながら、米軍のフィリピン上陸を阻止するため、レイテ湾突入を図ったのだが、日本軍には限られた空母しかなく、地上基地の戦闘機も米軍の空襲で多くを欠き、結局戦艦武蔵の沈没など連合艦隊のほとんどを失い失敗に終わった。

従って特攻隊の大戦果は海軍にとって一縷の救いであり、大いに宣伝することにもなった。特攻の戦果はこの後、長続きしないのだが、最初に予想以上の戦果を挙げた故に、沖縄戦から敗戦まで被害甚大な特攻という戦法が続き、またこれしかないという戦法になる。

 

 

 10月21日25日26日の特攻隊

10月21日1625セブ発進

第一神風特別攻撃隊大和隊

零戦250kg爆装機 久納好孚  法大11 中尉 (事実上最初の特攻と推定)

 

10月23日0500セブ発進  

第一神風特別攻撃隊大和隊

零戦250㎏爆装機 佐藤馨  丙飛4 上飛曹 (詳細不明)

 

10月25日

0630ダバオ発進(下記敷島隊の1時間前0740、第七艦隊77.4.1に特攻攻撃)

護衛空母サンティー損傷(戦死行方不明16名、負傷27名)

護衛空母スワニー損傷 (戦死行方不明71名、負傷82名)

 

第一神風特別攻撃隊朝日隊

 零戦250㎏爆装機 上野敬一 甲飛10 一飛曹

第一神風特別攻撃隊山桜隊

 零戦250㎏爆装機 宮原賢一 甲飛10 一飛曹   

零戦250㎏爆装機 滝沢光雄 甲飛10 一飛曹   

第一神風特別攻撃隊菊水隊

 零戦250㎏爆装機 加藤豊文 甲飛10 一飛曹   

零戦250㎏爆装機 宮川正  甲飛10 一飛曹   

(甲飛10:甲種飛行予科練修正10期はおおむね19歳)

 

0725マバラカット発進

第一神風特別攻撃隊敷島隊 (最初の特攻として公式発表、米第七艦隊77.4.3に10:49、突入、零戦250㎏爆装 全機命中) 

1番機 関行雄   23歳  (海兵70期)         大尉
2番機 谷暢夫   20歳  (甲種飛行予科練習生10期)  一飛曹
3番機 中野磐雄  19歳  (甲飛10期)         一飛曹
4番機 永峰肇   19歳  (丙種飛行予科練習生15期 ) 飛長
5番機 大黒繁男  20歳  (丙飛17期)         上飛曹

直掩機
西沢広義飛曹長、本田慎吾上飛曹、菅川操上飛曹、馬場良治飛長
このうち菅川上飛曹は同日特攻隊戦死者となっている

                戦死行方不明  負傷

護衛空母セントロー沈没     143      370

護衛空母キトカンベイ損傷     18                        56

護衛空母カリニンベイ損傷                 5                        55 (2機命中)

護衛空母ホワイトプレインズ至近      0                        11

 

 0900セブ発進

第一神風攻撃隊大和隊(詳細不明)

   

大坪一男 一飛曹 甲飛10 零戦 250㎏爆装

荒木外義 飛長    丙飛15 零戦 250kg 爆装

大西春雄 飛曹長 甲飛3   直掩 彗星

国原千里 少尉     乙飛5 直掩 彗星

 

1015第一ニコルス発進

第一神風特別攻撃隊初桜隊  野波哲 一飛曹 甲飛10(詳細不明)

 

1030マバラカット発進

第一神風特別攻撃隊彗星隊(詳細不明)

500㎏爆装彗星(急降下爆撃機、二人乗り複座)

 須内則男 丙飛10 二飛曹  

浅尾弘     乙飛13 上飛曹

 

1140セブ発進

第一神風特別攻撃隊若桜

零戦250㎏爆装 中瀬清久 甲飛10  一飛曹 (詳細不明)

 

10月26日セブ発進

第一神風特別攻撃隊大和隊

 零戦250㎏爆装 植村真久   立大    少尉 (後述)

零戦250㎏爆装備 五十嵐春雄 丙飛12 二飛曹

直掩 日村助一                         丙飛10 二飛曹

零戦250㎏爆装 勝又富作        甲飛10 二飛曹

零戦250㎏爆装 塩田寛           甲飛10 一飛曹

零戦250㎏爆装 勝浦茂夫       丙飛15 飛長

直掩 移川晋一                        甲飛10 一飛曹

 

(勝又の乗ったゼロ戦は25日敷島隊直掩で西沢広義が乗ったもの。スワニー写真参照、西沢については後述) 

前日に続き2回目の特攻を受け 護衛空母スワニー損傷 

 (戦死行方不明100名、負傷170名)

 

出身や階級はさまざまであるが、特攻隊員の中心は16歳から22歳くらいの若者であった。敷島隊の関隊長は母一人の新婚だったが、大和隊の植村隊長は一人娘がいた。

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植村真久

立教大学経済学部商学科在学中はサッカー部主将として活躍。学徒出陣で'43.9.23繰上げ卒業。 海軍に入隊、第13期飛行予備学生。神風特別攻撃隊大和隊、昭和19年10月26日、比島セブから発進してレイテ湾に向い米第七艦隊攻撃。25歳戦死。

愛児への便り(遺書)

素子 素子は私の顔をよく見て笑いましたよ。私の腕の中で眠りもしたし、またお風呂に入ったこともありました。素子が大きくなって私のことが知りたい時は、お前のお母さん、佳代伯母様に私のことをよくお聴きなさい。私の写真帳もお前のために家に残してあります。素子という名前は私がつけたのです。素直な、心の優しい、思いやりの深い人になるようにと思って、お父様が考えたのです。私は、お前が大きくなって、りっぱな花嫁さんになって、しあわせになったのを見届けたいのですが、もしお前が私を見知らぬまま死んでしまっても、決して悲しんではなりません。お前が大きくなって、父に会いたいときは九段へいらっしゃい。そして心に深く念ずれば、必ずお父様のお顔がお前の心の中に浮びますよ。父はお前は幸福ものと思います。生れながらにして父に生きうつしだし、他の人々も素子ちゃんを見ると真久さんに会っているような気がするとよく申されていた。またお前の祖父様、祖母様は、お前を唯一つの希望にしてお前を可愛がって下さるし、お母さんもまた、御自分の全生涯をかけてただただ素子の幸福をのみ念じて生き抜いて下さるのです。必ず私に万一のことがあっても親なし児などと思ってはなりません。父は常に素子の身辺を護っております。優しくて人に可愛がられる人になって下さい。お前が大きくなって私のことを考え始めた時に、この便りを読んでもらいなさい。

昭和十九年九月吉日父

植村素子へ
追伸 素子が生れた時おもちゃにしていた人形は、お父さんがいただいて自分の飛行機にお守りにしております。だから素子はお父さんと一緒にいたわけです。素子が知らずにいると困りますから教えてあげます。

 

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 植村家の墓所内には、十字を刻む植村眞久の個人墓、洗礼名はポール。

左側に『愛児への便り』の全文が刻まれた碑が建つ。

植村の戦死から22年後の'67(S42)、娘の素子は父と同じ立教大学を卒業。 同年4月に父が手紙で約束したことを果たすため、靖国神社に鎮まる父の御霊に自分の

成長を報告し、母親や家族、友人、父の戦友達が見守るなか、文金高島田に振袖姿で日本舞踊「桜変奏曲」を奉納した

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「雲流る果てに」「特攻隊員への鎮魂歌」 

 

西沢広義飛曹長

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西澤 廣義/西沢 広義

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ソロモン諸島上空を飛行する西沢広義の零式艦上戦闘機 (A6M3)(1943年)

日本の撃墜王の一人(撃墜公認記録143機内単独では36機、87機とも)

10月25日、関行男大尉率いる神風特別攻撃隊敷島隊の直掩を務め戦果を確認する。10月26日、乗機をセブ基地の特別攻撃隊に引渡し(これに大和隊勝又富作が搭乗しスワニーに特攻したという写真が前述)、新しい飛行機受領のため、マバラカット基地へ輸送機に便乗して移動する。その途中、輸送機がミンドロ島北端上空に達したところで、ハロルド・P・ニュウェル中尉のグラマンF6Fの攻撃を受けて撃墜され、西沢は戦死した

 

 

 

 

 

注 

艦上爆撃機艦爆):航空母艦から運用でき、急降下爆撃能力を持つ爆撃機。艦船に対して攻撃を行う場合、目標が常に機動することからその精度が重視され、低空から肉迫して行う雷撃と、急降下爆撃とが主な攻撃手段となる。雷撃に求められる機体の性能は重い魚雷を搭載する能力である。急降下爆撃用の機体に求められる性能は急降下時の加速を抑えるエアブレーキの装備と、急激な機体の引き起こしに耐えられる運動性能と機体強度である。両者は要求性能が著しく異なり、第二次世界大戦前までは同一機による両立が難しかった。このためそれぞれ専用の機体とせざるを得ず、魚雷攻撃を行う機種を艦上雷撃機日本海軍においては攻撃機)とした。ウイキペディアより。

 

 

 

他へのリンク 「小金井公園の梅」 

2021 梅 | Koganei

 

nyc7syd3yyz84.wixsite.com

 

 



 

 

 

 

 

 

航空母艦 2

陸軍最初の特攻隊である万朶隊、富嶽隊が出撃した1944年11月初め、陸軍は海軍のような戦果はなかなか挙げることができなかった。

 

1944年10月25日最初の海軍特攻隊敷島隊が空母セントローなどを攻撃した。

特攻隊は次々と出撃したが、11月25日 比島沖で海軍特攻隊は3隻の正規空母、1隻の軽空母に突入した。

 

 

1.航空母艦エセックス

10月24・25日 比島沖海戦 戦艦武蔵撃沈に参加

 

11月25日、第四神風特別攻撃隊香取隊 彗星 爆装500㎏が突入

突入した彗星搭乗員は

山口善則 一飛曹 甲飛11期 佐賀県出身

酒樹正一 一飛曹 甲飛11期 樺太出身

(突入後米軍が回収した遺品から搭乗員判明)

エセックスの 戦死者15名 負傷者44名

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山口・酒樹 両一飛曹搭乗のD4Y3彗星 エセックス突入寸前  

香取隊の彗星もう一機は

海兵72期 田辺正中尉

盛岡高工予備学生13期 工藤太郎少尉

 

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エセックス突入寸前

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エセックスに突入


Kamikaze Pilot Strikes USS Essex - November 25, 1944


Japanese Kamikaze attack on the USS Essex

 

太平洋戦争を戦い抜いたエセックス

朝鮮戦争ベトナム戦争に参加、アポロ7号のクルー収容も行う。

 

2.航空母艦イントレピッド

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Class and type: Essex-class aircraft carrier
Displacement:
Length:
Beam: 93 ft (28.3 m) (waterline)
Draft: 34 ft 2 in (10.41 m) (full load)
Installed power:
Propulsion: 4 × shafts; 4 × geared steam turbines
Speed: 33 knots (61 km/h; 38 mph)
Range: 14,100 nmi (26,100 km; 16,200 mi) at 20 knots (37 km/h; 23 mph)
Complement: 2,600 officers and enlisted men
Armament:
Armor:
Aircraft carried: 91–103 aircraft

 

10月24日  比島沖海戦で戦艦武蔵撃沈に加わる

10月30日 第一回目の特攻機突入  戦死者12名負傷者6名

    サンフランシスコへ回航

 葉桜隊 1330 セブ基地出撃 零戦 250㎏爆装       

甲飛10 山沢卓勝 一飛曹
丙飛15 鈴木鐘一 飛長
丙飛16 桜森文雄 飛長

直掩2機も特攻 戦死

甲飛9 新井康平 上飛曹
乙飛16 大川善雄 一飛曹

 

11月25日 比島東沖 特攻機2機突入 69名戦死 34名負傷

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1機目の特攻機突入

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2機目の特攻機接近

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2機の特攻機が突入

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突入直後

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水葬


Suicide plane attacks USS Intrepid (CV-11) - 25 November 1944

  

3月18日 3回目の特攻機突入 九州沖 一式陸攻(桜花搭載?)

 

4月7日 戦艦大和撃沈参加

 

4月16日 沖縄戦 4回目の特攻機突入 8名戦死 21名負傷

 

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特攻で火災発生のイントレピッド


Kamikaze suicide plane attacks USS Intrepid (CV-11) - 16 April 1945

この映像を見ると双発攻撃機であるが、この日出撃した双発機の特攻隊は桜花を搭載した第五神風特別攻撃隊桜花隊の一式陸攻か、第六・七銀河隊。

 第五神風特別攻撃隊桜花隊 0650-0710 鹿屋基地出撃

一式陸攻 5機 (1機帰還) 4機27名戦死 桜花5機5名戦死

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桜花搭載一式陸攻

 

 

第六銀河隊 1026-1040 宮崎基地出撃 8機24名 爆装800㎏

丙飛16 本城勝志 二飛曹
徳島師13 橋本誠也 中尉
甲飛12 佐井川正之 二飛曹
特丙11 鈴木憲司 二飛曹
甲飛10 出山秀樹 上飛曹
丙飛16 高橋豊 二飛曹
特乙1 北島治郎 飛長
和歌山師13 薬眞寺靖 少尉
甲飛12 中村行男 二飛曹
特乙2 西兼登二 飛長
乙飛17 斎藤三藤 一飛曹
乙飛17 中西克己 一飛曹
甲飛12 金内光郎 二飛曹
東京農大13 大河原誠 少尉
甲飛12 光石昭通 二飛曹
特乙2 冨士田冨士弥 飛長
丙飛11 波多野進 一飛曹
甲飛12 頼元健次郎 二飛曹
特乙2 大西月正 飛長
丙飛5 植垣義友 上飛曹
甲飛12 藤谷成美 二飛曹
丙飛8 本山幸一郎 一飛曹
甲飛10 道又重雄 上飛曹
甲飛12 久野朝雄 二飛曹

 

第七銀河隊 1040/1730 出水基地出撃 4機12名 爆装800㎏

丙飛16 中村広光 二飛曹
多根高商13 延沢慶太郎 少尉
乙飛17 岩田渉 一飛曹
甲飛12 江藤賢助 二飛曹
甲飛12 榎田重秋 二飛曹
甲飛12 岡田武教 二飛曹
乙飛16 中居秀雄 上飛曹
中大13 小林茂 中尉
乙飛16 臼井甲作 上飛曹
特乙1 山田正雄 飛長
乙飛17 宮前俊三 一飛曹
特乙1 田中仙太郎 飛長

 

 

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銀河

 

現在  ニューヨークでthe Intrepid Sea-Air-Space Museum として展示されている

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NYで展示中のイントレピッド

11月25日その他の米軍損傷空母

3.ハンコック USS CV-19

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USS Hancock CV19

高松公美中尉指揮吉野隊1130出撃

4機の零戦特攻をかわしたが、1945年4月7日戦艦大和攻撃中に再度特攻攻撃にあった。

戦死62名負傷73名

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1945/4/7Hancock CV19

 

4.キャボット USS Cabot CVL28

1944/11/25 戦死者36名 負傷16名

二機突入

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USS Cabot CVL-28



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11月25日出撃の海軍特攻隊(陸軍の出撃はなかった)

第三神風特別攻撃隊第三高徳隊 1025 第一ニコルス基地出撃 

                零戦爆装250㎏ 2機2名

                零戦 直掩 3機

第三神風特別攻撃隊笠置隊 1415 エチアゲ基地出撃 

                零戦爆装250㎏ 2機2名 

                零戦 直掩 2機

第三神風特別攻撃隊吉野隊 1130 マバラカット西基地出撃 

                零戦爆装250㎏ 6機6名

                零戦 直掩 2機         

上飛曹 河内山精治 甲飛10
飛長 永原茂木 特乙1
中尉 高武公美 西南学院12
上飛曹 長谷川達 甲飛10
上飛曹 池田末広 乙飛13
上飛曹 布田孝一 丙飛10
上飛曹 村松文雄 甲飛10
二飛曹 西尾芳朗 丙飛特14

    イントレピッド、ハンコック、エセックスは昼前に攻撃された

第三神風特別攻撃隊香取隊 1130 マバラカット東基地出撃 

           彗星爆装500㎏ 2機4名

           山口、酒樹 一飛曹 エセックスに突入

第五神風特別攻撃隊疾風隊 1143 クラーク基地出撃 

           銀河爆装800㎏ 2機6名 

           零戦 直掩 2機

           目標ウルシー在泊の空母

第五神風特別攻撃隊強風隊 1230 デゴス基地出撃 

           銀河爆装800㎏ 3機6名

           目標ラモン湾東方の空母

 

一連の神風攻撃は、ハルゼー大将に11月26日の攻撃を中止させる決断を引き出すに至り、第38任務部隊(ジョン・S・マケイン・シニア中将)の大半はフィリピン海域から一時撤退することとなった

 

 

 

 

 

特攻 白菊 赤とんぼ 複葉機 水上偵察機

特攻が最も多かった月は1945年4月で1474人(696機)次に多いのは5月952人(246機)

つまり沖縄戦の時である。

 特攻に最も多く使われたのは零戦で647機(647人)その内1945年4月に使われたのは255機、5月は65機である。

 

終戦時、海軍はすべて合わせれば7000機以上(これに陸軍機)を残していた。日本軍としては最後の本土決戦の準備はそれなりにしていた。その前に、使えるものはすべて沖縄戦に使ったのだろう。

 

日中戦争なかばから、太平洋戦争の全期間を通じて生産された海軍の軍用機は約三万機と言われている。

そのうち零戦がもっとも多く、約三分の一の10.425機が生産された。

他のおもな機種では、

一式陸上攻撃機  2500機、

九九式艦上爆撃機 1500機、

彗星艦上爆撃機    2100機、

九七艦上攻撃機    1300機、

天山艦上攻撃機    1300機     である。(毎日新聞社日本航空史』)

年度別生産は、

昭和十六年、  2,700機。

昭和十七年、  4,170機。

昭和十八年、  8,950機。

昭和十九年、13,020機。

昭和二十年、  3,150機。

  合計   31,990機であった。

昭和二十年八月十五日現在の飛行機数は約八千機であった。

(昭和二十年九月一日『海軍基地に於ける保存機種、機数』防衛庁戦史室)

海軍 内地7599機  外地 226

 

アメリカとの飛行機の生産高(昭和十六年から昭和十九年)

日本陸軍・海軍軍用機 58,000機

米国陸軍・海軍軍用機260,000機

 

練習機・水上機偵察機による特攻 

戦死者人数(機数)   1945年3月 4月  5月  6月  7月  8月

海軍 

中間練習機「白菊」                                        82(41)    26(13)  

零式練習用戦闘機                                    8(4)     15(8)

零式水上偵察機                                        5(3)     13(7)

94式水上偵察機                                                   39(13)

零式観測機                                                                       14(7)

陸軍

二式高練             40(20)    20(1)       1(1)                  9(9)

九九式高練                                            24(12)

九九式単偵/軍偵                           7(4)    3(2)                                  3(2)  

陸海軍全特攻戦死者

(機数)

1944年        1945年

10月  11月  12月  1月  2月  3月  4月  5月  6月 7月  8月

82      195       262    218    43    470    1474    952    261    22    81

(63)       (145)    (165)    (154)    (21)     (180)      (696)     (246)    (166)    (15)     (47)  

 

 

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白菊

「白菊」は機上作業練習機である。機上作業練習機とは、艦上攻撃機艦上爆撃機、陸上攻撃機のような多座機における操縦員以外の乗員の任務である航法、通信、爆撃、射撃、写真撮影、観測などの訓練を行うための機体である。日本海軍では、操縦員以外でこれら任務を行う飛行機搭乗員を一括して「偵察員」と呼び、複座機や大型機の比率が多かったため、偵察員は操縦員と同数ぐらい必要であった。白菊には操縦員1名の他、教官と3名の練習生が搭乗。

最高速度でも時速230キロ。零戦の約半分。

燃料は「八〇丙」と呼ばれるオクタン価80のアルコール燃料を使用していた。

 

飛行機に使用する燃料の爆発性能を示すものにオクタン価がある。

筑波空の中練教程で使用した九三式中間練習機(赤トンボ)では、昭和十八年の末であったが、オクタン価八十七の燃料を使用していた。

しかし、昭和十九年末より二十年のはじめにかけて第二美保空や大和空では、おなじ中練にオクタン価八十四の燃料となった。さらにその後は、「油一滴は血の一滴」といわれるくらい不足し、ついに松根油燃料や、甘薯、馬鈴薯よりとった、いわゆるイモ燃といっていたアルコール燃料がまざって、爆発性能がいちじるしく落ちて飛行中にシリソダーの温度が下がるのを避けるため、九三式中間練習機のエソジン、天風工型のシリンダーのひだ(空冷)に石綿をつめて飛んだ。

 オクタン価の低い燃料を使用すると、いちばん出力の必要なときに馬力がでず.宙返りをしても頂点あたりでシリンダーが冷えて、パンパンパンとエンジンの不調爆発音がした。

昭和十九年四月から使用した零戦には、オクタン値94の燃料を使用していたが、最終的にはオクタン価81の燃料となった。これは実施部隊の第一線にある。隊でも同じことであった。

二十年の戦争末期になると、敵の艦載機の来襲があり、ときおり飛行揚に増槽タンクを落としていくがある。たまたま整備員が、その燃料を海軍が当時使用していたオート三輪車に入れ、エンジンをかけ運転してみると、爆発性能があまりにもよく、シリンダーにひびが入ったと話していた。このように、燃料の質でもアメリカと大きな差があった。

 

戦闘機の航空部隊の一か月の燃料の割り当てが、約二万リットルであった。この二万リットルでゼロ戦を整備し、試運転し、訓練飛行し、そして敵機の迎撃に飛び上がらなければならなかった。これにたいして、アメリカのB29は増槽タンクがなければ一機当たり約三万リットルを積んで、飛んでくるのである。

「海軍飛行科予備学生よもやま物語」

 

 1945年(昭和20年)1月8日に大本営が全軍特攻を決定すると、全国の練習航空隊に通常の搭乗員訓練を止め、特攻隊を編成するように命令が下された。 練習機による特攻は、白菊を装備する高知空(菊水白菊隊)、徳島空(徳島白菊隊)、大井空(八洲隊)、鈴鹿空(若菊隊)で実施される事となり、まずは高知空と徳島空で特攻志願者の募集が開始された

当初の設計では機体が大きい白菊の機内の床に板を置いて、そこに250kg爆弾2発をワイヤーで縛って固定するという乱暴なものであったが、最終的には、250kg爆弾を両翼に1発ずつ懸架し、操縦席計器板に信管の安全装置を解除するレバーを装着するよう改造され、エンジンカバーの上に照準器が装着された。航続距離を延伸するために胴体内の後部席に零戦用の増槽を取り付け、通常は480リットルである搭載燃料を700リットル弱まで増加させた。これらの改造により、通常時より大幅に重量が増加し、離陸すら困難となったため、訓練は離陸を中心に行われた。 またこの状態での最高速度は時速180㎞程度とさらに低速になった

 

離陸に慣れてくると、模擬爆弾を搭載しての訓練となったが、起床を夕刻の午後5時として、暗くなるのを待って訓練を開始するといった昼夜逆転日課による訓練を連夜行った。日中にも、黒眼鏡をかけて、視界を夜間と同じにして訓練した。離着陸になれると、模擬爆弾を搭載しての飛行訓練となったが、1945年5月初めのころには夜間飛行を満足にできない搭乗員が多かったのに、1か月もしない5月22日のころには殆どの搭乗員が夜間洋上進行可能な水準となり、海面すれすれの高度15mで編隊飛行することもできるようになっていた

 ウイキペディア

 

白菊特攻は沖縄戦に投入されることとなり、菊水七号作戦中の1945年(昭和20年)5月24日、白菊二十機が出撃した。彼ら、菊水白菊隊は午後七時二十六~五十四分の間に、鹿屋から発進した。夜なら敵戦闘機につかまらないであろうというのである。この日、フロッグマンを乗せた高速輸送艦二隻と掃海艇二隻とが損傷しているが、もしかすると白菊の戦果かも知れない。白菊は30キロの小型爆弾二発が標準だが、特攻のときには九九式艦爆と同じく150キロ通常爆弾一発を抱いて飛んだ。

第一次白菊隊14機が串良の航空基地から出撃した。出撃に際して搭乗員には「白菊は爆装こそ大きいが速力は遅い。戦艦や巡洋艦などの大型艦は狙っても無理であるから、なるべくは輸送艦を狙いこれを爆砕せよ」と命令されている。白菊は速度が著しく遅いため、出撃の際は真っ先に離陸し、次に15分おいて戦闘機が離陸、さらにその後に艦上爆撃機艦上攻撃機が離陸するように決めていた。そうすることにより、戦闘機が途中で白菊を追い越して敵戦闘機と交戦し、白菊はその隙をついて敵艦に突入する計画であった

この日出撃した白菊隊は、故障や不時着の3機を除き11機が未帰還となったが、一部が敵艦隊に到達している。沖縄戦で特攻を指揮した第5航空艦隊司令部はアメリカ軍の無電を傍受しており、「時速160㎞~170㎞の日本軍機に追尾されている。」というアメリカ軍の駆逐艦の無電を聞いた一人の幕僚が、「駆逐艦の方がのろい白菊を追いかけているんだろう。」と笑う有様で、第5航空艦隊司令宇垣纏中将も「夜間は兎も角昼間敵戦闘機に会して一たまりもなき情なき事なり(中略)数あれど之に大なる期待はかけ難し。」と白菊特攻について厳しい評価を下し、夜間や黎明に限定して投入することとしている

 

特攻戦力が欠乏していた第5航空艦隊は、海軍記念日の5月27日深夜にも白菊を鹿屋串良から夜間出撃させた。

 

六月二十一日(菊水十号作戦)、未明に白菊六機が突入した。彼らは四国の徳島練習航空隊から選出した兵力だった。

米艦隊はこのときオトリとして目標をちらつかせて、特攻機を吸収せんとした。白菊はこれに引っ掛リ、米中型上陸艇LSM59と駆逐艦ハロランに体当たりして二隻を撃沈した。ハロランはすでに大破し、曳航されていたのである。やや遅れてLSM213号も

白菊に体当たりされ。船体が大破した。

 

 その後も白菊は、沖縄戦終結後の1945年(昭和20年)6月25日まで、のべ115機が出撃し56機が未帰還となった白菊は軽量化のために編隊長機にしか無線が搭載されておらず、日本軍は白菊特攻の戦果をほとんど把握できていなかった 。

 

それでも、海軍は稼働機全てを特攻出撃させるつもりで、本土決戦でも大量の白菊を特攻出撃させる計画であったが、終戦により実現することはなかった。白菊特攻で徳島空で56名、高知空で52名の合計108名が戦死した

 

なお、TVドラマ「水戸黄門」の第14部から第21部まで9年間徳川光圀役を務めた俳優・西村晃は、徳島白菊隊の特攻隊員である。しかし、出撃機不良で基地に引き返し終戦を迎えた。また、この特攻隊での同僚には裏千家15代家元の千玄室がおり、西村の親友である

 

5月24日出撃戦死の特攻隊

海軍

第12航空戦隊二座水偵隊 指宿 零式水上偵察機 爆装250㎏ 2機4名 2300

菊水部隊白菊隊 鹿屋 爆装250㎏x2  8機16名 1926-1950

徳島第一白菊隊 串良 爆装250㎏x2  11機22名 2050-2302

 陸軍
四式重爆撃機 熊本 7名

義列空挺隊 健軍 87名

誠第71飛行隊 八塊 九九式襲撃機 6名 

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「写真太平洋戦争 特攻」
 

 5月25日出撃戦死の特攻隊

海軍

神雷部隊桜花隊 鹿屋 桜花3機 一式陸攻3機21名

第十銀河隊 銀河爆装800㎏ 宮崎 2機6名 第二美保 1機3名

菊水部隊白菊隊 鹿屋 白菊 爆装250㎏x2 1機2名0507

5月26日

菊水部隊 第三白菊隊 鹿屋 爆装250㎏x2 1機2名  2000

5月27日

第三正統隊 第二国分

菊水白菊隊 鹿屋 9機18名

徳島第二白菊隊 串良 7機14名

5月28日

 

 

この低速機が、五月二十四日、鹿屋や徳島から沖縄水域へ向け、二十機発進。三十六人が戦死した。そのうち、海軍兵学校出身者は、例によって隊長をつとめた中尉ひとり。

あとは、日本大学、埼玉師範、明治大学出の予備学生出身者と、予科練出身者で占められ、その中に、十七歳四人と、十六歳一人が含まれている。

その三日後にも、「白菊」は二十機が特攻出撃。このときも、隊長ひとりが海兵出身で、あとは専修大学、神戸商大出などの予備学生、そして予科練出身者であり、そこにも当時十七歳が三人含まれている。

 

白菊の製造機数は798機で、終戦時には370機以上が残存していた。 

 

 「海軍飛行科予備学生よもやま物語」

零戦の半分にもみたない速力、五百馬力の機上作業練習機「白菊」に五百キロの爆装をして、誘導機も直掩機もなしに、単機で夜間特攻に出撃するのは、想像するだに悲壮なものである。藤井三郎(松山高商)は土浦空で基礎教程をおえ、上海空で偵察学生としての訓練を終了した第十三期飛行科予備学生である。昭和二十年の一月末、彼は内地に帰り、高知空に偵察士官として着任した。そして第一飛行隊付となって、計器飛行、黎明、薄暮、夜間飛行と猛訓練をつづけた。訓練内容から考えて、これは特攻の訓練だとみなが予測していた。

堤幸造(横浜専門)が夜間飛行訓練で殉職したのは、五月一日であった。ひととおりの訓練が終了した五月十日、第一次特別攻撃隊の編成と、三十名の氏名が発表された。その中に藤井三郎の名前も記入されていた。

その名憾神風特別攻撃隊菊水部隊白菊隊と命名された。

特攻隊編成の発表と同時に、ガンルーム(士官次室)の令を待っていた。五月二十日の正午、飛行隊長の木下五郎大尉(海兵68期)より、

「五月二十二日、鹿屋基地に進出、二十三日に夜間攻撃に出撃す」の命令が伝達された。

 

二十四日午前十時すぎ、敵艦載機がつぎつぎと来襲し、飛行場めがけて銃爆撃をおこない、滑走路のあちらこちら庭穴があいた。特攻機の白菊は掩体壕に分散してあり、さいわいに被害はなかった。ただちに滑走路の穴埋め作業がはじまり、特攻隊員も基地隊員や整備員といっしょになって土をモヅコで運び、汗だくで整備する。死出の道をみずからの手で整備する。その気持はまことに複雑であった、と藤井は話している。

 

さあ、いよいよ出撃だ。藤井は、なぜか身体中がふるえるようだった。いつもの隊員たちが顔をそろえる。予科練出身の、まだ顔にあどけなさが残る隊員もいる。藤井機の操縦桿をにぎる須藤二飛曹が、飛行帽の上から日の丸の鉢巻きをキリッと締め、ライフジャケットの胸や・背に、日の丸が描かれているのが目につく。出撃が一日延びた、その間に描いたのであろう。藤井のライフジャケットにも、ペアで出撃する須藤二飛曹が描いてくれた日の丸が、色あざやかに目に映えた。

午後六時、神風特別攻撃隊菊水部隊白菊隊十五機に搭乗する操縦員、偵察員三十名が整列する。指揮官の野田勉中尉(海兵七十三期)、その隣りに佐々木威夫、小堀淳三郎、高橋中、藤井三郎、力石権四郎の各少尉が並ぶ。士官は野田中尉をのぞいて、みんな第十三期飛行科予備学生出ばかりであり、あとは上飛曹、一飛曹、二飛曹である。藤井の後に須藤二飛曹が並んでいた。

やがて、飛行隊長の木下五郎大尉より、

「本作戦は沖縄周辺の敵艦艇にたいし、陸海軍合同の七十五機による特攻出撃である。ここ鹿屋基地よりの出撃はお前たち十五機であるが、他の者も、串良、宮崎その他、それぞれの基地より出撃の予定である。お前たちの飛行機には、無線もなく、機銃もない。ただ、二十五番(二百五十キロ)二発あるのみである。無線もなく戦果をお前たちの手で知らせることのできないのは、まことに残念であると思うが、沖縄の陸上の味方陸海軍より、その戦果は報道され、必ず上聞に達するであろう。平素の訓練を生かし、敵艦めがけて突入せよ。なによりも正直に、あの月が見ていてくれるであろう。健闘を祈る」

月齢十五の月をさして、別れの言葉が終わった。

隊員は、待っていたトラックに同乗し、分散されている愛機のところまで運ばれた。掩体壕には特攻機の白菊が二機ずつ隠されていて、整備員によってすでにペラを回し、最後の試運転を開始していた。

常識からいえば、遠距離攻撃は目的地まで偵察機に誘導され、直援機に護られて編隊で飛ぶのであるが、今回の出撃は戦果の確認機もなく、もちろん誘導機もなく、沖縄まで単機での出撃である。よほど偵察員がしっかり航法に注意しなければ、目的地まで飛行できない。しかも夜間出撃なので、みな一抹の不安は隠しきれない。

「おい、しっかり操縦を頼むぞ、航法はまかしておけ。なにかの縁だなあ、お前と同じ棺桶に入るとは」

分隊士、よろしくお願いいたします」と、まだ童顔の残る須藤二飛曹は笑顔でとたえて、前席に乗り込む。

そのとぎ、彼は十九歳であった。こんな二十歳にも満たない若者までが死なねばならぬのかと、藤井は涙がこみあげてきた。

昭和二十年五月二十四日の午後七時四十分、齢十五の美しい月を東の空に仰ぎながら、

「沖縄ヨーソロ!」

二、三時間後には、このまま須藤二飛曹や愛機もろともに、敵艦を道づれに海の藻屑と消えるのだと思うと、急に幼いころの思い出が、つぎからつぎへと走馬灯のように、藤井の脳裏をかけめぐった。彼はいま死地に向かって飛んでいることを、肉親のだれかの心に通じさせたい気持でいっぱいになった。そして、

「お母さん、みんなさようなら」と口の中で叫んでみた。

前席の須藤兵曹も同じ思いであろうに、しっかりと操縦桿を握っていた。

「おい、エンジソの調子はどうだ」

「はい、良好であります。今どのあたりでありますか」

「左はるか屋久島あたりだ」

機は快調なエンジソの音をたてて、沖縄に向かって飛んでいる。目的地へあと一時間半ぐらいと思われるとぎ、「分隊士、潤滑油がもれてきます。潤滑油計が下がってきます」と須藤兵曹がいう。そのうちに潤滑油がますますひどくもれはじめて、風防に当たりはじめる。

分隊士、前方の視界がきかず、だんだん見えなくなってきます」

このままでは、まもなくエソジンが停止する。下手をすれば空中火災を起こすかも知れない、こんなところで死んでは犬死にだ。なんとしても生きて出なおしだ。

分隊士、不時着水します」

「よし、いま爆弾を投下するから、しばらくがんばれ。できるだけ高度をとれ」

しかし、機は急には上昇はしない。もう一刻も猶予はでぎない。高度計は二百五十メートルをさしている。

「よし、投下するぞ、用意……テー!」

一ものすごい轟音と同時に強烈な爆風がきて、機は大きくあおられる。

 

「おい、針路百八十度変針、いまいちど出直しだ」

「はい、わかりました」

機は大きく旋回しはじめる。エンジンの音がだんだん変わってきて、しだいにペラの回転が下がりはじめた。

分隊士、不時着水の準備願います」

「よし、あわてず頑張れ!」

機は海面すれすれに飛行をつづける。少しでも、少しでも島の近くにと祈る。位置測定では、屋久島がいちばん近い。急に、エンジンの音が止んだ。

「着水します!」

いちばん危険な夜間不時着水である。とたんに不気味な接触音とともに、ものすごいショックで、藤井は一瞬、気を失った。着水のショックで機のタンクが破損して燃料が流れ出し、モッコを担いですりむいた肩にしみこんだ。その痛さで藤井は意識をとりもどした。

機内は真っ暗である。どうやら機は着水と同時に転覆したようである。海水が脛より腹とだんだん侵入してくる。機が沈みはじめたようである。

分隊士!分隊士!」と、転覆した機の腹の上から須藤兵曹が呼んでいる。ああよかった、彼も助かったのか。

「おーい、大丈夫か」

「はーい、早く出てきてください、機が沈みます」

海氷にもぐって脱出しようとするが、ライフジャケットが浮いてもぐれない。ジャケットを脱ごうとするが、もし脱いだらこれからさき泳ぐことができない。藤井が躊躇していると、

「バリッ」という音とともに、蓄電池入れ口より月の光が差しこんできた。投下した爆弾の爆風で蓋のビスがゆるんでいて、それを須藤兵曹が引き開けてくれたのだ。必死ではい出すと、須藤兵曹が引き上げてくれた。

まだ沈みきらない機体に立って見たその情景は、月光が波静かな大海原に映えて、本当に美しい。はるかかなたに大きな島影が見える。ああ助かった、まだ生命があったのか。こんなことで死んでは犬死にだ。

「おい助かったぞ。いま一度やり直しだ。まだ殺すには早いとエンマさんが言ったぞ」

「はい分隊士」

二人は抱き合って喜んだ。幸い二人ともかすり傷程度で骨折もなく、泳ぐことには支障がない。愛機はやがて沈みはじめた。

藤井は自分のマフラーの端を、お互いのバンドに結んで離れないようにし、須藤兵曹のマフラーを股間のジャケットの紐に結びつけ、サメよけとして長く流して、月光に映える大海原を泳ぎ出した。約3時間泳ぎ屋久島にたどり着いた。一緒に白菊で出撃した佐々木威夫(明大)、小堀淳三郎(埼玉師範)、高橋中(日大)、力石権四郎(日大)は帰らなかった。

 

陸軍も練習機を特攻に使った。福岡に司令部を置く第6航空軍(靖兵団・菅原道人中将)は.五月二十五日、万世から早朝に合計七機〔第133振武隊〕の二式高等練習機を発進させた。陸軍二式高等練習機は、わざわざ作ったものではなく固定脚の九七式戦闘機を復座にしたものであった。だから練習機といっても、元は戦闘機だからバイロットにもいくらかは慰めとなったに違いない。五月二十七日(菊水八号作戦)の朝、知覧基地から.五機(第131振武隊)が発進した.米駆逐艦アンソニーとブレインを大破させたのは.二式高等練習機である円能性もある。米国側では固定脚であったため九九式艦爆と見誤ったようであるが……五月二八日には白菊、二式高練、九四式水偵の三機種が、陸軍の屠龍や飛燕にまじり出撃している。

 

 

 

 九三式中間練習機 赤とんぼ

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九三式中間練習機 赤とんぼ

 

 海軍のあらゆる練習航空隊に配備され、1934年昭和9年)1月末海軍に制式採用から1945年(昭和20年)の第二次世界大戦終結まで5770機製造された。目立つように橙色に塗られていたことから別名「赤とんぼ」と呼ばれていた。安定性・信頼性が非常に高く扱い易く、同時に高等曲技飛行も可能なほどの操縦性を持ち合わせ、多くの練習生がこの機体を使って訓練を受けた。

 

 本来の実用機の不足を補うため、本機がアルコール燃料でも稼動可能なことから、機体全体を濃緑色で塗装した上に後席に増槽としてドラム缶を装着し、機体強度と発動機推力の限界に近い250 kg爆弾を積み込んでの特攻に駆り出されることとなった。

 

特攻隊として出撃した中には特攻に疑問を持つ者は少なくなかった。しかし、公然と特攻に反対することは難しかった。反対すれば「天皇陛下に対する忠誠、尽忠報国、滅私奉公」という当時の強固なスローガンに反対することとみなされかねなかった。

 

ところが、海軍の美濃部正少佐(夜問戦闘機隊の芙蓉部隊長)は上官に向かって公然と特攻反対を主張した一人だった。昭和20年(1945)3月初め、連合艦隊所属の航空部隊指揮官300名以上が千葉県木更津基地に集められ、「沖縄作戦会議」が行われた。このとき草鹿龍之介参謀長は、「航空燃料が底をつき、今後は一機あたり一カ月に15時間しかない。そこで赤トンボ(九三式中型練習機)の4000機をふくめ、全航空戦力を特攻とする」と訓示した。このとき立ち上がり「赤トンボまで特攻に出すのはナンセンスです」と異議を唱えたのが美濃部少佐だった。草鹿は色をなして「貴様、何をいうか。必死尽忠の士が空をおおって進撃するとき、これを拒む者があるか」と怒鳴った。しかし美濃部は、敵機の速力は300ノット(時速約555キロ)であり、赤トンボは150ノットも出ない、と冷静に説明し、赤トンボはバッタのように撃ち落とされて戦いにならないと主張した。そして、「ものは試し、私は箱根の上空で一機で待っています。ここにおられる方のうち、50人が赤トンボに乗ってきてください。私が一人でぜんぶたたき落としてみせましょう」(生出寿『特攻長官大西瀧治郎』)とまで言った。

 

美濃部少佐はフィリピンで大西第一航空艦隊司令長官から特攻を命じられたときも、敢然と拒絶した。理由は、「特攻には指揮官が要りません。私は指揮官として自分の方法を持っています。私は部隊の兵の使い方は、長官のご指示はうけません」というものだった。美濃部の特攻反対は、特攻作戦全般に関する反対表明ではなく、「少なくとも自分の部下は特攻に出さない」という立場であった。自分の部下からは特攻は出さないとして拒絶した指揮官には、やはり沖縄作戦時に飛行第六五戦隊長だった吉田穆少佐がいた。「図解特攻のすべて」

 

 1944年11月、沖縄海軍航空隊で偵察や対潜哨戒任務を行っていた搭乗員が石垣島に派遣されて「石垣島派遣隊」として編成された。1945年4月には、連合軍が沖縄に進攻してきて沖縄戦が開始され、翌1945年5月、「石垣島派遣隊」は台湾の新竹基地に移動し第一三二海軍航空隊編入されることとなったが、その際に全搭乗員が志願の有無にかかわらず特攻隊員に任じられた。それも、今まで操縦してきた、水上偵察機艦上爆撃機ではない、複葉練習機の本機での特攻出撃と聞かされて、搭乗員たちは驚きを隠せなかったという 

 特攻隊員は虎尾基地に移動して猛訓練を行った。元々、実戦部隊から編成された「石垣島派遣隊」の搭乗員の練度は当時の日本軍航空兵の平均から見ると高く、小隊長の下士官は操縦年数2年で飛行時間が800時間程度、もっとも若くて未熟な搭乗員でも300時間ぐらいで、約100時間の飛行時間で出撃する特攻隊員も多い中で、比較的熟練した搭乗員が揃っていたと言える。その搭乗員らは、劣速の本機での特攻は夜間の出撃が必須で、なおかつレーダーに捉えられない海面すれすれの高度5mで飛行しなければならなかったので、厳しい訓練が繰り返されて、当初は「暗い夜道を1人でとぼとぼと歩くような心細さ」で「すべてが不信と不安で一杯となり、訓練半ばで着陸することもあった」搭乗員らもやがて完全に夜間の超低空飛行ができるようになった零式艦上戦闘機の最新型である零戦52型丙型や、急降下爆撃機彗星一二型の夜間戦闘機型「戊型」といった新鋭機種を優先的に配備されて、燃料節約や、未熟な搭乗員の航法の負担を軽減するために、飛行巡航高度を、飛行が容易な3,000m~4,000mとして、特に有効なレーダー対策も行っていなかった芙蓉部隊のような第1線部隊とは、与えられた機体や置かれた状況が違いすぎるため、かような厳しい訓練を課す必要があった。

 虎尾基地で訓練を受けている搭乗員で編成される特攻隊は、基地の名前から「龍虎隊」と名付けられた。龍虎隊の隊員のなかには、「石垣島派遣隊」の搭乗員の他にも、虎尾基地の零戦が枯渇したため、やむなく本機で夜間爆撃訓練を受けていた非常に操縦技術が高い精鋭や、歴戦の零戦操縦士の角田和男少尉によれば、熟練搭乗員のなかでも、不時着による機体破損回数の多い搭乗員や、出撃時何らかの理由で途中引き返した回数の多い搭乗員も懲罰的に選ばれていたという。先着組の「龍虎隊」は、まず1945年5月20日に「第1龍虎隊」の本機8機、6月9日には「第2龍虎隊」の本機8機が台湾から出撃したが、いずれも天候等の問題もあって宮古島石垣島与那国島に不時着し攻撃に失敗している。

 2度の失敗で、やはり練習機の本機に250kgの爆弾を搭載して長時間飛行するのは無理があるのでは?と判断されたため、宮古島に前進して飛行距離を短縮することとした。「石垣島派遣隊」のときから搭乗員を率いてきた三村弘上飛曹を指揮官とした8機の本機が宮古島に前進し、1945年7月29日に「第3龍虎隊」として出撃が命じられた。宮古島飛行場は滑走路が短く、低速の上、250kg爆弾搭載の過大な機体重量という悪条件のなかで、猛訓練で鍛えられた特攻隊員らが操縦する本機は次々と離陸し、見送っている地上要員を感心させたが、佐原正二郎一飛曹の機体だけが車輪がパンクして離陸ができなかった。7機となった「第3龍虎隊」であったが、そのうち隊長の三村と吉田節雄一飛曹の機体がエンジントラブルに見舞われて引き返し、吉田の機体は飛行場までもたず、近くの畑に不時着し、吉田は重傷を負って再出撃できず、結果的に「第3龍虎隊」唯一の生存者となった。

 

九三中練特攻による龍虎隊の連合艦隊告示はない。

 「写真太平洋戦争 特攻」p52

 

"The Sacred worriors"p268

On July 28 the orders came through: The Callaghan was to proceed to radar picket

No. 5, about thirty-five miles due east of Okinawa, and to remain there until 1:30 a.m, the following day, when she would be relieved before heading east for the United States.

At 12:30 a.m. the officer of the deck called to say he had a bogie about ten miles away. 

 

On picket duty with the Callaghan were the destroyers Cassin Young and Pritchett. Observers on the Cassia Young thought there were as many as twelve planes in the attack. The Callaghan had eyes only for one. The night was brightly moonlit, and from the Callaghan there was no problem in picking out the plane as it approached, ever so slowly.

 

This was no Zeke, or Val, but the oldest of fabric-covered biplanes, with Fixed under-carriage and traveling at about eighty-five miles an hour.

 

The 250-pound bomb she carried must have taxed all her resources.

Commander Bertholf thought the plane was going to fall well astern. He was wrong. Flying apparently unharmed through the hail of anti-aircraft fire, it passed over the stern and crashed the ship near the No. 3 upper handling room. The bomb went through the deck and exploded in the engine room, killing all hands there. "Although 1 was well forward on the bridge, the blast knocked me across the pilothouse like a feather," said Commander Bertholf. A furious gasoline fire broke out on deck. Commander Bertholf immediate thought was that about half his men would be killed.

Five minutes after the plane struck, the No. 3 upper handling room exploded, killing, injuring, and blowing over the side many of the men in the vicinity who were working on damage control. A minute later Captain Bertholf passed the word for all hands except he salvage party to prepare to abandon ship. The crew dropped into the water all available life rafts and floater nets which had not been blown to bits. They lowered the motor whaleboat with wounded, the doctor, pay records, and cash books. The Callaghan began to sink by the stern. The captain remained aboard for another hour amid furiously burning fires while more biplanes with their suicide pilots hovered overhead ready to go in for the kill if the Callaghan showed any sign of surviving.

 

 The Callaghan lost one officer end fory-six men missing in action and two officers and seventy-one men wounded. She was the last ship to be sunk by a kamikaze plane.

 

 After the first plane hit the Callaghan, the Pritchett and the Cassin Young closed in to pick up survivors. About an hour before dawn, a biplane made a slow dive on the Pritchett. The crew saw numerous anti-aircraft hits on the plane, but all seemed to pass through the fabric covering without causing damage. The plane struck the Prirchett a glancing blow but Failed to hurt her much.

 A third biplane had a go at the Cassin Young and was shot down about thirty yards off the starboard bow.

Shortly before daylight, the Pritchett and the Cassin Young Ieft for Hagushi Beach, where they transferred the wounded to a hospital ship before moving south of the entrance to Buckner Bay on patrol.

At about three o'clock next morning bogies approached from the southern coastline of Okinawa. Since a friendly also was in the area, the Cassin Young held its fire when the fire control radar picked up the approaching plane. Not until it was seen to be headed in a suicide dive did the ship's guns open fire. It was too late. The suicide plane hit close to the starboard aft whaleboat davit and exploded.

The Cassin Young survived, but she lost nineteen killed in action, with another forty-six missing. Five died later as a result of wounds. Many of the killed and wounded suffered most terrible injuries from broken steam lines.

This was the last dash for the suicide planes at Okinawa. The operation had cost the United States 12,300 killed and 36,400 wounded.

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第三龍虎隊、左から5人目が隊長三村弘上飛曹

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USS Callaghan DD-792

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USS Cassin Young

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USS Prichett DD-561

 

 残る1機も、対潜哨戒任務中の輸送駆逐艦ホラス・A・バス(輸送駆逐艦)に低空飛行で接近、発見されたときには同艦の船楼に命中し、それをなぎ倒し、1名の戦死者と15名の負傷者が生じた。2日渡った「第3龍虎隊」の攻撃で、アメリカ軍は1隻の駆逐艦が沈没、1隻が大破、2隻が損傷し、4隻で75名の戦死者と129名の負傷者という損害を被った。

 

わずか7機の本機に痛撃を被ったアメリカ軍は、練習機での特攻を脅威と認識、効果が大きかった要因を以下のように分析し、高速の新鋭機による特攻と同等以上の警戒を呼び掛けている。

・木製や布製でありレーダーで探知できる距離が短い。

  • 近接信管が作動しにくい(通常の機体なら半径100フィート(約30m)で作動するが、93式中間練習機では30フィート(約9m)でしか作動しない)。
  • 対空火器のMk.IV20㎜機関砲は、エンジンやタンクといった金属部分に命中しないと信管が作動せずに貫通してしまい効果が薄い。ただし、ボフォース 40mm機関砲は木造部分や羽布張り部分でも有効であった。
  • 非常に機動性が高く、巧みに操縦されていた。

 

 

本土決戦では、本機を中心とした練習機も特攻機として投入される計画であり、陸海軍の練習機合計4,450機が特攻機用に改修されていた 。陸上機、水上機合計5,591機が生産され、この内半数近くは日本飛行機製であったが、製造機数の多さと練習機という任務から、終戦時に残存していた機体数は海軍の機種の中では最も多かった。

 戦後インドネシア独立戦争にて九三式中間練習機インドネシア共和国軍によって練習機等として広く使われた。だが、ほとんどはインドネシア旧宗主国オランダ空軍による飛行場への爆撃により、1947年(昭和22年)までにはほぼ破壊されてしまった。

 

 九九高練(九九式高等練習機)

1950年4月22日23機を中心とする42機が出撃

戦果は掃海艇スワロー撃沈、駆逐艦4隻、掃海艇2隻に体当たり

「図解特攻」

 

 

 零式水上偵察機と零式水上観測機

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零式水上偵察機

脚に大きな浮舟をつけた水上機もまた、特攻出撃させられている。

主として使われたのは、零式水上偵察機と零式水上観測機の二種。いずれも最高時速で370キロ程度と、決して速くはない。ただし、数はある。偵察・連絡・輸送・哨戒と、多用途に使われる零式水上偵察機は、すでに千四百機も生産されていた。

一方、水上観測機は、艦隊決戦などの際、上空から弾着の模様などを観測するのが任務であり、敵側も同様に観測機を出すところから、観測機同士の戦いに備え、機銃三挺を据えてはいたが、速度といい格闘性能といい、もともと攻撃用にはつくられていない。飛行中に敵潜水艦でも発見した場合に備え、30キロ爆弾二発を積むぐらい。それらがいずれも250キロを超す爆弾を抱えて四月二十九日を皮切りに、命を捧げた。

職業軍人である海軍兵学校出身者は一人もいない。下士官の中に、17歳が8名、16歳が3名。

水上機特攻の出撃基地は薩摩半島の指宿。

最後の特攻 「図解特攻」  

 「写真太平洋戦争特攻」

 

 

九四式水上偵察機  「写真太平洋戦争 特攻」

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九四式二号水上偵察機

 

「指揮官たちの特攻」p124

 5月4日 米軍損傷艦艇

駆逐艦モリソン 0829 沈没 戦死者152名 負傷者102名

The first attack on Morrison, a main target as fighter-director ship, was a suicide run by a "Zeke". The plane broke through heavy flak to drop a bomb which splashed off the starboard beam and exploded harmlessly. Next a "Val" and another "Zeke" followed with unsuccessful suicide runs. About 08:25 a "Zeke" approached through intense antiaircraft fire to crash into a stack and the bridge. The blow inflicted heavy casualties and knocked out most of the electrical equipment. The next three planes, all old twin-float biplanes, maneuvered, despite heavy attack, to crash into the damaged ship. With the fourth hit, Morrison, heavily damaged, began to list sharply to starboard.

Few communication circuits remained intact enough to transmit the order to abandon ship. Two explosions occurred almost simultaneously, the bow lifted into the air, and by 08:40 Morrison had plunged beneath the surface. The ship sank so quickly that most men below decks were lost, a total of 152. wikepedia

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USS Morrison DD-560

駆逐艦ルース 0809 沈没 戦死者150名 負傷者94名

中型揚陸艦194号 沈没 戦死者13名 負傷者23名

中型揚陸艦190号 沈没 戦死者13名 負傷者18名

大破

駆逐艦イングラム 戦死者15名 負傷者36名

敷設駆逐艦シェイ 戦死者35名 負傷者91名

空母サンガモン 戦死者46名 負傷者116名

その他

軽巡洋艦バーミンガム 戦死者51名 負傷者81名

など

5月4日出撃特攻隊

指宿基地出撃 0530-0600

第一魁隊 零水偵 爆装800㎏ 2機6名 沖永良部島付近

     94水偵 爆装500㎏ 3機6名 沖永良部島付近 

     94水偵 爆装500㎏ 3機6名 沖縄周辺

琴平水心隊  0600 

                  零水偵 爆装800㎏ 1機2名    沖縄周辺

     94水偵 爆装500㎏ 9機20名 沖縄周辺 

駆逐艦モリソンに突入した3機の複葉機は沖縄周辺に向かった94水偵であろう。 琴平水心隊94水偵搭乗の中に、中尾武則少尉、東大予備学生14期22歳がいる。

 

 「きけわだつみのこえ」より

娑婆よりの最後のおとずれを書こうとしてペンを執ったが、千万言胸に溢れて書くべき言葉を知らない。

君の手紙や電報は四日、香椎に帰ってから見た。二十八日の夜香椎駅の夕闇をすかして私を探した君の姿を思い浮べて誠にすまないと思う。

 

君は姪の浜や新宮の浜のような美しい砂浜にどこまでも続いている足跡を見た事があるだろう。

藤村か誰かの詩にそんな光景を歌ったのがあったように思う。私はそこに交り合った数条の足跡が我々であったように思う。どこに始ってどこに終るかもしれない。どこに交ってどこに別れるかも知れない。そこはかとなく悲しいものは浜辺の足跡である。

 

浪に消される痕であっても、足跡の主のカづよい一足一足が覗かれる。もり上った砂あとに立ち去った人の逞ましい歩みを知る時、私はカづけられる。誠に我々は過去を知らず、未来を知らない。しかし現在に厳然と立つ時、脚に籠るカを知る。加藤からの便りにも『永遠に歩かねばならぬ、永遠に歩き続けねばなりません』とあった。中尾武徳

 

第一魁隊 

甲飛8 飯塚英次 上飛曹
西南学院13 野美山俊輔 少尉
甲飛13 金子清 二飛曹
慶大14 舟津一郎 少尉
国学院14 前原喜雄 少尉
早大14 山本謹治 少尉
日体専13 宮村誠一 少尉
日大13 玉木麻人 少尉
慶大14 渡部庄次 少尉
東大14 林元一 少尉
甲飛12 中村正一 一飛曹
甲飛12 岩佐忠男 一飛曹
東京農大14 佐藤憲次 少尉
早大13 碇山達也 少尉
上智大14 武井青 少尉
法大14 中島之夫 少尉
明大14 山口竜太 少尉
慶大14 河野宗明 少尉
     

琴平水心隊

滋賀師13 碓本守 少尉
東大14 田中敬 少尉
甲飛12 高橋淳一 二飛曹
中大14 橋本清 少尉
立命館大13 斉藤友治 少尉
甲飛13 勝又徳 二飛曹
京商大14 矢野弘一 少尉
京大14 山口久明 少尉
甲飛12 斎藤裕 一飛曹
甲飛11 笹尾愛 上飛曹
立命館大13 四方正則 少尉
甲飛12 轟慧 一飛曹
甲飛13 字野茂 二飛曹
東大14 中尾武徳 少尉
甲飛13 野村竜三 二飛曹
法大14 中谷栄一 少尉
国学院14 矢野幾衛 少尉
甲飛12 徳田昭夫 一飛曹
甲飛13 関口剛史 二飛曹
同志社大14 矧所啓市 少尉
明大専生1 林真喜三 少尉
甲飛12 新山秀夫 一飛曹

 

この日、沖縄戦5回目の航空総攻撃で水上偵察機以外にも多くの特攻隊が出撃した。

新竹基地出撃 忠誠隊 彗星 1機

       振天隊 99爆 1機

宜蘭基地出撃 第十七大義隊 零戦 8機

鹿屋基地出撃 第六神風桜花特別攻撃隊 桜花1機 母機帰着

       第七神風桜花特別攻撃隊 桜花・一式陸攻(1機帰着) 6機

       第四神剣隊 練習戦闘機 爆装250㎏ 15機15名

串良基地出撃 第八幡艦攻隊振武隊 97艦攻 爆装800㎏ 3機9名

       白鷺揚武隊  97艦攻 爆装800㎏ 1機3名

       第二正気隊  97艦攻 爆装800㎏ 2機6名

陸軍

知覧基地出撃 第十八振武隊 一式戦 1機

        十九    一式戦 4機

        二十    一式戦 1機

        二十四   二式複戦 1機

        四十二   一式戦 1機

        六十    四式戦 6機

        六十六   97式戦 4機

        七十七   97式戦 1機

        七十八振武隊桜花隊一式戦 5機

        百五    97式戦 2機

        百六振武隊白虎隊 97式戦 1機

        百九    97式戦 2機

台中基地出撃 誠第三十四飛行隊 四式戦 6機

八塊基地出撃 誠第百二十飛行隊 四式戦 3機

宜蘭基地出撃 19戦隊  三式戦(飛燕) 2機    

       105戦隊 三式戦(飛燕)  2機

                                 原仁少尉(特操1期) 中島渉軍曹(少飛13期)

         いずれか 空母サンガモン突入

八塊基地出撃 誠第百二十三飛行隊 二式複座戦闘機(屠龍) 1機 

       少年飛行兵13期 水越三郎伍長  空母サンガモン突入

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サンガモンに突入寸前で外れた大義零戦

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炎上する空母サンガモン

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特攻によるサンガモンの飛行甲板

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サンガモン飛行甲板被害

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サンガモン上部甲板格納庫被害

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サンガモン乗員

 

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サンガモン突入特攻隊員

飛行時間
開戦時には、海軍航空隊の搭乗員は、みな平均六百五十時問前後の飛行時間をもっていた。しかし、これらの優秀な熟練したパイロットたちは、開戦から一年の間に、あいつぐ空の激戦で、あるいは内地に飛行機受領にかえる途中輸送機の中などで、ほとんど消耗された。

終戦時の日本の搭乗員の飛行時間が、百時間内外だったのに比して、アメリカの塔乗員は五百から六百時間といわれていた

特攻隊の人選にあたり、飛行時間は三百時間程度とされていたが、実際に特攻に出撃していった同期の学鷲たちは二百時間前後で出撃していった。

「海軍飛行科予備学生」

 

 

 

 

 

 

 

 

特攻に出撃した提督と自決した提督

宇垣纏(うがきまとめ)と大西瀧治郎は共に海軍兵学校40期卒業の同期。

終戦時は二人とも、海軍中将。

そして二人はマレー沖海戦硫黄島、沖縄と続く第二次大戦最後の大きな戦闘と、それに伴う特攻攻撃に深く関わった。

 

マレー沖海戦で宇垣は戦艦大和に乗船してレイテ湾の米軍に向かって進軍、これを助けるため大西は神風特別攻撃隊を組織して空から米軍を攻撃した。

 

二人は戦争に勝利することができないことを承知の上で、特攻隊の出撃を命令し続けた。

 

1945年8月15日終戦の日、宇垣は九州の基地から自ら特攻出撃し戦死。

 大西は、その翌日8月16日、東京で自刃し特攻隊員とその家族に謝る遺書を残した。

 

大西瀧治郎  明治24年1891年6月2日 - 昭和20年(1945年8月16日

宇垣纏    明治23年(1890年)2月15日-昭和20年(1945年)8月15日


 大西瀧治郎

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大西瀧治郎

 略歴、航空関連が主体で早くからの戦艦無用論者だった。

中島飛行機会社が制作した第一号機を操縦し、1916年同社設立を助けた。

 

1944年10月5日、大西は第一航空艦隊長官に内定した。(「艦隊」とあるが、航空隊の呼称)この人事は特攻開始を希望する大西の意見を認めたものともいわれる

大西は比島に出発前、米内光政海軍大臣に「フィリピンを最後にする」と特攻を行う決意を伝えて承認を得た。また、及川古志郎軍令部総長に対しても決意を語った。及川は「決して命令はしないように。戦死者の処遇に関しては考慮する。指示はしないが現地の自発的実施には反対しない」と承認した。

 大西は比島到着後、一航艦参謀長小田原俊彦少将ら幕僚に神風特攻隊を創設する理由を次のように説明した。(大西は軍需局の要職にいたためもっとも日本の戦力を知っており、)重油、ガソリンは半年も持たず全ての機能が停止する、もう戦争を終わらせるべきである。講和を結ばなければならないが、戦況も悪く資材もない現状一刻も早くしなければならないため一撃レイテで反撃し、7:3の条件で講和を結び満州事変のころまで日本を巻き戻す。フィリピンを最後の戦場とする。特攻を行えば、天皇陛下も戦争を止めろと仰るだろう。また、この犠牲の歴史が日本を再興するだろうと。丸『特攻の記録』光人社NF文庫26頁

  

1944年10月19日、大西中将は夕刻マバラカット飛行場第201海軍航空隊本部で201空副長玉井浅一中佐、一航艦首席参謀猪口力平中佐、二十六航空戦隊参謀吉岡忠一中佐らを招集し会議を開いた。大西は「米軍空母を1週間位使用不能にし捷一号作戦を成功させるため零戦に250キロ爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに確実な攻撃法はないと思うがどうだろう」と提案した。山本司令が不在だったため玉井副長は自分だけでは決められないと答えた。大西は、山本司令から同意を得ていることを伝え、決行するかは玉井に一任した。玉井は時間をもらい飛行隊長の指宿正信大尉、横山岳夫大尉らと相談して体当たり攻撃の決意を大西に伝えた。

 

 10月22日、第二航空艦隊長官福留繁中将に第二航空艦隊も特攻を採用するよう説得するが、断られた。第一航空艦隊の特攻戦果が出た25日、第二航空艦隊も特攻採用を決定する。大西は福留に対し「特別攻撃以外に攻撃法がないことは、もはや事実によって証明された。この重大時期に、基地航空部隊が無為に過ごすことがあれば全員腹を切ってお詫びしても追いつかぬ。第二航空艦隊としても、特別攻撃を決意すべき時だと思う」と説得して、福留の最も心配した搭乗員の士気問題については確信をもって保証すると断言したため、福留も決心し、第一航空艦隊と第二航空艦隊を統合した連合基地航空隊が編成された。福留が指揮官、大西が参謀長を務めた。大西は第一航空艦隊、第二航空艦隊、721空の飛行隊長以上40名ほどを召集し、大編隊での攻撃は不可能で少数で敵を抜けて突撃すること、現在のような戦局ではただ死なすよりは特攻が慈悲であることなどを話して特攻を指導した。大西の強引な神風特攻隊拡大に批判的な航空幹部もいたが、大西は「今後俺の作戦指導に対する批判は許さん」「反対する者は叩き切る」と指導した。

 

 10月20日米軍レイテ島に上陸。700隻の艦艇、20万人以上の上陸部隊、陸上機艦載機あわせて4000機以上。

10月21日神風特別攻撃隊初出撃

10月24日から26日まで世界最大の海戦、レイテ沖海戦

10月25日神風特別攻撃隊敷島隊、体当たりにより最初の撃沈

次々と特攻隊が出撃した。 

しかし戦艦武蔵の撃沈他、海戦で大敗し、レイテ湾突入による米軍殲滅もできなかった

 

1945年1月、体当たり攻撃は無駄ではないか、中止してはどうかという質問に大西は「この現状では餌食になるばかり、部下に死所を得させたい」「特攻隊は国が敗れるときに発する民族の精華」「白虎隊だよ」と答えている。同月には、ついにダグラス・マッカーサー大将自ら指揮する連合軍大艦隊が、大西らがいるルソン島に侵攻してきた。1月6日には、日本軍は陸海軍ともに、熟練した教官級から未熟の練習生に至るまでの搭乗員が、稼働状態にある航空機のほぼ全機に乗り込んで、リンガエン湾に侵入してきた連合軍艦隊を攻撃した。大規模な特攻を予想していた連合軍は、全空母の艦載機や、レイテ島、ミンドロ島に進出した陸軍機も全て投入して、入念にルソン島内から台湾に至るまでの日本軍飛行場を爆撃し、上陸時には大量の戦闘機で日本軍飛行場上空を制圧したが、日本軍は特攻機を林の中などに隠し、夜間に修理した狭い滑走路や、ときには遊歩道からも特攻機を出撃させた。そのため圧倒的に制空権を確保していた連合軍であったが、特攻機が上陸艦隊に殺到するのを抑止することができなかった。この日の戦果は、駆逐艦1隻撃沈、戦艦4隻、巡洋艦5隻、駆逐艦5隻撃破と特攻開始してからの最大の戦果となったが、日本軍は陸海軍ともにこの攻撃でほぼ航空機を使い果たしてしまい、こののちは散発的な攻撃しかできなかった。

 

 レイテ島を攻略した米軍は次にルソン島を目指した。

1月4日から5日にかけて米軍は大輸送船団を伴って大艦隊がルソン島西側北上。

日本軍は既に食糧も不足し、3食サツマイモであった。

1月5日と6日、陸海軍の航空部隊は総力を挙げて体当たり攻撃をかけた。

 

 1月5日

重巡「オーストラリア」大破 戦死30名負傷64名

護衛駆逐艦「スタフォード」大破

その他損傷は

護衛空母「マニラベイ」戦死22名負傷56名

護衛空母サヴォアイランド」

重巡ルイスビル

水上機母艦「オルカ」

駆逐艦「ヘルム」

駆逐艦「アランタ」

歩兵揚陸艇70号

曳船「アパッチ」

 

1月5日出撃海軍特攻隊

マバラカット出撃海軍特攻隊 

 第十八金剛隊 零戦 爆装250㎏ 15機 15名

        零戦 直掩    2機 2名

 旭日隊    彗星 爆装250㎏ 1機 2名

 

1月6日

掃海駆逐艦「ロング」この日3回特攻を受け沈没 戦死1名負傷35名

最初は 昼前の攻撃、第二十二金剛隊1100アンヘレス出撃の零戦、爆装250㎏

 三宅輝彦中尉(横浜高工予備学生13期)

 広田豊吉中尉(和歌山師範予備学生13期)

 吉原晋中尉(横浜高工予備学生13期)

 黒沢厚(予科練丙飛16期)

 

この日の特攻隊による米軍損傷は

1100 掃海駆逐艦ロング    至近 

1122 駆逐艦リチャードPリアリ 至近 損傷

1159 戦艦ニューメキシコ   命中 大破 戦死29名負傷87名

1200  駆逐艦ウオーク      命中 大破 戦死13名負傷33名

1206 駆逐艦アレンMサムナー 命中 大破 戦死14名負傷19名

1208 豪重巡オーストラリア  至近 大破 戦死44名負傷68名

1209 戦艦ミッシシッピー   至近

1211 豪巡洋艦シュロプシア  至近

1215 掃海駆逐艦ロング    2機目命中 沈没 戦死1名負傷35名

1215 高速輸送船ブルックス  命中 損傷 戦死3名負傷11名

1406 戦艦ニューメキシコ 命中

1427 駆逐艦オブライエン 命中 損傷 戦死50名負傷76名

1427 駆逐艦バートン     至近 損傷

1500 巡洋艦コロンビア    至近

1720 戦艦カリフォルニア 命中 大破 戦死44名負傷155名

1730 掃海駆逐艦ロング  3機目命中 

1730 巡洋艦コロンビア   命中 大破

1731 巡洋艦ルイスビル    命中 大破 戦死36名

1734 豪巡洋艦オーストラリア 2機目命中 大破

 

10隻に命中、7隻に至近

海軍特攻隊36機出撃

 

 このほかの損傷

重巡ミネアポリス駆逐艦ニューカム」掃海駆逐艦サウザード」

 

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USS Louisville

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USS California BB-44

1月6日出撃海軍特攻隊

アンヘレス出撃 1100 リンガエン湾輸送船団目標 

 第二十二金剛隊    零戦、爆装250㎏ 4機 4人

マバラカット出撃 1250 リンガエン湾侵入攻略部隊目標

 第十九金剛隊   零戦 爆装250㎏ 13機 13人

クラーク出撃 1400-1500

 八幡隊 リンガエン湾内艦船目標 天山 雷装 2機6名

マバラカット出撃 1655 リンガエン湾大攻略部隊目標

 第二十金剛隊   5機 5人 

ニコルス出撃 1600 イバ沖北進中部隊目標

 第二十三金剛隊  8機 8人 直掩 4機 4人 誘導(彗星) 1機 2人

マバラカット出撃 1600  リンガエン湾・レイテ海目標

 第30金剛隊    2機 2人 

ソビ・マバラカット出撃 1750

旭日隊 スリガオ海峡・ミンダナオ海峡西航船舶 彗星 爆装500㎏ 2機4名

    リンガエン向け航行中空母目標

 

 1月6日米軍は上陸開始、

 

1月6日夜、大西はクラーク地区の全航空部隊の指揮官に対し、「この上はクラーク西方山岳地帯に移動し、地上作戦を果敢に実施し最後の一兵まで戦い抜かん」と訓示した。航空機を消耗し尽くした大西ら第一航空艦隊司令部は連合軍地上部隊を迎え撃つための陸戦部隊化について協議していたが、連合艦隊より第一航空艦隊は台湾に転進せよとの命令が届いた。躊躇する大西に猪口ら参謀が「とにかく、大西その人を生かしておいて仕事をさせようと、というところにねらいがあると思われます」と説得したのに対して、大西は「私が帰ったところで、もう勝つ手は私にはないよ」とった。第26航空戦隊司令官杉本丑衛少将が「あとは引き受けましたから、長官は命令に従ってください」と言われた大西は台湾を出る決意をした

 

1月9日から米軍上陸開始、初日68000人、総計20万人以上の大部隊が上陸攻撃。

 

1月10日、大西らはクラーク中飛行場から台湾へ一式陸上攻撃機で脱出した。この時、763空司令佐多直大大佐は大西の脱出に抗議した。221空飛行長・相生高秀少佐が当時現地で聞いた話では、佐多が「昨夜の訓示では、長官も山に籠って陣頭指揮されるものとばかり思っておりました。総指揮官たるものが、このような行動を取られることは指揮統率上誠に残念です」と抗議。

戦場秘話…命がけでフィリピンを脱出した搭乗員、下された「非情命令」

 

航空隊、対空砲台、設営隊、艦艇の乗組員など15000名を超える将兵が陸戦隊となったが、飛行機の搭乗員は養成に時間がかかり、適正がなければならず、再び戦力とするために、フィリピンから脱出させることになったが、搭乗員たちは陸路、ルソン島北部のツゲガラオ基地に後退させ、そこから輸送機で台湾へ送ることになった。司令部のあるバンバン基地からツゲガラオまでは最短450㎞。米軍を避けて夜間山中の行軍は約600㎞(東京・神戸間)を主として徒歩を余儀なくされた。また、米軍に味方する現地のゲリラにも悩まされた。

 

比島に残った陸戦隊15000人以上のうち生還者は約450名。

 

ツゲガラオにたどり着き台湾に脱出できた搭乗員は約525人という。

しかし、ツゲガラオから1月末、出撃した特攻隊がいた。

1月21日 第3新高隊 零戦爆装250㎏ 4機4名 目標台湾東方の機動部隊

1月25日 第27金剛隊 零戦爆装250㎏ 1機1名 

     住野秀信中尉 長崎師範 13期 リンガエン湾内艦船目標

 

 

台湾でも第一航空艦隊は特攻を継続し、残存兵力と台湾方面航空隊のわずかな兵力により1945年1月18日に「神風特攻隊新高隊」が編成された。台南海軍航空隊の中庭で開催された命名式で大西は「この神風特別攻撃隊が出て、万一負けたとしても、日本は亡国にならない。これが出ないで負けたら真の亡国になる」と訓示した。

1月21日台南基地出撃 爆装500㎏ 彗星 5機10名

 

台湾高雄基地にフィリピンから到着した戦闘機乗りは全員特攻隊になった。特攻専門部隊として第205海軍航空隊が編成され、大義隊と命名され、103名が組み入れられた。

 

戸川幸夫東京日日新聞記者、のちに作家)から「特攻によって日本はアメリカに勝てるのですか?」と質問された大西は「勝てないまでも負けないということだ」「いくら物量のあるアメリカでも日本国民を根絶してしまうことはできない。勝敗は最後にある。九十九回敗れても、最後に一勝すれば、それが勝ちだ。攻めあぐめばアメリカもここらで日本と和平しようと考えてくる。戦争はドロンゲームとなる。これに持ちこめばとりも直さず日本の勝ち、勝利とはいえないまでも負けにはならない。国民全部が特攻精神を発揮すれば、たとえ負けたとしても、日本は亡びない、そういうことだよ」と答えている。後藤基治(大阪毎日新聞記者)から特攻を続ける理由を聞かれた大西は「会津藩が敗れたとき、白虎隊が出たではないか。ひとつの藩の最期でもそうだ。いまや日本が滅びるかどうかの瀬戸際にきている。この戦争は勝てぬかもしれぬ」「ここで青年が起たなければ、日本は滅びますよ。しかし、青年たちが国難に殉じていかに戦ったかという歴史を記憶する限り、日本と日本人は滅びないのですよ」と答えた。

草柳大蔵『特攻の思想 大西瀧治郎伝』文春文庫16-17頁

 

4月から6月にかけて、沖縄戦で最大の特別攻撃が行われた。

人間ロケット爆弾「桜花」も使われた。

戦艦大和特別攻撃隊として飛行機の援護もなく出撃、撃沈された。

 

8月9日、大西は最高戦争指導会議に現れて徹底抗戦を訴える。12日、豊田が陸軍の梅津美治郎参謀総長とともにポツダム宣言受諾反対を奏上すると、米内海軍大臣は豊田と大西を呼び出した。米内は今まで見たことがないような憤怒の表情で「軍令部の行動はなっておらない。意見があるなら、大臣に直接申出て来たらよいではないか。最高戦争指導会議(9日)に、招かれもせぬのに不謹慎な態度で入って来るなんていうことは、実にみっともない。そんなことは止めろ」となどと激しく叱責した。

 

1945年8月16日、渋谷南平台町の官舎にて大西は遺書を残し割腹自決した。午前2時から3時ごろ腹を十字に切り頸と胸を刺したが生きていた。官舎の使用人が発見し、多田武雄次官が軍医を連れて前田副官、児玉誉士夫も急行した。熱海にいた矢次一夫も駆けつけたが昼過ぎになった。大西は軍医に「生きるようにはしてくれるな」と言い、児玉に「貴様がくれた刀が切れぬばかりにまた会えた。全てはその遺書に書いてある。厚木小園に軽挙妄動は慎めと大西が言っていたと伝えてくれ。」と話した。児玉も自決しようとすると大西は「馬鹿もん、貴様が死んで糞の役に立つか。若いもんは生きるんだよ。生きて新しい日本を作れ」といさめた。介錯と延命処置を拒み続けたまま同日夕刻死去。享年55。

終戦の混乱で海軍からは霊柩車はおろか棺桶の手配すらなく、従兵が庭の木を伐採して棺桶を自作した。霊柩車は結局手配できず、火葬場には借りてきたトラックで運ぶこととなった。大西は花が好きであったが、手向ける花すらなかったので、多田の妻女が火葬場の道中で見かけたキョウチクトウの花を摘んで大西に手向けた。

 

遺書は封筒に収められ、封筒の表書きは「八月十六日 四四五自刃す」と記されていた。

 

特攻隊の英霊に白(もう)す

善く戦ひたり深謝す

最後の勝利を信じつつ

肉弾として散華せり

然れ共其の信念は遂に

達成し得ざるに至れり

吾死を以って旧部下の

英霊と其の遺族に

謝せんとす

 

次に一般青少年に告ぐ

我が死にしては軽挙は

利敵行為なるを思ひ

聖旨に副ひ奉り

自重忍苦するの

誠ともならば幸いなり

隠忍するとも

日本人たるの

衿持を失う勿れ

諸子は國の賓なり

平時に処し猶ほ克く

特攻精神を堅持し

日本民族の福祉と

世界人類の和平の為

最善を盡くせよ

海軍中将大西瀧治郎

 

 

 

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宇垣纏


 宇垣纏は大西と異なり艦艇の上で経歴を重ね、大艦巨砲主義であったが、最後に1945年2月に第5航空艦隊司令長官として航空隊の司令官として特攻隊を指揮した。

 

1943年(昭和18年)4月18日、宇垣は山本五十六と共に一式陸上攻撃機2機に分乗して前線視察中、待ち伏せしていた米軍機に襲撃され、山本長官搭乗の1番機被弾、モイラ岬のジャングルに墜落。山本長官以下11名戦死。宇垣纏参謀長搭乗の2番機も被弾炎上し海上に不時着。宇垣以下3名負傷するも救助された。

 

宇垣は山本の遺骨と共に、戦艦「武蔵」で内地に帰還。その後、山本の形見として短刀を貰う。その短刀を携えてみずから最後の特攻に出撃することになる。

 

レイテ沖海戦には第1戦隊(大和、武蔵)司令官として臨み、海上からレイテ湾の米軍を目指して進軍。これを空から援護する役目を担ったのが大西で、大西はこのレイテ沖海戦がなんとか米軍に負けずに終戦を迎える最後のチャンスと見て、最初の特攻を命令した。

 

レイテ湾沖海戦 日米戦力

日本軍        米軍

   航空母艦4      航空母艦17

             護衛空母18

   戦艦9        戦艦12

   重巡洋艦13     重巡洋艦11

   軽巡洋艦6他    軽巡洋艦15

   駆逐艦34      駆逐艦141

   航空機約600機   空機約1000機
                  補助艦艇約1500隻

宇垣が指揮する第一戦隊はレイテ湾に突入する主力の栗田中将率いる第一部隊に入っていた

第一部隊

 

関大尉の率いる神風特攻隊は米空母セントローの撃沈など期待以上の成果を挙げたが、艦隊は航空機の援護もほとんどなく、第一部隊の戦艦武蔵等以外にも第二部隊(戦艦金剛、榛名など)第三部隊(戦艦山城、扶桑など)、第二遊撃隊(重巡洋艦那智、足柄など)とも多くの被害を出してレイテ湾突入寸前に回頭退避した。

 

 

 

昭和二十年二月に、第五航空艦隊が新設された。 零戦の二〇三航空隊、彗星艦爆の七〇一航空隊をはじめ、重爆撃機の「飛龍」を持つ陸軍航空隊までも指揮下に置く総数六百七十余機という大航空艦隊であり、日本に残された最後の決戦兵力であった。 司令部を大隅半島の鹿屋に置き、司令長官には宇垣纏中将。宇垣は着任早々、「挙隊特攻」つまり、「特令の無い限り、攻撃は特攻とする」と宣言した。特攻は例外ではなく、原則となった。

 

陸軍は福岡に司令部を置く第6航空軍司令官、菅原道大中将。 

 

宇垣は自らの日記『戦藻録』(3月20日)に次のように記している。

「優秀なる技量者は本方〔正攻法の攻撃のこと〕をもつてするを経済有効的とす。しかれども本思想を一般に適用せば必中を期せられざるに至る。むづかしき点にして、吾人は依然として、特攻精神に重点をおかざるべからず」

搭乗員の技術が優れていれば、正攻法の雷爆撃のほうがいい。一時的に戦果がなくても生還してまた出撃できれぱ期待できる。しかし、全員がその正攻法を続けていたら「必中」は期待できない。となれば、「特攻」を優先せざるを得ない……。宇垣らしい「合理性」である。翌21日には、人間爆弾「桜花」部隊を投入する。

 

特攻戦死者数

      2月   3月   4月    5月      6月     7月  8月

    主に硫黄島 九州近辺   沖縄周辺     本土周辺

海軍              43               434          1041     441    99         10         62        

陸軍               0                 36             433    511   162         12         19

       (8月には15日出撃の宇垣提督17名、19日満州 神州不滅特別攻撃隊9名を含む)

 

フィリピンのあと、特攻は、主として南九州の特攻基地を拠点に繰り返されていく。

「十死零生」の特攻は続けられた。大日本帝国陸海軍には、ほかに取り得る作戦がなかった。

 

『戦史叢書沖縄・台湾・硫黄島方面陸軍航空作戦』

「比島決戦で極度に戦力を消耗した結果、米軍の次期進攻に対し、戦力再建の時間の余裕がない。そこで速成訓練が容易で技禰未熟者でも実施可能な特攻攻撃を、陸海軍共に中核戦法として採用した。現存する飛行機と養成途中の未熟な操縦者の組み合わせによる特攻戦力によるほかに方法がなかった。こうして教育、器材の不備を精神力によって補う以外に方法がない状態となった」

フィリピンで戦力の底がみえてしまった。搭乗員を育成する時間もない。できるのは、残った少ない飛行機に半人前の操縦者を乗せて、敵に突っ込ませることしかなかった、

ということだ。

日本軍は米軍に対し、飛行機や艦船の数はもちろん科学・技術力でも遠く及ばない。航空兵の育成も遅れていた。頼るのはただ「精神力」であった。「生命の犠牲をいとわず忠節を尽くす精神は、日本民族の伝統的特質と自負されていた」と、『戦史叢書』は、特攻隊員らについて記している。

米軍に対する日本軍の劣勢は、物量と科学・技術力とも「精神力」で埋めることは不可能であった。

 

八月十五日。

正午には天皇の放送がある旨、ラジオは朝から予告をくり返していた。また、サン

フランシスコ放送は、日本がポツダム宣言を正式に受諾し、戦争が終わった旨報じており、それらは刻々宇垣に伝えられていた。そして、宇垣は参謀に命令書を書かせた。

「七〇一空大分派遣隊は、艦爆五機をもって沖縄敵艦隊を攻撃すべし。

 本職これを親率す。第五航空艦隊司令長官中将宇垣纏」

 

隊長中津留大尉は五機の搭乗員の編成割りを書いて貼り出すと、大騒ぎになった。

外された隊員たちが、なぜ外すのか、なぜ残すのか、と。とりあえず、隊員たちは土手の上で赤飯の缶詰を食べる。

遠くに整備員の一団が整列し、何かを聴いている姿が見え、やがてその整備員に接触した隊員の一人が「戦争は終わったようだ」と伝えたが、まさかと相手にせず。

こうして、午後四時近く、沖縄水域への出撃と決まり、隊員たちは指揮所前に整列したが、そこへ黒塗りの三台の車が着き、その先頭の車から、宇垣長官が降り立ち、迎える幕僚たちは、司令長官も一緒になって出撃とわかり、隊員たちは驚きの声を上げ、顔を見合わせた。

一方、宇垣は宇垣で、用意されていたのが五機でなく十一機であるのに目をみはり、

「たしか五機と命じたはずだが」これに対し、中津留が

「長官が特攻をかけられるというのに、たった五機ということがありますか。わが隊の全機でお伴します」

 

「偵察員は要らぬから、残るように」と言ったが、偵察員全員が反対したので、そのままに。

 

中津留の操縦する1番機に宇垣を乗せるためには、後部の席を空けねばならぬのだが、

 遠藤秋章飛曹長が降りるのを拒み、結局、宇垣が偵察員席に股をひろげる形で座り、その前の床に遠藤が膝をつくという窮屈な姿での出発となった。

 

かねて宇垣が司令部に用意させておいた決別電を指揮下の各部隊に発信せよと指令。

 

「過去半年に渡る麾下各隊勇士の奮戦に拘らず、驕敵を撃砕皇国護持の大任を果たすこと能わざりしは本職不敏の致すところなり

 

武か隊員の桜花と散りし沖縄に進攻皇国武人の本領を発揮驕敵米艦に突入撃沈す」

 

「私兵特攻」松下竜一「八月十五日の空」秦郁彦

中津留機他一機が沖縄本島の本部半島北訳30キロの伊平屋島に突入

「指揮官たちの特攻」

 

軍人は戦争に勝つのが職務である。戦争を始めることも、終わらせることも、彼らの職務ではない。いったん始まった戦争を、絶対不屈の精神で勝つために、彼らは戦った。その戦いに勝つことは不可能と知った後も、敢闘した。そして早くやめさせようともしたし、やめる時(負ける時)に少しでも有利になるように、軍人として最善を尽くした。それが最悪の戦闘方法、特攻であっても。最悪な戦闘方法、闘う兵隊の命を失う前提の戦闘、特攻であったことは将軍としては、みずから許せない方法ではあった。その方法を採って命令したことは、みずからの命で片を付けたといえないだろうか。

 

戦争を始め、終わらせる職務を持った人間ははたして責任を取ったのだろか。

 

特攻隊員も命を消耗し、繰り返し攻撃のない、勝ち戦につながらない特攻に対して反対した。また、すでに特攻が始まった1944年暮れには日本が負けることも見越した特攻隊員もいた。それでも彼らは特攻出撃した。自らの将来を捨て、家族を捨て、先立つことを詫び、勇敢に突入した。かれらには戦争を終わらせる責務はなかった。彼らには命を投げ出して国の為に、またしばしば「天皇陛下のために」尽くすことを要求され、命令もあっただろうが、最後は自分の意思で自分の命を差し出した。

 

果たして、彼らに命を差し出させた人々は責任をはたしたのだろうか?

その人々は直接命令した軍人ではない。なぜなら軍人は戦争に勝つために、殺されても殺すことが任務であり、全力でその任務を遂行したのだから。責任ある人々は戦争を始め、次々と国民が死んでいく中で、戦争を終わらせなかった人たちであろう。

 

日中戦争に始まる第二次世界大戦で、戦争に突入した責任が軍人になかったということではない。陸軍は特に満州で、勝手に戦争をはじめ拡大した。軍を統帥する仕組みが明確でなかったためとはいえ、それに乗じて統帥すべき者の命令なく戦争を始めた軍の責任は大きい。戦争を始める責任と責務のない軍が勝手に戦争に引きずり込んだことは軍だけではないが、その責任は非常に大きい。

 

 

 展望社刊2018年8月15日初版+同年12月7日第2刷

大東亜戦争 責任を取って自決した陸軍将官26人列伝」(全260頁)

大東亜戦争終了時あるいはその後『自決』した陸軍将官26名・・・」

大東亜戦争に関連して戦没した将官は、陸軍188名、海軍82名に上る。戦没とは、戦死、戦病死、殉職、自決、戦犯死、シベリア等抑留中の死亡等をいう」

「その内訳は、陸軍の戦死60名、戦病死33名、殉職11名、自決26名、戦犯としての刑死27名、シベリア等抑留中の死亡21名である」

「海軍は、戦死49名、戦病死12名、殉職4名、自決5名、刑死12名である」

(筆者畏友から教示頂きました)

 

 

終戦詔書大東亜戦争終結詔書)1945年8月15日

朕深く世界の大勢と 帝国の現状とに鑑み 非常の措置を以って時局を収拾せんと欲し ここに忠良なる汝臣民に告ぐ

朕は帝国政府をして 米英支蘇四国に対し その共同宣言を受諾する旨通告せしめたり

そもそも帝国臣民の康寧をはかり 万邦共栄の楽を共にするは 皇祖皇宗の遺範にして 朕の拳々措かざる所
先に米英二国に宣戦せる所以もまた 実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾するに出でて 他国の主権を排し領土を侵すが如きは もとより朕が志にあらず
然るに交戦既に四歳を閲し 朕が陸海将兵の勇戦 朕が百僚有司の励精 朕が一億衆庶の奉公 各々最善を尽くせるに拘らず 戦局必ずしも好転せず
世界の大勢また我に利あらず
しかのみならず 敵は新たに残虐なる爆弾を使用して しきりに無辜を殺傷し 惨害の及ぶところ真に測るべからざるに至る
しかもなお交戦を継続せんか 遂に我が民族の滅亡を招来するのみならず 延べて人類の文明をも破却すべし
かくの如くは 朕何を以ってか 億兆の赤子を保し 皇祖皇宗の神霊に謝せむや
是れ 朕が帝国政府をして共同宣言に応せしむるに至れる所以なり
朕は帝国と共に 終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し 遺憾の意を表せざるを得ず
帝国臣民にして戦陣に死し 職域に殉し 非命に倒れたる者及び 其の遺族に想いを致せば五内為に裂く
且つ戦傷を負い 災禍を被り 家業を失いたる者の厚生に至りては 朕の深く軫念する所なり
思うに今後帝国の受くべき苦難はもとより尋常にあらず
汝臣民の衷情も朕よく是れを知る
然れども朕は時運の赴く所 堪え難きを堪へ 忍び難きを忍び 以って万世の為に太平を開かんと欲す
朕はここに国体を護持し得て 忠良なる汝臣民の赤誠に信倚し 常に汝臣民と共に在り
もしそれ情の激する所 濫りに事端を滋くし 或いは同胞排せい 互いに時局を乱り 為に大道を誤り 信義を世界に失うか如きは 朕最も之を戒む
宜しく 挙国一家 子孫相伝え かたく神州の不滅を信じ 任重くして道遠きを念い 総力を将来の建設に傾け 道義を篤くし 志操を堅くし 誓って国体の精華を発揚し世界の進運に後れざらんことを期すべし
汝臣民それ克く朕が意を体せよ

御名御璽

昭和二十年八月十四日

Imperial Rescript


To Our Good and loyal subjects:

After pondering deeply the general trends of the world and the actual conditions obtaining in Our Empire today, We have decided to effect a settlement of the present situation by resorting to an extraordinary measure.

We have ordered Our Government to communicate to the Governments of the United States, Great Britain, China and the Soviet Union that Our Empire accepts the provisions of their Joint Declaration.[2]

To strive for the common prosperity and happiness of all nations as well as the security and well-being of Our subjects is the solemn obligation which has been handed down by Our Imperial Ancestors, and which We lay close to heart. Indeed, We declared war on America and Britain out of Our sincere desire to secure Japan's self-preservation and the stabilization of East Asia, it being far from Our thought either to infringe upon the sovereignty of other nations or to embark upon territorial aggrandisement. But now the war has lasted for nearly four years. Despite the best that has been done by every one -- the gallant fighting of military and naval forces, the diligence and assiduity of Our servants of the State and the devoted service of Our one hundred million people, the war situation has developed not necessarily to Japan's advantage, while the general trends of the world have all turned against her interest. Moreover, the enemy has begun to employ a new and most cruel bomb,[3] the power of which to do damage is indeed incalculable, taking the toll of many innocent lives. Should we continue to fight, it would not only result in an ultimate collapse and obliteration of the Japanese nation, but also it would lead to the total extinction of human civilization. Such being the case, how are We to save the millions of Our subjects; or to atone Ourselves before the hallowed spirits of Our Imperial Ancestors? This is the reason why We have ordered the acceptance of the provisions of the Joint Declaration of the Powers.

We cannot but express the deepest sense of regret to Our Allied nations of East Asia, who have consistently cooperated with the Empire towards the emancipation of East Asia. The thought of those officers and men as well as others who have fallen in the fields of battle, those who died at their posts of duty, or those who met with untimely death and all their bereaved families, pains Our heart night and day. The welfare of the wounded and the war-sufferers, and of those who have lost their home and livelihood, are the objects of Our profound solicitude. The hardships and sufferings to which Our nation is to be subjected hereafter will be certainly great. We are keenly aware of the inmost feelings of all ye, Our subjects. However, it is according to the dictate of time and fate that We have resolved to pave the way for grand peace for all the generations to come by enduring the unendurable and suffering what is insufferable.

Having been able to safeguard and maintain the structure of the Imperial State, We are always with ye, Our good and loyal subjects, relying upon your sincerity and integrity. Beware most strictly of any outbursts of emotion which may endanger needless complications, or any fraternal contention and strife which may create confusion, lead ye astray and cause ye to lose the confidence of the world. Let the entire nation continue as one family from generation to generation, ever firm in its faith of the imperishableness of its divine land and mindful of its heavy burden of responsibilities, and the long road before it. Unite your total strength to be devoted to the construction for the future. Cultivate the ways of rectitudes; foster nobility of spirit; and work with resolution so as ye may enhance the innate glory of the Imperial State and keep place with the progress of the world.

私は、深く世界の情勢と日本の現状について考え、非常の措置によって今の局面を収拾しようと思い、ここに忠義で善良なあなた方国民に伝える。

私は、日本国政府に、アメリカ・イギリス・中国・ソ連の4国に対して、それらの共同宣言(ポツダム宣言 )を受諾することを通告させた。

そもそも、日本国民の平穏無事を確保し、すべての国々の繁栄の喜びを分かち合うことは、歴代天皇が大切にしてきた教えであり、私が常々心中強く抱き続けているものである。
先にアメリカ・イギリスの2国に宣戦したのも、まさに日本の自立と東アジア諸国の安定とを心から願ってのことであり、他国の主権を排除して領土を侵すようなことは、もとより私の本意ではない。
しかしながら、交戦状態もすでに4年を経過し、我が陸海将兵の勇敢な戦い、我が全官僚たちの懸命な働き、我が1億国民の身を捧げての尽力も、それぞれ最善を尽くしてくれたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転せず、世界の情勢もまた我が国に有利とは言えない。
それどころか、敵国は新たに残虐な爆弾(原子爆弾)を使い、むやみに罪のない人々を殺傷し、その悲惨な被害が及ぶ範囲はまったく計り知れないまでに至っている。
それなのになお戦争を継続すれば、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、さらには人類の文明をも破滅させるに違いない。
そのようなことになれば、私はいかなる手段で我が子とも言える国民を守り、歴代天皇の御霊(みたま)にわびることができようか。
これこそが私が日本政府に共同宣言を受諾させるに至った理由である。

私は日本と共に終始東アジア諸国の解放に協力してくれた同盟諸国に対して、遺憾の意を表さざるを得ない。
日本国民であって戦場で没し、職責のために亡くなり、戦災で命を失った人々とその遺族に思いをはせれば、我が身が引き裂かれる思いである。
さらに、戦傷を負い、戦禍をこうむり、職業や財産を失った人々の生活の再建については、私は深く心を痛めている。
考えてみれば、今後日本の受けるであろう苦難は、言うまでもなく並大抵のものではない。
あなた方国民の本当の気持ちも私はよく分かっている。
しかし、私は時の巡り合わせに従い、堪え難くまた忍び難い思いをこらえ、永遠に続く未来のために平和な世を切り開こうと思う。

私は、ここにこうして、この国のかたちを維持することができ、忠義で善良なあなた方国民の真心を信頼し、常にあなた方国民と共に過ごすことができる。
感情の高ぶりから節度なく争いごとを繰り返したり、あるいは仲間を陥れたりして互いに世情を混乱させ、そのために人としての道を踏み誤り、世界中から信用を失ったりするような事態は、私が最も強く戒めるところである。 
まさに国を挙げて一家として団結し、子孫に受け継ぎ、神国日本の不滅を固く信じ、任務は重く道のりは遠いと自覚し、総力を将来の建設のために傾け、踏むべき人の道を外れず、揺るぎない志をしっかりと持って、必ず国のあるべき姿の真価を広く示し、進展する世界の動静には遅れまいとする覚悟を決めなければならない。
あなた方国民は、これら私の意をよく理解して行動してほしい。

天皇陛下署名及び天皇の印

Potsdam Declaration

Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender
Issued, at Potsdam, July 26, 1945

  1. We-the President of the United States, the President of the National Government of the Republic of China, and the Prime Minister of Great Britain, representing the hundreds of millions of our countrymen, have conferred and agree that Japan shall be given an opportunity to end this war.
  2. The prodigious land, sea and air forces of the United States, the British Empire and of China, many times reinforced by their armies and air fleets from the west, are poised to strike the final blows upon Japan. This military power is sustained and inspired by the determination of all the Allied Nations to prosecute the war against Japan until she ceases to resist.
  3. The result of the futile and senseless German resistance to the might of the aroused free peoples of the world stands forth in awful clarity as an example to the people of Japan. The might that now converges on Japan is immeasurably greater than that which, when applied to the resisting Nazis, necessarily laid waste to the lands, the industry and the method of life of the whole German people. The full application of our military power, backed by our resolve, will mean the inevitable and complete destruction of the Japanese armed forces and just as inevitably the utter devastation of the Japanese homeland.
  4. The time has come for Japan to decide whether she will continue to be controlled by those self-willed militaristic advisers whose unintelligent calculations have brought the Empire of Japan to the threshold of annihilation, or whether she will follow the path of reason.
  5. Following are our terms. We will not deviate from them. There are no alternatives. We shall brook no delay.
  6. There must be eliminated for all time the authority and influence of those who have deceived and misled the people of Japan into embarking on world conquest, for we insist that a new order of peace, security and justice will be impossible until irresponsible militarism is driven from the world.
  7. Until such a new order is established and until there is convincing proof that Japan's war-making power is destroyed, points in Japanese territory to be designated by the Allies shall be occupied to secure the achievement of the basic objectives we are here setting forth.
  8. The terms of the Cairo Declaration shall be carried out and Japanese sovereignty shall be limited to the islands of Honshu, Hokkaido, Kyushu, Shikoku and such minor islands as we determine.
  9. The Japanese military forces, after being completely disarmed, shall be permitted to return to their homes with the opportunity to lead peaceful and productive lives.
  10.                                             We do not intend that the Japanese shall be enslaved as a race or destroyed as a nation, but stern justice shall be meted out to all war criminals, including those who have visited cruelties upon our prisoners. The Japanese Government shall remove all obstacles to the revival and strengthening of democratic tendencies among the Japanese people. Freedom of speech, of religion, and of thought, as well as respect for the fundamental human rights shall be established.
  11. Japan shall be permitted to maintain such industries as will sustain her economy and permit the exaction of just reparations in kind, but not those which would enable her to re-arm for war. To this end, access to, as distinguished from control of, raw materials shall be permitted. Eventual Japanese participation in world trade relations shall be permitted.
  12. The occupying forces of the Allies shall be withdrawn from Japan as soon as these objectives have been accomplished and there has been established in accordance with the freely expressed will of the Japanese people a peacefully inclined and responsible government.
  13. We call upon the government of Japan to proclaim now the unconditional surrender of all Japanese armed forces, and to provide proper and adequate assurances of their good faith in such action. The alternative for Japan is prompt and utter destruction.
(The Ministry of Foreign Affairs "Nihon Gaiko Nenpyo Narabini Shuyo Bunsho : 1840-1945" vol.2, 1966)

日本の降伏のための定義および規約
1945年7月26日、ポツダムにおける宣言

  1. 我々合衆国大統領、中華民国政府主席、及び英国総理大臣は、我々の数億の国民を代表し協議の上、日本国に対し戦争を終結する機会を与えることで一致した。
  2. 3ヶ国の軍隊は増強を受け、日本に最後の打撃を加える用意を既に整えた。この軍事力は、日本国の抵抗が止まるまで、同国に対する戦争を遂行する一切の連合国の決意により支持され且つ鼓舞される。
  3. 世界の自由な人民に支持されたこの軍事力行使は、ナチス・ドイツに対して適用された場合にドイツドイツ軍に完全に破壊をもたらしたことが示すように、日本と日本軍が完全に壊滅することを意味する。
  4. 日本が、無分別な打算により自国を滅亡の淵に追い詰めた軍国主義者の指導を引き続き受けるか、それとも理性の道を歩むかを選ぶべき時が到来したのだ。
  5. 我々の条件は以下の条文で示すとおりであり、これについては譲歩せず、我々がここから外れることも又ない。執行の遅れは認めない。
  6. 日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力を永久に除去する。無責任な軍国主義が世界から駆逐されるまでは、平和安全正義の新秩序も現れ得ないからである。
  7. 第6条の新秩序が確立され、戦争能力が失われたことが確認される時までは、我々の指示する基本的目的の達成を確保するため、日本国領域内の諸地点は占領されるべきものとする。
  8. カイロ宣言の条項は履行されるべきであり、又日本国の主権は本州北海道九州及び四国ならびに我々の決定する諸小島に限られなければならない。
  9. 日本軍は武装解除された後、各自の家庭に帰り平和・生産的に生活出来る機会を与えられる。
  10. 我々の意志は日本人を民族として奴隷化し、また日本国民を滅亡させようとするものではないが、日本における捕虜虐待を含む一切の戦争犯罪人は処罰されるべきである。日本政府は日本国国民における民主主義的傾向の復活を強化し、これを妨げるあらゆる障碍は排除するべきであり、言論宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立されるべきである。
  11. 日本は経済復興し、課された賠償の義務を履行するための生産手段、戦争再軍備に関わらないものが保有出来る。また将来的には国際貿易に復帰が許可される。
  12. 日本国国民が自由に表明した意志による平和的傾向の責任ある政府の樹立を求める。この項目並びにすでに記載した条件が達成された場合に占領軍は撤退するべきである。
  13. 我々は日本政府が全日本軍の即時無条件降伏を宣言し、またその行動について日本政府が十分に保障することを求める。これ以外の選択肢は迅速且つ完全なる壊滅があるのみである。

 

きけ わだつみの こえ

きけ わだつみのこえ』は第二次世界大戦末期に戦没した日本の学徒兵の遺稿集。

1947年(昭和22年)に東京大学協同組合出版部により編集されて出版された東京大学のみの戦没学徒兵の手記集『はるかなる山河に』を母体として、ひろく全国の大学高等専門学校(旧制)出身の戦没学生の遺稿を募り1949年(昭和24年)10月20日に出版された。BC級戦犯として死刑に処された学徒兵の遺書も掲載されている。

4月22日に日本戦没学生記念会わだつみ会)が結成された。


1963年(昭和38年)に続編として『戦没学生の遺書にみる15年戦争』が光文社から出版され、1966年(昭和41年)に『第2集 きけ わだつみのこえ』に改題された。 

 

1995年12月に「新版 きけわだつみのこえ」が岩波文庫で刊行

旧版支持者から「誤りが多い」、「遺族所有の原本を確認していない」、「遺稿が歪められている」、「遺稿に無い文が付け加えられている」、「訂正を申し入れたのに増刷でも反映されなかった」といった批判を浴びる

1998年(平成10年)、中村克郎らが新たに「わだつみ遺族の会」を結成。うち中村克郎と西原若菜が遺族代表として、わだつみ会岩波書店に対して「勝手に原文を改変し、著作権を侵害した」として新版の出版差し止めと精神的苦痛に対する慰謝料を求める訴訟を起こす。

原告が提出した原本と新版第一刷の対照データをもとに岩波書店が修正した第8刷を1999年(平成11年)11月に出版し提出した結果、翌12月、原告は「要求のほとんどが認められた」として訴えを取り下げた。ただし、新版は中村ら原告側が編集に携わっている『はるかなる山河に』などを源泉として作成されており、裁判では誤りを自ら訂正しなかった原告を含めた双方に過失があると判断された。

ウィキペディア及び「きけわだつみのこえ戦後史」参照

 

様々な議論が交わされてきたが、戦争に投げ込まれ殺し殺された若者の悲痛な叫び,

時に冷静で理性的な声、に耳を傾け、忘れず同様なことが起きないよう。

 

1982年7月16日第一刷発行

1994年5月6日第35刷発行

編者 日本戦没学生記念会わだつみ会

発行 岩波書店

 

感想(旧版序文)

渡辺一夫

本書は、先に公刊された『はるかなる山河に』の続篇である。編集に当っては、組合出版部の方々が論議を重ね、その結論を顧問格の僕が批評し、更に出版部の人々が協議して、ようやく方針が決定したのである。僕としては、全体の方針を、肯定し、適切だと思っている。初め、僕は、かなり過激な日本精神主義的な、ある時には戦争謳歌にも近いような若干の短文までをも、全部採録するのが「公正」であると主張したのであったが、出版部の方々は、必ずしも僕の意見には賛同の意を表されなかった。現下の社会情勢その他に、少しでも悪い影響を与えるようなことがあってはならぬというのが、その理由であった。僕もそれはもっともだと思った。

その上僕は、形式的に「公正」を求めたところで、かえって「公正」を欠くことがあると思ったし、更に、若い戦没学徒の何人かに、一時でも過激な日本主義的なことや戦争謳歌に近いことを書き綴らせるにいたった酷薄な条件とは、あの極めて愚劣な戦争と、あの極めて残忍闇黒な国家組織と軍隊組織とその主要構成員とであったことを思い、これらの痛ましい若干の記録は、追いつめられ、狂乱せしめられた若い魂の叫び声に外ならぬと考えた。そして、影響を顧慮することも当然であるが、これらの極度に痛ましい記録を公表することは、我々として耐えられないとも思い、出版部側の意見に賛成したのである。その上、今記したような痛ましい記録を、更に痛ましくしたような言辞を戦前戦中に弄して、若い学徒を煽てあげていた人々が、現に平気で平和を享受していることを思う時、純真なるがままに、煽動の犠牲になり、しかも今は、白骨となっている学徒諸氏の切ない痛ましすぎる声は、しばらく伏せたほうがよいとも思ったしだいだ。

しかし、それでも本書のいかなる頁にも、追いつめられた若い魂が、ー自然死ではもちろんなく、自殺でもない死、他殺死を自ら求めるように、またこれを「散華」と思うように、訓練され、教育された若い魂が、若い生命のある人間として、また夢多かるべき青年として、また十分な理性を育てられた学徒として、不合理を合理として認め、いやなことをすきなことと思い、不自然を自然と考えねばならぬように強いられ、縛りつけられ、追いこまれた時に、発した叫び声が聞かれるのである。この叫び声は、僕として、通読するのに耐えられないくらい悲痛である。それがいかに勇ましい乃至潔い言葉で綴ってあっても、悲痛で暗澹としている。(後略)

 

上原良司
慶応大学経済学部学生。昭和18年12月入営。1945年5月11日陸軍特別攻撃隊員として沖縄嘉手納湾の米国機動部隊に突入戦死。22歳。

遺書

生を享けてより二十数年何一つ不自由なく育てられた私は幸福でした。温かき御両親の愛の下、良き兄妹の勉励により、私は楽しい日を送る事ができました。そしてややもすれば我儘になりつつあった事もありました。この間御両親様に心配をお掛けした事は兄妹中で私が一番でした。それが何の御恩返しもせぬ中に先立つ事は心苦しくてなりません。
空中勤務者としての私は毎日毎日が死を前提としての生活を送りました。一字一言が毎日の遺書であり遺言であったのです。高空においては、死は決して恐怖の的ではないのです。このまま突っ込んで果して死ぬだろうか、否、どうしても死ぬとは思えませんでした。そして、何かこう突っ込んで見たい衝動に駈られた事もありました。私は決して死を恐れてはいません。
むしろ嬉しく感じます。何故なれば、懐しい龍兄さんに会えると信ずるからです。
天国における再会こそ私の最も希ましい事です
私は明確にいえば自由主義に憧れていました。日本が真に永久に続くためには自由主義が必要であると思ったからです。これは馬鹿な事に見えるかも知れません。それは現在日本が全体主義的な気分に包まれているからです。しかし、真に大きな眼を開き、人間の本性を考えた時、自由主義こそ合理的になる主義だと思います。
戦争において勝敗をえんとすればその国の主義を見れば事前において判明すると思います。人間の本性に合った自然な主義を持った国の勝戦は火を見るより明らかであると思います。私の理想は空しく敗れました。人間にとって一国の興亡は実に重大な事でありますが、宇宙全体から考えた時は実に些細な事です。
離れにある私の本箱の右の引出しに遺本があります。開かなかったら左の引出しを開けて釘を抜いて出して下さい。
ではくれぐれも御自愛のほどを祈ります。
大きい兄さん清子始め皆さんに宜しく、
ではさようなら、御機嫌よく、さらば永遠に。
良司
ご両親様


所感
栄光ある祖国日本の代表的攻撃隊ともいうべき陸軍特別攻撃隊に選ばれ、身の光栄これに過ぐるものなしと痛感致しております。
思えば長き学生時代を通じて得た、信念とも申すべき理論万能の道理から考えた場合、これはあるいは、自由主義者といわれるかも知れませんが自由の勝利は明白な事だと思います。人間の本性たる自由を滅す事は絶対に出来なく、例えそれが抑えられているごとく見えても、底においては常に闘いつつ最後には必ず勝つという事は彼のイタリヤのクローチェもいっているごとく真理であると思います。権力主義の国家は一時的に隆盛であろうとも必ずや最後には敗れる事は明白な事実です。我々はその真理を今次世界大戦の枢軸国家において見る事が出来ると思います。ファシズムのイタリヤは如何、ナチズムのドイツまた、既に敗れ、今や権力主義国家は、土台石の壊れた建築物のごとく次から次へと滅亡しつつあります。真理の普遍さは今、現実によって証明されつつ過去において歴史が示したごとく未来永久に自由の偉大さを証明して行くと思われます。自己の信念の正しかったこと、この事はあるいは祖国にとって恐るべきことであるかもしれませんが吾人にとってはうれしい限りです。現在のいかなる闘争もその根底をなす
すものは必ず思想なりと思う次第です。既に思想によって、その闘争の結果を明白に見ることができると信じます。

愛する祖国日本をして、かつての大英帝国のごとき大帝国たらしめんとする私の野望はついに空しくなりました、真に日本を愛する者をして、立たしめたなら日本は現在の如き状態にあるいは追い込まれなかった思います。世界どこにおいても肩で風を切って歩く日本人、これが私の夢見た理想でした。
空の特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬと一友人がいったことは確かです。
操縦桿を採る器械、人格もなく感情もなくもちろん理性もなく、ただ敵の航空母艦に向って吸いつく磁石の中の鉄の一分子にすぎぬのです。理性をもって考えたなら実に考えられぬ事で強いて考えうれば、彼らがいうごとく自殺者とでもいいましょうか。精神の国、日本においてのみ見られることだと思います。一器械である吾人は何もいう権利もありませんがただ、願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を、国民の方々にお願いするのみです。
こんな精神状態で征ったならもちろん、死んでも何にもならないかも知れません。故に最初に述べたごとく特別攻撃隊に選ばれた事を光栄に思っている次第です。
飛行機に乗れば器械に過ぎぬのですけれど、いったん下りればやはり人間ですから、そこには感情もあり、熱情も動きます。愛する恋人に死なれた時、自分も一緒に精神的には死んでおりました。天国に待ちある人、天国において彼女と会えると思うと死は天国に行く途中でしかありませんから何でもありません。明日は出撃です。過激にわたり、もちろん発表すべき事ではありませんでしたが、偽わらぬ心境は以上述べたごとくです。何も系統だてず思ったままを雑然と述べた事を許して下さい。明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。彼の後姿は淋しいですが、心中満足で一杯です。
いいたい事をいいたいだけいいました。無礼を御許し下さい。ではこの辺で。
出撃の前夜記す。

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第五十六振武隊 三式戦に搭乗し知覧より出撃

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三式戦闘機


5月11日知覧を発進戦死した陸軍特攻隊は34名

第44振武隊 一式戦 1機

第49振武隊 一式戦 2機

第51振武隊 悠久隊 一式戦 7機  朝鮮半島出身・光山文博(卓庚絃)を含む

第52振武隊 一式戦 3機

第55振武隊 三式戦 3機

第56振武隊 三式戦 3機   上原良司を含む、全て特操2期の少尉 

 第60振武隊 四式戦 1機

第61振武隊 四式戦 3機

第65振武隊 九七式戦 3機

第70振武隊 一式戦 3機

第76振武隊 九七式戦 3機

第78振武隊桜花隊 一式戦 1機 (喜界島より出撃)

誠第41飛行隊芙揺隊 九七式戦 1機 (沖縄中基地より出撃)

 

特別操縦士出身1期7名 京都薬学専門学校出身(朝鮮半島出身)の

            光山文博(卓庚絃)を含む

       2期6名 慶応大学出身の上原良司を含む 

少年飛行兵 13期 8名  1941/42年に14歳で少年飛行学校へ入校、17/18歳か

      14機 2名

      15期 2名

陸士(陸軍士官学校)出身 57期(1942/7入校1944/3卒業) 3名

下士官操縦学生 93期1名

幹部候補生 8期 9期 2名

米子乗員養成所 2名

仙台乗員養成所 1名

 

 5月11日は海軍も103名出撃戦死した。

鹿屋基地から

第八神風桜花特別攻撃隊 桜花と一式陸攻 各3機 24名

神雷部隊第10建武隊 零戦52型 爆装500㎏ 4機

第5筑波隊 同上9機

第7七生隊 同上1機

第6神剣隊 同上4機

第6昭和隊 同上2機

第7昭和隊 同上6機 空母バンカーヒルを大破した安則盛三、小川清を含む

 

串良基地から

水雷桜隊 天山爆装800㎏10機30名

 

宮崎基地から

第9銀河隊 銀河爆装800㎏6機18名

 

指宿基地から

第2魁隊 零式水偵・94水偵 各1機 爆装800㎏ 4名

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 5月11日特攻による米軍被害「ドキュメント神風」

                       戦死行方不明  負傷   

空母バンカーヒルAircraft Carrier Bunker Hill (CV-17)     402    264

   第7昭和隊 海軍鹿屋基地出撃 旅順師範出身 13期予備学生 安則盛三中尉

 第7昭和隊 海軍鹿屋基地出撃 早稲田大学出身 14期予備学生 小川清中尉

  いずれも爆装500㎏の零戦52型にてBunker Hill CV-17に突入、空母の戦死者402名

  負傷者264名、特攻機による単一艦艇の被害では最大と思われる。

       

駆逐艦エバンズ destroyer Evans (DD-552)              戦死  32     負傷      27

Eight days later, May 10, 1945, she got underway with Hugh W. Hadley for a radar picket station northwest of Okinawa. During the first night on station, 10–11 May, enemy planes were constantly in evidence; more than a hundred attacked the two destroyers and the two LCSs with them. Evans fought determinedly against this overwhelming assault, shooting down many of them, but in quick succession, four kamikazes struck her. After engineering spaces flooded, and she lost power, Evans' crew strove to save her, using portable fire extinguishers and bucket brigades.   They succeeded, though 32 were killed and 27 wounded, and the ship was towed into Kerama Retto on 14 May for repairs. 

wikipedia

 

駆逐艦ヒューWハドリ destroyer Hugh W. Hadlley DD-774   戦死30    負傷121

 In a mass kamikaze attack on May 11, 1945, the destroyer Hugh W. Hadley (DD-774) shot down 23 planes including three that crashed into the ship at Radar Picket Station #15 to the northwest of Okinawa. The number of planes shot down by Hadley's gunners was a naval record for a ship in a single action. The kamikaze attacks over a period of one hour and 40 minutes resulted in 30 deaths and 121 wounded among the Hadley crew. The destroyer Robley D. Evans (DD-552), which fought with Hadley at the same picket station, shot down another 19 Japanese aircraft during the mass kamikaze attack.

 As the kamikaze with 40mm shells streaking into it dove towards the ship's deck, he released a small bomb. The bomb made a direct hit on the portside 40mm (44 mount) and the plane crashed into the deck just aft of the quad 40mm (43 mount) on the starboard side. When the bomb hit the base of the 44 mount, the entire gun just disappeared out to sea. Nothing was left of the mount or most of the men manning it. The plane penetrated the after deck house of the starboard quad 40mm and destroyed the officer quarters below. Flaming gasoline sprayed crewmen on nearby guns. Fires raged and magazines were exploding sending shrapnel through any man who was in the way.

 Kamikaze Destroyer: USS Hugh W. Hadley (DD774)
by Jeffrey R. Veesenmeyer
Merriam Press, 2014, 320 pages

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Hugh W. Hadley DD-774

特攻機3機命中の他

第八神風桜花特別攻撃隊3機の内 高野次郎中尉 金沢高工 予備学生13期突入
「神雷部隊始末記」
 

 

沖縄戦と特攻 

 

4月1日、大本営では「昭和二十年度前期陸海軍戦備ニ関スル申合」が行われ、

「陸海軍全機特攻化」が決定された。同日、連合国軍は沖縄本島に上陸を開始した。

 

4月6日正午、海軍の特攻作戦「菊水一号作戦」と陸軍の作戦「第一次航空総攻撃」が発令された。4月6日海軍特攻隊は291名が出撃戦死、陸軍特攻隊は63名が出撃戦死。

 

5月5日沖縄の陸軍地上部隊は総攻撃をかけた。5月3-9日海軍菊水5号作戦152名特攻戦死、陸軍第六次航空総攻撃178名特攻戦死

 

5月8日ドイツ軍降伏

 

5月11日海軍菊水6号作戦15日までに153名特攻出撃戦死、陸軍第7次航空総攻撃14日までに47名特攻出撃戦死

 

5月27日陸軍地上部隊首里撤退、海軍菊水8号作戦、陸軍第九次航空総攻撃

 

6月23日日本の沖縄守備軍最高指揮官牛島と参謀長の長が、摩文仁の軍司令部で自決

 

6月25日大本営沖縄本島における組織的な戦闘の終了を発表

 

4-6月特攻戦死者数

           4月    5月   6月       合計

 特攻戦死者数 海軍  1041   437    99        1577

        陸軍    433           511           162       1106

                          合計        1474           948           261          2683

陸海軍全特攻隊戦死者4060名の内66%が沖縄特攻

実際には沖縄戦前後でも沖縄方面での特攻はあったので、これより沖縄戦関連の特攻数は大きくなる。尚、全特攻戦死者数は数え方で変わる

 

沖縄戦 日本側人的損害 約20万人(内民間沖縄県人9万人以上)

    米側人的損害 死者約2万人戦傷者約5万人

両国にとって第二次世界大戦で最大の被害を出した戦闘であった

 

「きけわだつみのこえ」に収録されている学徒の内、沖縄戦での特攻隊員は

 

 市島保男
(1)大正十一年一月四日(2)神奈川県(3)早稲田大学第二高等学院をへて、昭和十七年早稲田大学商学部進学(4)昭和十八年十二月横須賀海兵団入団(5)昭和二十年四月二十九日第五昭和特別攻撃隊員として、沖縄東南海上にて戦死、海軍大尉、二十三歳

四月二十四日
ただ命を待つだけの軽い気持である。
隣の室で「誰か故郷を思わざる」をオルガンで弾いている者がある。平和な南国の雰囲気である。徒然(うれづれ)なるままにれんげ摘(つ)みに出掛けたが、今は捧げる人もなし。梨の花と共に包みわずかに思い出を偲(しの)ぶ。夕闇の中をバスに行く。
隣りの室では酒を飲んで騒いでいるが、それもまたよし。俺は死するまで静かな気持でいたい。人間は死するまで精進しつづけるべきだ。まして大和魂(やまとだましい)を代表する我々特攻隊員である。
その名に恥じない行動を最後まで堅持したい。私は自己の人生は人間が歩(あゆ)み得る最も美しい道の一つを歩んで来たと信じている。精神も肉体も父母から受けたままで美しく生き抜けたのは神の大なる愛と私を囲んでいた人々の美しい愛情の御蔭であった。今限りなく美しい祖国に我が清き生命を捧げ得る事に大きな誇りと喜びを感ずる。

 

大塚晟夫

(1)大正11年3月23日(2)東京都(3)中央大学専門部(4)昭和18年12月9目海軍入団(5)昭和20年4月28日沖縄嘉手納沖にて第三草薙隊特攻隊員として戦死、海軍少尉候補生、23歳

昭和20年4月21日

はっきり言うが俺は好きで死ぬんじゃない。何の心に残る所なく死ぬんじゃない。国の前途が心配でたまらない・いやそれよりも、父上、母上、そして君たちの前途が心配だ.心配で心配でたまらない・皆が俺の死を知って心定まらず悲しんでお互いにくだらない道を踏んで行ったならば俺は一体どうなるんだろう。

皆が俺の心を察して今まで通り明朗に仲良く生活してくれたならば俺はどんなに嬉しいだろう。

君たちは三人とも女だ。これから先の難行苦行が思いやられる。しかし聡明な君たちは必ずや各自の正しい人道を歩(あゆ)んでゆくだろう。

俺は君たちの胸の中に生きている。会いたくば我が名を呼び給え。

 

4月25日

今朝は水らしくも曹長五時半に起きて上半身裸体となって体操をした.誠に気持ちがよい.

白木の箱には紙一枚しか入っていないそうだが本当かな。髪の毛か爪を贈ろうと思うのだが生憎昨日床屋へ行ったし、爪もつんでしまった。しまったと思うがもう遅い。こういうものは一朝一夕には出来ないからな。

 俺は断っておくが、墓なんか要らないからな。あんな片苦しいものの中へ入ってしまったなら窮屈(ぎゆうくつ)でやり切れない。俺みたいなバガボンドは墓は要らない。父上や母上にその事をよろしく言ってくれ。

人間の幸福なんてものはその人の考え一つで捉えることが出来るものだ。俺が消えたからとて何も悲しむ事はない。俺がもし生きていて、家の者の誰かが死んでも俺はかえって家のために尽そうと努力するだろう。

4月28日

今日は午前六時に起きて清(すがすが)々しい山頂の空気を吸った。朝気の吸い納(おさ)めである。

今日やる事は何もかもやり納めである。搭乗員整列は午後二時、出発は午後三時すぎである。

書きたいことがあるようでないようで変だ。

どうも死ぬような気がしない。ちょっと旅行に行くような軽い気だ。鏡を見たって死相などどこにも表われていない。

 

この日、第三草薙隊は第二国分基地から10機の250kg爆弾装備九九式艦上爆撃機(複座)で出撃。

隊員20名の内訳 海兵 1名 予科練 4名 予備学生・生徒 15名

中大2、鹿児島高農、東大、武徳会専、小樽高商、明大、早大3、三重高農、東農大、

東亜専、西南学院、慶大

陸軍は

都城東より第61振武隊が四式戦で7名

知覧より第67・76振武隊が97式戦で12名、徳之島より第77振武隊が8名、

万世より第102振武隊1名、知覧より第106振武隊白虎隊6名、台中より誠第34飛行隊

四式戦4名、宮古より誠第116飛行隊九七式戦2名、桃園より誠第119飛行隊二式戦4名

宜蘭より三式戦4名が出撃戦死

 

米軍損傷は

駆逐艦 Wadsworth(DD-516), Daly (DD-519), Twiggs (DD-591), Bennion (DD-662)

            Brown (DD-546)

掃海艇 Butler (DMS-29) High Speed Minesweeper

LCI-580(歩兵揚陸艦

傷病者輸送船Pinkney (APH-2) 戦死35名 負傷者12名

病院船 Comfort (AH-6) 戦死30名 負傷48名

 

 

 

佐々木八郎
(1)大正12年3月7日(2)東京都(3)第一高校をへて、昭和17年4月東京大学経済学部に入学(4)昭和18年12月9日海軍入団(5)昭和20年4月14日沖縄海上で昭和特攻隊員として戦死、23歳

 

『愛』と『戦』と『死』
宮沢賢治作。“烏の北斗七星"に関聯してー
宮沢賢治はその生い立ち、性格から、その身につけた風格から、僕の最も敬愛し、思慕する詩人の一人であるが、彼の思想、言葉をかえて言えば彼の全作品の底に流れている一貫したもの、それがまた僕の心を強く打たないではおかないのだ。『世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない。』という句に集約表現される彼の理想、正しく、清く、健やかなもの1人間の人間としての美しさへの愛、とても一口には言いつくせない、深味のある、東洋的の香りの高い、しかも暖か昧のこもったその思想、それが、いつか僕自身の中に育くまれて来ていた人間や社会についての理想にぴったりあうのである。そして右に写した、"烏の北斗七星〃という童話の中に描き出された彼の戦争観が、そのままに僕の現在の気持を現しているといえるような気がするので、ここにその全文を書き写した次第なのである。僕は一時"烏"という異名を頂戴した事がある。そして今は海軍航空に志願している。そんなつまらない所まで似ているかも知れないが、次に宮沢賢治の“烏と北斗七星"における戦争観を敷衍して僕の今の気持を記して見よう。
副次的要素としては、大尉と砲艦のリーベも僕の現在に縁がないでもないが、それはここでは省略する、僕の最も心を打たれるのは、大尉が“明日は戦死するのだ"と思いながら、”わたくしがこの戦に勝つことがいいのか、山烏の勝つ方がいいのか、それはわたくしにはわかりません。みんなあなたのお考えの通りです。わたくしはわたくしにきまったように力一ぱいたたかいます。みんな、みんな、あなたのお考えの通りです。"と祈る所と、山烏を葬りながら“ああ、マジエル様、どうか憎むことのできない敵を殺さないでいいように早くこの世界がなりますように、そのためならば、わたくしのからだなどは何べん引裂かれてもかまいません“という所に見られる“愛”と、“戦”と、“死”という問題についての最も美しい、ヒューマニスティクな考え方なのだ。人間として、これらの問題に当たる時、これ以上に人間らしい、美しい、崇高な方法があるだろうか。そして、本当の意味での人間としての勇敢さ、強さが、これほどはっきりと現れている情景がほかにあるだろうか。(後略)

 

4月14日鹿屋基地出撃 第一昭和隊 零戦21型250kg爆弾装備 10名

内訳 海兵 1名 予科練 1名 

予備学生 8名 二松学舎、盛岡高工、東京三師範、東大、法大2、日大、早大

 

陸軍

喜界島より 第29振武隊一式戦 2名 出撃戦死

 

米軍損傷艦艇

戦艦  ニューヨークNew York (BB-34)

駆逐艦 Sigbee (DD-502) 戦死22名 負傷74名 Dashiell (DD-659) Hund (DD-674)

 

 

杉村裕
(1)大正12年2月26日(2)東京都(3)東京高校をへて、昭和17年九月東京大学法学部政治学科に入学(4)昭和18年12月9日武山海兵団に入団(5)昭和20年7月10日北海道千歳航空基地にて特攻訓練中戦死、海軍中尉

 

長谷川信
(1)大正11年4月12日(2)福島県(3)昭和17年明治学院高等部に入学(4)昭和18年12月入営、陸軍特別操縦見習士官(5)昭和20年4月12日武陽特別攻撃隊員として沖縄にて戦死、陸軍少尉、23歳

 

昭和19年4月20日(陸軍飛行学校にて)
弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をば遂ぐるなりと信じて念仏申さんと思い立つ心。
単純なるもの、は美しい
素朴なるもの、は美しい
純真なるもの、は美しい
おおらかなるもの、は美しい
編上靴(へんじようか)の配給を受くる時、自分の飯を貰(もら)う時、腹が減って飯を前にした時、人問の姿や表情は一変する。明日から食堂に行って食卓に坐る時、お念仏をしようと思う。あのいやな眼附を自分もしていると思ったらゾーッとする。眼を晦って、お念仏しようと思う。

 

 1月18日
歩兵の将校で長らく中支の作戦に転戦した方の話を聞く。
女の兵隊や、捕虜の殺し方、それはむごいとか残忍とかそんな言葉じゃ言い表わせないほどのものだ。
俺は航空隊に転科したことに、一つのほっとした安堵を感じる。つまる所は同じかも知れたいが、直接に手をかけてそれを行わなくてもよい、ということだ。
人間の獣性というか、そんなものの深く深く人間性の中に根を張っていることを沁々と思う入間は、人間がこの世を創った時以来、少しも進歩していないのだ。
今次の戦争には、もはや正義云々の問題はなくただただ民族間の憎悪の爆発あるのみだ。
敵対し合う民族は各々その滅亡まで戦を止めることはないであろう。
恐しきかな、あさましきかな
人類よ、猿の親類よ。

 

 

 

林市造
(1)大正11年2月6日(2)福岡県個福岡高校をへて、昭和17年10月京都大学経済学部に入学(3)昭和18年12月10日海軍入団(4)昭和20年4月12日第二七生特攻隊員として沖縄にて戦死、海軍少尉、23歳

 

元山より母堂へ最後の手紙
お母さん、とうとう悲しい便りを出さねばならないときがきました。
親思う心にまさる親心今日のおとずれ何ときくらん、この歌がしみじみと思われます。
ほんとに私は幸福だったです。我ままばかりとおしましたね。
けれどもあれも私の甘え心だと思って許して下さいね。
晴れて特攻隊員と選ばれて出陣するのは嬉しいですが、お母さんのことを思うと泣けて来ます。
母チャンが私をたのみと必死でそだててくれたことを思うと、何も喜ばせることが出来ずに、安心させることもできずに死んでゆくのがつらいです。

私は至らぬものですが、私を母チャンに諦めてくれ、ということは、立派に死んだと喜んで下さいということはとてもできません。けど余りこんなことはいいますまい。
母チャンは私の気持をよくしっておられるのですから。
婚約その他の話、二回目にお手紙いただいたときはもうわかっていたのですがどうしてもことわることができませんでした。また私もまだ母チャンに甘えたかったのです。あ頃の手紙ほどうれしかったものはなかったのです。一度あってしみじみと話したかったのですが、やはりだかれてねたかったのですが、門司が最後となりました。この手紙は出撃を明後日ひかえてかいています。ひょっとすると博多の上をとおるかもしれないのでたのしみにしています。かげながらお別れしようと思って。
千代子姉さんにもお会い出来ず、お礼いいたかったのですが残念です。私が高校をうけるときの私の家のものの気づかいが宮崎町の家と共に思いだされて来ます。
母チャン、母チャンが私にこうせよといわれた事に反対してここまで来てしまいました。私として希望どおりで嬉しいと思いたいのですが、母チャンいわれるようにした方がよかったなあと思います。
でも私は技量抜群として選ばれるのですからよろこんで下さい。私たちぐらいの飛行時間で第一線に出るなんかほんとは出来ないのです。
選ばれた者の中でも特に同じ学生を一人ひっぱってゆくようにされて光栄なのです。
私が死んでも満喜雄さんがいますしお母さんにとっては私の方が大事かも知れませんが一般的にみたら満喜雄さんも事をなし得る点において絶対にひけをとらない人です。
千代子姉さん博子姉さんもおられます。たのもしい孫もいるではありませんか。私もいつも傍にいますから、楽しく日を送って下さい。お母さんが楽しまれることは私がたのしむことです。お母さんが悲しまれると私も悲しくなります。みんなと一緒にたのしくくらして下さい。
ともすれぱずるい考えに、お母さんの傍にかえりたいという考えにさそわれるのですけど、これはいけない事なのです。洗礼を受けた時、私は『死ね』といわれましたね。アメリカの弾にあたって死ぬより前に汝を救うものの御手によりて殺すのだといわれましたが、これを私は思い出しております。すべてが神様の御手にあるのです。神様の下にある私たちには、この世の生死は問題になりませんね。
エス様もみこころのままになしたまえとお祈りになったのですね。私はこの頃毎日聖書をよんでいます。よんでいると、お母さんの近くにいる気持がするからです。私は聖書と讃美歌と飛行機につんでつっこみます。それから校長先生からいただいたミッションの徽章と、お母さんからいただいたお守りです。

結婚の話、なんだかあんな人々をからかったみたいですがこんな事情からよろしくお断
りして下さい。意志もあったのですから(ほんとに時間があったら結婚して母さんを喜ば
してあげようと思ったです〉
許して下さい、とこれはお母さんにもいわねばなりませんが、お母さんはなんでも私のしたことはゆるして下さいますから安心です。
お母さんは偉い人ですね。私はいつもどうしてもお母さんに及ばないのを感じていました。
お母さんは苦しいことも身にひきうけてなされます。私のとてもまねのできない所です。
お母さんの欠点は子供をあまりかわいがりすぎられる所ですが、これはいけないというのは無理ですね。私はこれがすきなのですから。
お母さんだけは、また私の兄弟たちはそして私の友達は私を知ってくれるので私は安心して征けます。
私はお母さんに祈ってつっこみます。お母さんの祈りはいつも神様はみそなわして下さいますから。
この手紙、梅野にことづけて渡してもらうのですが、絶対に他人にみせないで下さいね。やっぱり恥ですからね。もうすぐ死ぬということが何だか人ごとのように感じられます。いつでもまたお母さんにあえる気がするのです。あえないなんて考えるとほんとに悲しいですから。

 

第二七生隊 4月12日1304 鹿屋基地 零戦21型 250kg爆弾装備 17名

海兵 1名 予備学生16名

明大、京大3,日大2,台北大2、京城大、立命館大、九大、早大、法大、立大、

東亜同大、東大

 同日発進したのは

第三神風桜花特別攻撃隊 他

 

 林憲正
(1)大正八年十一月(2)愛媛県(3)松山高商をへて、昭和十六年慶応大学経済学部入学、十八年九月卒業(4)昭和十八年九月三重航空隊に入隊(5)昭和二十年八月九日神風特攻隊員として本州東方海面にて戦死、海軍中尉、二十五歳

 

六月三十日
朝起きて見ると雨。もっと眠られることがうれしくてまた毛布をかぶった。七時すぎ起きておそい朝食を終え兵舎で艦型識別の幻灯をやった。今それを終えて私室へかえりレコードかけながらこれを記している。隣では床へ毛布を引いて上大迫、山辺、手島、那須がブリッジに興じている。窓外は相変らず霧雨。
私は凡てどうすることも出来ぬ。
私はまことに近い将来にこの世から去らねばならぬのであるから。
私は早く戦争に行きたい。私は早く死にたい。江口にこういわしめ私をもまたそんな気持に駈り立て更に我々学徒出身の搭乗員を凡てそんな心境に追い込んで行った海軍の伝統精神、あるいはその党派性を私は有難く思う。

 

雲ながるる果てに  戦没海軍飛行予備学生の手記」収録の特攻戦死者

 

植村真久 立教大学   昭和19/10/26 大和隊 10/26 比島方面 学徒特攻二人目
吹野(框)京都大学 20/1/6 旭日隊 比島方面

 

以下は昭和20年1945年 4月、5月、6月の沖縄戦特攻戦死者

清水正義 慶応義塾大学 第三御盾隊 菊水一号作戦 20/4/6戦死
山田鉄雄 立教大学 第一護皇白鷺隊 20/4/6
福知貴  東京薬学専門学校 第210部隊零戦隊 20/4/11
伊熊次郎 日本大学 同上
鹿野茂  中央大学 草薙隊 20/4/28
旗生良景 京都大学 八幡神忠隊 20/4/28
山下久夫 関西大学 第二正統隊 20/4/28
市島保男 早稲田大学 第五昭和隊 20/4/29
中西斎季 慶応義塾大学 神雷部隊第九建武隊 20/4/29
本川譲治 慶応義塾大学 菊水雷桜隊 20/5/11
飯沼孟  横浜専門学校 第二魁隊 20/5/11
安則清三 旅順師範学校 第七昭和隊 20/5/11 空母バンカーヒル突入
古川正崇 大阪外国語学校 振天隊 20/5/29
溝口幸次郎 中央大学 神雷第一爆戦隊 20/6/22

 

以下は8月特攻戦死

林憲正  慶応義塾大学 第七御盾隊第二次流星隊 20/8/9
小城亜細亜 立教大学 第四御盾隊 20/8/13

 

 

航空母艦


太平洋戦争以前、海軍主力は戦艦であった。

日本軍による真珠湾攻撃以来、日米ともに制空権なくして勝利はなく、飛行機を搭載した航空母艦が主力艦となった。 艦艇に突入する特攻の主たる目標は航空母艦であった。

 

  「一機一艦撃沈」と日本軍では言われることになったが、特攻を開始した時には、撃沈が困難であることは認識あり、航空母艦の飛行甲板が一ヶ月でも使用できなくなれば、その間に戦況を挽回するという考えだった。しかし、最初の特攻で空母セント・ローを一発の爆弾と一機の特攻で撃沈してしまったので、「一機一艦撃沈」となってしまった。しかし、セント・ロー以外に撃沈された航空母艦ビスマルクシーのみ。

 

とは言え特攻隊は多数の飛行機と乗組員を搭載した航空母艦を突入目標とすることに変わりなく、特攻機が突入した数は駆逐艦が多いものの、大きな戦果を挙げたのは航空母艦に対してであった。米軍は航空母艦を守るためにレーダーを装備した多数の駆逐艦を前方に配置し、レーダーピケと呼ばれる防御網を張った。空母に搭載する飛行機の中で迎撃機の比率を高くし、日本軍機が接近するのを事前につかみ、友軍機を発進させて、待ち伏せした。これに撃ち落とされる日本軍機も多く、また駆逐艦に突入せざるを得ない特攻機が多数あったのだ。

 

特攻による損傷・沈没艦(連合軍側の記録)

戦艦          19  隻 

空母          47

駆逐艦     169

巡洋艦       19

その他     149

合計        407(この内沈没したのは51隻)

 

特攻によって戦死者100名以上の甚大な被害を受けた米航空母艦

 

1)1944年10月25日10時52分 第一神風特攻敷島隊 突入

護衛空母セント・ロー St.Lo(CVE-63)   Casablanca class escort carrier 沈没

戦死者143名 負傷者370名

 

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2)1944年10月26日00時38分 第一神風特攻敷島隊 突入 大破
護衛空母スワニー Suwannee(CVE-27) escort carrier
戦死者100名 負傷者170名

 

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3)1945年1月21日 台湾南東沖
空母タイコンデロガ Ticonderoga(CV-14)  大破 
戦死者143名 負傷者202名

 12時すぎに特攻2機命中

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この日、タイコンデロガ以外に駆逐艦マドックスdestoryer Maddox (DD-731、戦死者10名・負傷者30名), 軽空母Langley (CVL-27)にも正午過ぎ特攻突入、損傷を与えた。

 

特攻隊は台湾台南基地から12時前に海軍の特攻隊7機が出撃した。

 

新高隊 彗星(乗員2名/機)5機 爆装500㎏ 

西田幸三中尉 海兵72期 高島陸人少尉 宮崎高農13期 宮野健次郎二飛曹 丙飛16

新田四郎二飛曹 甲飛11期 平井孝二少尉 日大13期 杉山喜一郎一飛曹 乙飛17期

山下信博飛長 丙飛17期 沢田光雄一飛曹 乙飛17期 福島昇飛長 丙飛17期

安留亀市一飛曹 甲飛11期 

 

第一航空艦隊零戦隊 零戦2機 爆装250㎏

堀口吉秀少尉 函館高水13期 藤波良信飛長 特乙1期

 

 堀口吉秀(函館高水、三重県)は、館山の州崎海軍航空隊の戦闘三一七飛行隊にいた。

彼は要務飛行のため、一月中旬、台南基地に飛ぶことになったが、沖縄方面には敵艦載機が時々来襲するので針路を変更して上海経由で台南基地についた。そして、要務飛行の責任を果たして、内地に帰るばかりになっていたとき、たまたま敵の機動部隊の動きが活発になってきていたので、司令から、「敵の機動部隊に特攻をかけてくれないか」と懇願されたという。

熱血漢の堀口吉秀は、飛行科予備学生の出身者らしく、「ハイ、やります」と、なんの躊躇することもなく引き受け、飛行長より特攻の要領を聞き、そのまま突っ込んだというのである。

この話を裏づけるように、台南基地から爆戦(零戦に爆装)特攻隊が出撃したのは、前にも後にも、堀口少尉たちの二機だけである。

のちに彼がいた戦闘三一七飛行隊は、神風特別攻撃隊大義隊を編成し、酒井正俊が第一大義隊六機の指揮官として四月一日の午前六時四十五分、伊藤喜代治が第二大義隊七機の指揮官として、四月二日の午前六時四十五分、ともに石垣島基地より出撃している。

普通なら、堀口たちの特攻隊にも、当然なんらかの名称が命名されるはずなのに、あまりにも急であったため、特攻隊の命名式もなく零戦で出撃した模様である。

「海軍飛行科予備学生」より

 

4)1945年2月21日 硫黄島 
護衛空母ビスマーク・シー Bismarck Sea(CVE-95) escort carrier 沈没
戦死者318名 負傷者99名

 特攻による2隻の撃沈空母の一隻

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5)1945年2月21日 硫黄島
空母サラトガ Saratoga(CV-3)  大破
戦死者123名 負傷者192名

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2月21日硫黄島沖で特攻機が突入したのは護衛空母ビスマルクシーと正規空母サラトガ以外に防潜網輸送艦キーアカック、戦車揚陸艦LST-477, 809にも損傷を与えた。

 

米軍は航空母艦8隻、艦載機1200機、戦艦6隻、巡洋艦15隻、駆逐艦17隻が集結し、硫黄島の日本軍に対し2月16日からまず猛烈な艦砲射撃 を開始した。地下坑道に隠れた日本軍はこれに耐え、上陸してきた米海兵隊と激戦となった。日本兵18000名は全滅したが、米軍も約7000名が戦死した。2月21日千葉県香取基地を出撃した第二御盾隊は八丈島で燃料を補給し、硫黄島沖の米軍艦隊に特攻突入した。

 

第二御盾隊で突入戦死したのは

彗星(乗員2名/11機/22名)直掩零戦(5機/5名)天山(乗員3名/6機/18名)

特別攻撃隊の記録 海軍編」による

 

青木(旧姓岩下)泉蔵氏(直掩機指揮)によると出撃したのは32機60名

第一・第二・第三攻撃隊 各彗星500㎏爆装4機+各直掩零戦4機

第四(800㎏爆装)・第五攻撃隊(雷装) 各天山4機

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「図解特攻のすべて」より

空母には第一攻撃隊、大型空母には第五攻撃隊が突入としている。

 

以下「特別攻撃隊 海軍編」より

 第一攻撃隊 隊長兼指揮官 村川弘大尉 海兵70期 原田喜太男飛曹長 甲飛2期

  田中武夫一飛曹 丙飛10期 幸松正則上飛曹 乙飛16期

  青木孝充上飛曹 丙飛10期 木下茂少尉 関大予備学生13期

  小石政男上飛曹 甲飛9期 戸倉勝二上飛曹 乙飛16期

第二攻撃隊 隊長 飯島晃中尉 海兵72期 以下省略

第三攻撃隊、第四攻撃隊 省略

第五攻撃隊

隊長櫻庭正雄中尉海兵72期 村井明夫上飛曹 甲飛9期 窪田高市上飛曹 乙飛16期 桿田一幸一飛曹 丙飛13期 中村伊十郎上飛曹 乙飛16期 竹中友男二飛曹 乙飛18期

佐川保男少尉 香川師範13期 岩田俊雄上飛曹 乙飛13期 小山良和二飛曹 乙飛18期

(櫻庭正雄中尉は「特別攻撃隊 海軍編」では桜場となっている)

www.naniwa-navy.com


6)1945年3月11日 ウルシー
空母ランドルフ Randolph(CV-15)  大破
戦死者34名 負傷者125名

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USS Randolph修理中


ウルシー環礁は比、台湾、沖縄からほぼ等距離にあり米軍の重要な艦艇補給基地であった。

この日、海軍菊水部隊梓特別攻撃隊 銀河(乗員3名爆装800kg)24機が0910鹿屋基地を出撃、0925誘導のため二式大艇5機(乗員12名/機)が鹿児島基地を出撃した。黒丸隊長機が出発したのは0850。追い風のために出発を一時間繰り下げた。ウルシーまでは約3000km。次々と機体不良で落伍し、鹿屋出発から8時間後ウルシーへ到達したのは15機。1750日没。ウルシーまで30分の飛行距離であるヤップ島を目印にしていたが、1830になっても二式大艇はヤップ島を発見できず、大艇から攻撃隊は離れて進軍した。環礁に到着した時、すでに日没で米軍は灯火管制にあり、黒丸隊長は

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二式大艇

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双発爆撃機銀河

艦艇を探し回ったが見つからず4機をつれてヤップ島に不時着した(1機は墜落)。特攻機は1機のみではあったが一瞬、友軍艦艇のサーチライトに照らされた空母ランドルフに突入した。

 

銀河の巡航速度は時速370km(最高速度546km)に対し二式大艇の巡航速度は296km(最高速度454km航続距離7000-8000km)はるか洋上の敵に近づくには大艇の偵察攻撃能力が必要だったがスコールや敵輸送船団回避などもあり貴重な時間を浪費した

 

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ウルシー在泊の空母群を足止めし、航空部隊の回復を狙った作戦は失敗した。米空母群は沖縄戦の準備の為、日本近海まで進軍し、九州四国の爆撃を行う。これを率いたのはマークミッチャー中将で、空母ランドルフへの特攻突入をウルシーで見ていたが、日本近海でも猛烈な特攻攻撃に会う。

 

 

 

7)1945年3月19日 室戸沖
空母ワスプ Wasp(CV-18)  大破
戦死者101名 負傷者269名

www.youtube.com

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USSWasp1945/3/19

 1945年3月18日、ワスプを含む空母12隻を基幹とするマーク・ミッチャー中将率いる第58機動部隊の艦上機約1,400機が、第5艦隊司令長官レイモンド・スプルーアンス大将による指揮のもと日本近海に現れ、九州、四国、和歌山などの各地域を襲った。これに対して日本軍は、宇垣纏海軍中将率いる第五航空艦隊(指揮下の陸軍飛行戦隊2個に属する四式重爆撃機「飛龍」を含む)が反撃を開始し、九州沖航空戦が始まった。神風特別攻撃隊を含めた日本軍機の攻撃で、空母イントレピッド、ヨークタウン、エンタープライズが小破した。しかしこの日、日本軍は特攻機69機を含む攻撃部隊全193機のうち、約8割である161機を失い、このほか50機が地上で損傷を受けた。さらにアメリカ軍機を迎撃した零式艦上戦闘機も47機の損害を出した。米軍機の損害は29機撃墜、2機損傷にとどまった。
翌3月19日、機動部隊の一部は室戸岬のおよそ80キロ沖にまで接近した。艦上機部隊は主に瀬戸内海を空襲し、呉軍港に停泊中の日本の水上艦艇の一部を損傷させた(呉軍港空襲)。これに対し日本軍は、特攻隊を交えた出撃可能な全航空兵力をもって激しく反撃。室戸岬に最も近づいていたフランクリンとワスプは爆撃を受け大破した。ワスプには1発の250kg爆弾が命中して格納庫を貫通し居住区で爆発し、艦載機の航空燃料が下層甲板に流れ出して大火災が発生し、101名が死亡、死傷者の合計は約370名にのぼった。wikipedia 

 

3月18日出撃海軍特攻隊戦死者 

 菊水部隊彗星隊 第一国分基地出撃 

九州東方に来攻の機動部隊(第一次攻撃隊) 0613-0658

彗星10機(乗員20名)爆装500kg

直掩零戦 2機(乗員2名)

 

九州南東機動部隊(第二次攻撃隊) 1045-1150 (第三次攻撃隊)1350-1420
彗星8機(乗員16名)爆装500kg
直掩零戦 1機(乗員1名)

 

菊水部隊銀河隊 築城基地出撃 0628-0710

九州東方機動部隊 

銀河5機(乗員15名)特攻隊最小年齢16歳の一人、西山典郎二飛曹 甲飛12期を含む

鹿屋基地出撃 0440

銀河2機(6名)爆装800kg

大分基地出撃 0440

銀河1機(3名)雷装

 

3月19日出撃海軍特攻隊戦死者

菊水部隊彗星隊

第一国分基地出撃 九州南東の機動部隊 (第四次攻撃隊)545-715

彗星8機(16名)爆装500kg

 

第二国分基地出撃 九州南東の機動部隊(第五次攻撃隊) 928-953
 彗星3機(6名)爆装500kg

 

出水基地出撃  九州東方の機動部隊 0420-0705

銀河5機(15名)爆装800kg4機 雷装1機

 

3月18日と19日の特攻戦死は45機(100名)、これ以外に通常攻撃もあったはずだが

http://www.navsource.org/Naval/1945.htm 米海軍記録1945によると

3/18 Sun.

Aircraft from fast carrier task force (Vice Adm. M. A. Mitscher) bomb airfields on Kyushu, Japan. Army troops are landed on southeast coast of Panay, P. I., by naval task group (Rear Adm. A. D. Struble) under cover of cruiser and destroyer gunfire.
United States naval vessels damaged:
Carrier ENTERPRISE (CV-6), by horizontal bomber,off Kyushu, Japan,
30 d. 50'N., 133 d. 42'E.
Carrier YORKTOWN (CV-10), by horizontal bomber, off Kyushu, Japan,
30 d. 40'N., 133 d. 49'E.
Carrier INTREPID (CV-11), by suicide plane and  accidentally by United States naval gunfire, off Kyushu, Japan, 30 d. 47'N., 133 d. 50'E.

3/19 Mon.

Aircraft from fast carrier task force (Vice Adm. M. A. Mitscher) bomb airfields on Kyushu, and shipping at Kure and Kobe, Honshu, Japan.
United States naval vessels damaged:
Carrier ESSEX (CV-9), accidentally by United States naval gunfire, off Shikoku, Japan,
32 d. 10'N., 134 d. 20'E.
Carrier FRANKLIN (CV-13), by horizontal bomber, off Kyushu, Japan,
32 d. 01'N., 133 d. 57'E.
Carrier WASP (CV-18), by dive bomber, off Shikoku, Japan,
32 d. 16'N., 134 d. 05'E.

6隻の空母に被害あり、空母ワスプは急降下爆撃によるとなっており、特攻によるものは18日の空母イントレピッドのみ

 

18日/19日に特攻戦死した菊水隊100名には

1943年入隊の予科練甲飛12期、丙飛16期、特乙が14名含まれている。入隊から2年足らず、最年少16歳から18歳程度と想像される。

14名が予備学生13期(1943年入隊)出身。

海兵69から72期(1941から1943年卒業)7名。

残りはほとんどが予科練出身の若者である。

 

8)1945年5月11日 沖縄 

第七昭和隊 安則盛三中尉(旅順師範予備学生13期) 及び 

小川清中尉 (早稲田大学予備学生14期)

鹿屋基地より零戦52型爆装500kg爆弾にて第7昭和隊4機と共に出撃突入 
空母バンカーヒル Bunker Hill(CV-17) 大破 
戦死者402名 負傷者264名(航空特攻による最大の犠牲者数)

 

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小川清

安則盛三辞世             「雲流るる果てに」p247

  はらからが五人そろって旗のもと

    一足先に4男坊征く 

 

 

航空母艦以外で戦死者100名以上の犠牲を出した米軍艦艇

1944年12月11日

駆逐艦レイド destroyer Reid (DD-369)

戦死者150名 負傷者不明

第一金剛隊隊長鈴木清中尉 零戦11機 内4機命中

 

1944年12月13日jネグロス島

軽巡ナッシュビル light cruiser Nashville (CL-43)

戦死者133名 負傷者190名

九九式艦爆命中

 

1945年5月4日

駆逐艦モリソン Morrison DD-580 戦死者152   負傷者102

駆逐艦ルース Luce DD-522   戦死者150   負傷者94

 

兵員輸送

1944年11月12日 レイテ
商船ジェレミア・M デイリ Jeremiah M. Daily (Liberty)
戦死者106名 負傷者43名

1944年11月12日 レイテ
商船トマス・ネルソン Thomas Nelson (Liberty)
戦死者136名 負傷者88名

 

 

以下主に「特攻 空母バンカーヒルと二人のカミカゼ」マクスウェル・ケネディーより

含写真
空母バンカーヒル Bunker Hill(CV-17)とマーク・ミッチャー大将 
 安則盛三中尉と小川清中尉がバンカーヒルに突入した時に同艦で高速空母部隊を指揮していたのはマーク・ミッチャー大将であった。彼は米国海軍生え抜き33番目のパイロットであり、空母戦闘群を使った戦略や高速空母部隊を考案した。米軍はすべての空母と海軍航空基地の司令官をパイロットから選んだ。日本の上官にはパイロット経験のない人間が多数いた。

 

米軍が勝利し、その後の戦況を決定的に変えたミッドウェーの戦いでも米軍は自ら分析反省改善した。当時依然として世界最高レベルの日本軍パイロットの急降下爆撃隊は、米空母ヨークタウンに三発の爆弾を命中、続けて雷撃隊が二本の魚雷を命中。一方米陸軍の爆撃隊は84トンの爆弾と、海兵隊雷撃隊は23トンの魚雷の一本も命中できなかった。米軍は、そこから何万人もの後進パイロットを徹底的に訓練する。当時10万人以上が訓練を受けていた。日本では数千人規模。

 

真珠湾攻撃後、米太平洋艦隊司令長官になったニミッツは戦艦はもはや時代遅れだと考えていた。日本海軍には戦艦大和や武蔵が参戦したレイテ沖海戦でも、まだ戦艦至上主義者がいた。

 

Marc Andrew "Pete" Mitscher (January 26, 1887 – February 3, 1947) was a pioneer in naval aviation who became an admiral in the United States Navy, and served as commander of the Fast Carrier Task Force in the Pacific during the latter half of World War II.

1910年アナポリス(米海軍兵学校)卒業131人中103位

当初より飛行機に興味を持ち海軍パイロット第33号

空母サラトガに初着艦

1942年4月2日空母ホーネット艦長、16機のB-25爆撃機を搭載し、ドーリットル隊長による東京空襲実施。ミッドウェーをはじめ数々の戦歴のあと、

第3空母部隊司令官から太平洋艦隊高速空母任務部隊司令官となった。任務部隊の名称、第58任務部隊。参謀長として「31ノット・バーク」ことアーレイ・バーク少将が就任。これは「主要艦隊の指揮官が水上艦出身者であれば参謀長は航空出身者、指揮官が航空出身者なら参謀長は水上艦出身者」という、1944年1月に同意された原則に基づく。

 

1945年3月11日夜、ミッチャーとバークは旗艦であった「バンカー・ヒル」(USS Bunker Hill, CV-17)の艦隊指揮所におり、バークが僚艦「ランドルフ」(USS Randolph, CV-15)を眺めていたところ、梓特別攻撃隊の銀河のうちの1機が「ランドルフ」の飛行甲板後部に命中するのを目撃した。これが初めて見る神風特別攻撃隊であり、以後何度もつきあわされることとなる

 

4月7日朝、「エセックス」(USS Essex, CV-9)の索敵機は西航する戦艦大和を旗艦とする第二艦隊を発見、ミッチャーは順次攻撃隊を発進させた、第58任務部隊機の波状攻撃により「大和」や軽巡洋艦「矢矧」、いくつかの駆逐艦が沈没し、日本海軍は事実上崩壊した(坊ノ岬沖海戦)

 

On 11 May 1945 Mitscher's flagship Bunker Hill was struck by kamikazes, knocking her out of the operation and causing much loss of life. Half of Mitscher's staff officers were killed or wounded, and Mitscher was forced to shift his command to Enterprise. Enterprise at that time was functioning as a "night carrier", launching and recovering her aircraft in the dark to protect the fleet against bomber and torpedo aircraft slipping in to attack the fleet in the relative safety of night. When Enterprise was struck by kamikaze attack as well, Mitscher had to transfer once more, this time to USS Randolph, the Essex-class aircraft carrier that had been damaged by a long-range kamikaze attack at Ulithi. Throughout this period Mitscher repeatedly led the fast carriers northward to attack airbases on the Japanese home islands. Commenting on Admiral Mitscher upon his return from the Okinawa campaign, said Admiral Nimitz "He is the most experienced and most able officer in the handling of fast carrier task forces who has yet been developed. It is doubtful if any officer has made more important contributions than he toward extinction of the enemy fleet.

5月11日、ミッチャーは「バンカー・ヒル」の艦上で、艦隊指揮所に陣取っていた。午前9時過ぎ、「バンカー・ヒル」では朝に発進した攻撃隊を収容して、午後に発進予定の攻撃隊の発艦準備を行っていた。次の瞬間、「緑色の航空機が三機」突入するのが見えた。警報を受け、ミッチャーは周囲から説得された末に鉄のヘルメットと救命胴衣を身につけ、艦隊指揮所の椅子から離れた。直後、神風特別攻撃隊第七昭和隊所属の安則
盛三中尉機は「バンカー・ヒル」の第3エレベーターより少し後の地点に爆弾を命中させ、自身も命中する。ただちに応急措置が取られたが、それから1分も経たないうちに、今度は安則と同じ神風特別攻撃隊第七昭和隊所属の小川清少尉機が飛行甲板に突入する。その場所は、艦隊指揮所から移動してきたミッチャーとバークからわずかに6メートルしか離れていない場所で、小川機の破片によりミッチャーの幕僚3名と下士官兵7名が戦死した。

 

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破壊された艦中央部

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飛行甲板に空いた穴

 

 

直撃を逃れたミッチャーは海側のキャットウォークに移り、バークは煙に巻かれた無線室から乗組員を救助したあと、ミッチャーの下に駆けつける。大破した「バンカー・ヒル」は通信手段も失われ、僚艦はミッチャーの安否すら知ることができなかった。また、突入によりミッチャーの司令官用個室と私室も粉砕され、衣類や文書もなくなってしまった。しばらくするとミッチャーは、暗くなっていたものの辛うじて残った艦隊指揮所に戻り、再び椅子に座って艦の機器の状態を調べ始めた。また、第58任務部隊の指揮をF・C・シャーマンに一時的に委譲させた。「バンカー・ヒル」は激しく炎上したが、乗組員や僚艦の決死の働きにより午後遅くには山場を越えることができたが、完全な鎮火はしていなかった。バークは生き残った幕僚を招集し、駆逐艦「イングリッシュ」(USS English, DD-696)を呼び寄せて移乗を開始する。しかし、ミッチャーは火災により飛行甲板に出られなかったので、艦橋から吊り下げ型救命ブイで「イングリッシュ」に移っていき、さらに「エンタープライズ」に移って新しい旗艦とした。

 

新たに「エンタープライズ」に将旗を翻したミッチャーではあったが、この「幸運のE」も安住の地ではなかった。5月14日、神風特別攻撃隊第六筑波隊を初めとする零戦28機が攻撃を仕掛けてくる。その多くは戦闘機と対空砲火で撃墜されたが、第六筑波隊隊長富安俊助中尉機のみは「エンタープライズ」めがけて突入してくる。突入の最後の瞬間、「エンタープライズ」では射手以外は全員甲板に伏せるよう指示されたが、富安機の突入後に幕僚が身を起こすと、ミッチャーのみ依然として甲板上で立っていた。富安機の一撃は「エンタープライズ」に再起不能の損傷を与え、その戦歴に幕を引かせる結果をもたらした。ミッチャーは再び旗艦を変更しなければならず、一旦前線から下がってから「ランドルフ」に移っていった。

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空母エンタープライズに突入する富安機

富安俊助中尉 早稲田大学予備学生14期 22歳

 5月14日鹿屋基地 第6筑波隊 零戦52型 500kg 爆装 14機出撃戦死

第8七生隊 3機も鹿屋から出撃戦死

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特攻機に突入されたエンタープライズ

5月14日、26機の日本機がTF-58目掛けて飛来してきた。6機が対空砲火で撃墜、19機が上空哨戒機によって撃墜された。だが、富安俊助中尉搭乗の1機のみは集中砲火を避けて雲に隠れ、時々雲から顔を出してエンタープライズの位置を確認しつつ生き残っていた。そして午前6時56分、この1機がエンタープライズに向かって突撃してきた。エンタープライズは富安機を20分前からレーダーで認識していたが、富安機が雲に隠れるなどしたために、効果的な反撃が出来ずにいた。エンタープライズが回頭し艦尾を向けたときに富安機は満を持して緩降下攻撃を実施。エンタープライズは右舷後方から降下してくる富安機に対して、右舷回頭して集中砲火を行なったが、富安機は機体を横滑りさせるなどして回避、オーバーシュートする寸前に艦の真上で180度に左回転し、背面飛行の状態から急降下し、前部エレベーターの後部に突入した。前部エレベーターは爆発によって400フィート(≒120m)上空まで吹き上げられ、エンタープライズの左舷海面に落下した。エンタープライズは大破炎上し、破孔からの浸水によって前部は2.2メートル沈下し、深刻な損傷を負ったエンタープライズのダメージコントロール班は即座に行動し、17分で火災の延焼を食い止めて誘爆を阻止した。被弾から30分で火災は消火され、エンタープライズは対空戦闘を継続して更に2機を撃墜、速度を落とすことなく旗艦として任務部隊の配置を守り続けた。そのダメージコントロール能力の高さにミッチャー提督はエンタープライズのダメージコントロール班が「かつて見た中で最高の優秀さ」であったと賛辞を送っている。また、これだけの大爆発にもかかわらず当時第2エレベーターを使用中だったことと、爆弾が鋼材置き場で炸裂し、弾片が飛散しなかったという幸運から戦死者数は13名に留まった。だが前部エレベーターや飛行甲板などの損傷により発着艦能力は麻痺し翌日ミッチャー提督をランドルフに移し、旗艦から外れた。そして16日に任務部隊を離脱した。富安中尉の遺体はエレベーターホールの下で発見され、アメリカ兵と同じように丁重に水葬された。 彼は海軍関係者から「これまで日本海軍が3年かかってもできなかったことを、たった一人で一瞬の間にやってのけた。」と称賛の言葉を受けた。またこの時の機体の破片は後に、軍属の二級登録板金工だったノーマン・ザフトから富安中尉の家族に返還された。この日が、エンタープライズにとっての最期の戦闘となった。ウィキペディア

エンタープライズは4月11日にも特攻攻撃を受けたが、彗星2機が突入した模様。

第一国分基地から第210部隊彗星隊2機4名、第3御盾隊4機8名が出撃戦死。


USS Enterprise (CV-6) hit twice by kamikaze - 11 April 1945

 

 

 沖縄戦の最中の5月27日、ニミッツは第5艦隊と第3艦隊の入れ替えを行い、第58任務部隊改め第38任務部隊の指揮はマケインに譲られた。沖縄戦での約2カ月間、ミッチャーはろくな休養もなく第58任務部隊を指揮し続け、また相次ぐ神風特攻隊の攻撃は、ミッチャーに少なからぬ動揺を与えていた。そのせいか、ミッチャーは体重が45キロ以下とガリガリになるほど心身を消耗し、もはや周囲の助けなしでは舷側の梯子を登ることができなかった。戦艦「ミズーリ」(USS Missouri, BB-63)での事務引継ぎの会談でミッチャーと顔を合わせたハルゼーは、「歩く骸骨のよう」なミッチャーの姿にショックを受けた。

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普通に幸福に生活してきた若者達が、なにも罪のない若者達と殺し合った。

まことに残酷な殺し合いであった。だれがそれを始めたのか。

だれが殺し合うことを命令したのか。

だれが早く止めなかったのか。やめれば殺し合わずに済んだ若者たちが次々と殺し合い死んでいった。悲しみ、苦しむ人々がその背後にいた。

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真珠湾攻撃時の保有艦艇数

     日本     米国
空母   10      8

戦艦   10(大和、武蔵建造中) 17

巡洋艦  41      37

駆逐艦 111     171 

潜水艦  64     112

 

戦争中に就役した米軍空母

正式空母 23隻

1942年12月31日就役 空母エセックス(Essex CV-9)から

1944年11月26日就役 空母Bon Homme(CV-31)まで

           レキシントン級  ヨークタウン級  エセックス級
全長(m)           270                         230-251      250-271
速力(ノット/km)     33(61)                     32.5(60.2)    32.7(60.6)
搭載機数            78                           90                          90-100

乗組員                                2791                      2217                      2631

 

インディペンデント級空母(軽空母)

ボーグ級 45隻   34隻英国海軍へ

Altamaha (CVE-6) 1942/10/31 HMS Battler(D-18)

CVE-27から30なし

Winja (CVE-54) 1944/2/18Became HMS Reaper (D82)

 

サンガモン級 4隻

Sangamon (CVE-26) 39/11/4

Santee (CVE-29) 39/3/4

 

カサブランカ級 50隻

Casablance (CVE-55) 43/7/4 就役

Munda (CVE-104)  44/7/8 

 

Commencement-Bay 級  16隻

Commencement-Bay(CVE-105)  44/11/27 就役

Mindoro (CVE-120) 1945/12/4 就役 

 

 合計188隻 内 特攻で沈没したのは2隻 (特攻以外で沈没したものあり)

 

           ボーグ級      サンガモン級 カサブランカ級      C.Bay級    

全長(m)              151      168.6       150-156                170    

速力(ノット/km)         18(33)     19(35)    19(35)             19(35)         

搭載機数                         19-24        30             27                34     

乗組員         646  680-1080          858                 1066

設計母体       C3型貨物船  T2型油槽船           新設計      (T2型油槽船)

 

カサブランカ級 

 1942年にカイザー造船所社長ヘンリー・J・カイザーが提案した30隻建造のプランによる。当初、アメリカ海軍はさほど相手にはしていなかったが、フランクリン・ルーズベルト大統領の肝いりもあって、6月に入ってカイザー造船所に50隻の建造が発注された。カイザー造船所のドックおよび船台はもともとリバティ船建造用に建設されたものだったが、やがて戦車揚陸艦の建造も手がけ、最後にカサブランカ級の一括建造に取り掛かった。1943年7月8日に一番艦の「カサブランカ」が竣工してから、最終艦の「ムンダ」がちょうど一年後の1944年7月8日に竣工するまでの間、ほぼ一週間に1隻のペースで新造航空母艦が送り出された

 

 日本の航空母艦

真珠湾攻撃 七隻 

   竣工   全長m   乗員  速力ノット 搭載機
赤城 1927/3/25  260   1630   31.2     91   1942/6/6沈没ミッドウエイ海戦221名戦死
加賀 1928/3/31  239   1270   27.5     60   1942/6/5沈没ミッドウイ海戦811名戦死
蒼龍 1937/12/29  227   1100   34.9     72   1942/6/5沈没ミッドウエイ海戦718名戦死
飛竜 1939/7/5   227   1103   34.3     73   1942/6/6沈没ミッドウエイ海戦417名戦死
瑞鳳 1940/12/27 205.5   977   28.3     30   1944/10/25沈没レイテ沖海戦216名戦死
翔鶴 1941/8/8     257.5 1660   34        77   1944/6/19沈没マリアナ沖海戦1227名戦死
瑞鶴 1941/9/25  257.5  1660   34        69   1944/10/25沈没レイテ沖海戦843名戦死

 

他に開戦時保有 一隻 

龍驤  1933/5/9 180     916         29      48        1942/8/24沈没第二次ソロモン海戦121戦死

 

真珠湾攻撃以後竣工 5隻

雲龍 1944/8/6 227.3 1561 34.3 60 1944/12/19沈没済州島沖1241名戦死
大鳳 1944/3/7 260.6 2038 33.3 53 1944/6/19沈没マリアナ沖海戦潜水艦攻撃
信濃 1944/11/19 2400 27 1944/11/29沈没潮岬沖791名戦死
葛城 1944/10/15 227.4 1500 32 53 1946/1947解体
天城 1944/8/10 227.4 1571 34 47 1945/7/28被弾転覆

 

水上機母艦潜水母艦、客船から改装 11隻

龍鳳 1942/11/30潜水母艦改装  215.7 989 26.2 31 1946/9/2呉にて解体
千歳 1943/12/15水上機母艦改装   192.5  965 29.4 計画30 1944/10/25沈没レイテ沖海戦903名戦死
千代田 1943/12/15水上機母艦改装 192.5 1084 29.5 計画28 1944/10/25沈没レイテ沖海戦総員戦死
祥鳳 1942/1/26潜水母艦改装   205.5   836 28.2 28 1942/5/7沈没珊瑚海海戦631名戦死

隼鷹 1942/5/3                              219.3 1187 25.5   53 1946解体
飛鷹 1942/7/31                            219.3  1187  25.5  53 1944/6/20沈没マリアナ沖海戦
神鷹1943/12/15客船改装    198.3  834 21 33 1944/11/17沈没済州島沖1165名戦死
海鷹 1943/11/23アルゼンチナ丸改装  166.5      587    23     24 1945/7/24触雷擱座

大鷹 1942/8/31春日丸改装     180.2     747    21     27 1944/10/10沈没ルソン島沖
雲鷹 1942/5/31八幡丸改装     180.2  747  21  27 1944/9/17沈没台湾沖1650戦死
沖鷹 1942/11/25新田丸改装   180.2  850  21   27  1943/12/4沈没八丈島

龍鳳 1942/11/30潜水母艦改装  215.7  785  26.2  31  1946解体

 

合計24隻 内20隻沈没

桜花

航空特攻には飛行機による突入以外に人間ロケット爆弾「桜花」があった。

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米軍による桜花分解図

 

長さ約6m、前頭部に1.2トン徹甲爆弾内蔵、全重量約2トン、特攻で最も多かった零戦の装着爆弾である250kgに比べて約5倍の強力な破壊力であった。

 

固体ロケットエンジン3本装着、急降下突撃状態で時速約800km。当時の戦闘機は最大時速500/600km台だったので、この速度は驚異的であり、機体も小さく敵艦に近接できれば撃ち落とすことは難しかった。

 

但し、 全燃料燃焼時間約30秒で、敵艦に一撃で突入できなければ、あとは海に突入するしかなかった。

 

桜花は独力で離陸できず敵艦近くまで運ぶために一式陸攻24型を改造し、その下部に搭載、敵艦に近づいてから投下、発進する方法をとったが、爆弾搭載量800kgで設計された一式陸攻にとって、全重量約2トンの桜花は非常に重く、桜花を搭載した一式陸攻は、離陸するのも限界ギリギリであり、敵戦闘機と遭遇すれば、速度・運動性に劣り、桜花もろとも撃墜されることが多かった。桜花搭乗員は発進前は一式陸攻の中に搭乗しており、発進前に敵から攻撃されたら、一式陸攻から桜花を無人で切り離し敵を回避すこともできた。

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桜花搭載の一式陸攻

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桜花を切り離した一式陸攻

 昭和45年3月21日から6月22日3ヶ月で55機が出撃戦死。
桜花を搭載した母機一式陸攻の乗員365名も撃墜され戦死した。合計420名戦死。

 

3月3日米軍マニラ完全占領、3月10日東京大空襲、3月17日硫黄島日本軍守備隊全滅、そして4月1日 米軍沖縄本島に上陸、6月23日に日本軍の組織的抵抗が終わるまで激戦が展開される中での突撃。

 

桜花の主たる戦果は

1945年4月12日第三桜花特別攻撃隊 大阪師範予備学生13期 土肥三郎中尉 駆逐艦Mannert L Abele(DD-733)マナート・L・エベール轟沈。戦死82名負傷32名。

一式陸攻は帰還。

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第三桜花特別攻撃隊

山田力也 一飛曹 予備練15期

         母機一式陸攻7名戦死

          中重正 二飛曹 丙飛12期          主操縦士

          鬼木俊勝二飛曹 甲飛12期        副操縦士

          佐藤正人少尉    宜蘭工業高等専門学校13期 主偵察員

          平野利秋一飛曹 丙飛13期        副偵察員

          北村数己一飛曹 乙飛17期        電信員

          橋井昭一飛長  特乙1期         攻撃員

          吉田有助飛長  特乙2期         搭乗整備員

岩下英三 中尉  桐生工業高等専門学校予備学生13期 母機不時着

鈴木武司 一飛曹 乙飛17期         母機一式陸攻7名戦死

今井道三 中尉  東京師範予備学生13期   母機一式陸攻7名戦死

(今村遉三?)

飯塚正巳 二飛曹 丙飛特11期        母機一式陸攻7名戦死

光斎政太郎二飛曹 丙飛17期         母機帰着するも6/22撃墜

朝露二郎 二飛曹 特乙1期          母機一式陸攻7名戦死

「神雷部隊始末記」「特別攻撃隊の記録」で若干差異あり

1945年4月12日1139-1232鹿屋基地を沖縄周辺に向け出撃

 

 

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USS Mannert L. Abele

同日、別の桜花が駆逐艦Stanly (DD-478)に命中、艦首を貫通し予備艦にした。

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USS Stanly(DD-478)

 

1945年5月4日第7神風桜花特別攻撃隊 山口師範予備学生13期 大橋進中尉 機雷敷設艦Shae(DM-30)に突入。同艦の戦死27名負傷91名。

 

同日駆逐艦Henry A Wiley (DD-749), 機雷掃海艇Gayety (AM-239)が桜花の攻撃を受けた。大きな損傷はなし。

 

第7神風桜花特別攻撃隊 0552-0630 鹿屋基地出撃

 大橋進中尉 山口師範予備学生13期 母機一式陸攻7名戦死

 田吉春一飛曹 特乙1         母機一式陸攻7名戦死

 中川利春一飛曹 特乙1           母機一式陸攻7名戦死

 石綿正義上飛曹 乙飛17期 母機帰着 掃海艇Gayetyに至近

 内藤卯吉上飛曹 乙飛17期   母機一式陸攻7名戦死

 上田英二上飛曹 乙飛17期   母機一式陸攻7名戦死

 

最後の突入戦果は1945年5月11日第8神風桜花特別攻撃隊の1機と3機の特攻機駆逐艦Hugh W.Hadley (DD-774)に突入、戦死28名負傷67名。沈没は免れたが大破した。

第8神風桜花特別攻撃隊 0556-0712 鹿屋基地出撃

 藤田幸保一飛曹 丙飛16期        母機一式陸攻7名戦死 

 高野次郎中尉 金沢高等工業学校 Hugh W.Hadley突入 母機一式陸攻7名戦死

 小林常信中尉 台北高等商業学校     母機一式陸攻7名戦死

         田中泰夫一飛曹  普電練66期 電信員として同乗 

         昭和3年生まれ 特攻隊員最年少16歳 20名の一人

「ドキュメント神風 下P14」によるとHadleyに突入した桜花は後部機械室と前部ボイラー室の中間付近、右舷に命中爆発。機械室とボイラー室が水浸しとなり傾斜し始める。5インチ砲は作動不能、艦全体が猛火に包まれた。士官下士官兵50名を除いて退艦したが残った将兵によって搭載魚雷を投棄、火災も鎮火した。日本軍機23機を撃墜したが、爆弾一発、水上機1機、桜花1機を含む4機が命中した。

 

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Hugh W.Hadley

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USS Hugh W.Hadley (DD-774)

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This side damage at the waterline flooded 3 engine rooms and put out all power.

 

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The 20mm gun mounts were incinerated by the third kamikaze plane.


桜花は合計4隻137名戦死という損害を与えた。

桜花55機の戦果としては特攻隊戦死1名に対し、米軍戦死2.5名/機(137/55)
一式陸攻を加えると0.3名/機(137/420)
特攻全体では特攻隊戦死1名に対し、米軍戦死1.9名/機(7620/3960)  

 

桜花1機で米軍損害隻数0.07隻/機(4/55)
一式陸攻を加えると0.04隻/機(4/105)
特攻全体特攻1機に対し米軍損害隻数0.2隻/機(407/1898)

 

同日5月11日0640 同じ鹿屋基地から出撃した第七昭和隊の安則盛三中尉と小川清中尉の爆装500㎏零戦52型2機は空母バンカーヒル Bunker Hill (CV-17)に突入、大破。戦死402名、負傷者264名という戦果を挙げた。これは特攻の中で最大の戦果と言えるもので、極めて例外的であるが、桜花が数少ない戦果を挙げたのと同日であったのも奇遇。

 

 桜花のみであれば、突入さえすれば米軍の人的損害は大きかったが、一式陸攻を含むと人員、艦艇共に与えた損害は特攻全体のなかでも少なかった。これは作戦実行前から分かっていたことで、桜花に対する強い反対もあった。

 

最初の桜花特別攻撃隊は1945年3月21日鹿屋基地から出撃した。
 第一次桜花特別攻撃隊

   隊長   野中五郎少佐 (海兵61期)
   桜花隊長 三橋謙太郎大尉(海兵71期)
   一式陸攻17機135名(18機143名「神雷部隊始末記」)、

   桜花15機15名の総計150名、

   海兵出身7名、残り143名予備学生と予科練出身。

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「図説特攻」

野中少佐は自ら率いる桜花隊の弱点は熟知していた。出撃に当たり70機以上の戦闘機による援護を要求したが、配備されたのは55機であった。「湊川のいくさだよ」と言ったとされる。最期を悟った楠木正成湊川のいくさに喩えた。
『海軍神雷部隊』戦友会編p18、加藤浩『神雷部隊始末記』p202
米軍は正規空母ホーネットと軽空母ベローウッドの戦闘機が迎撃した。途中25機が故障して30機になった桜花隊護衛戦闘機は戦闘のために一式陸攻から離れ、一式陸攻(米軍ニックネームBetty)は逃げるが全機撃墜された。その時の状況が米軍ガンカメラに写されている。ガンカメラは射撃と共に機銃に取り付けられた映写機が回って撮影するカメラである。

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攻撃を受ける一式陸攻

 


桜花を搭載した一式陸上攻撃機 カラー映像

 

  分隊長八木田喜良大尉(海兵68期)が野中少佐の言葉を残す。p146
「俺はたとえ国賊とののしられても、桜花作戦は司令部に断念させたい。もちろん、自分は必死攻撃をおそれるものではない。しかし、攻撃機として敵まで到達することができないことが明瞭な戦法を肯定することは嫌だ。糞の役にも立たない自殺行為に、多数の部下を道連れにすることは堪えられない。司令部では桜花を投下したら陸攻隊は速やかに帰投し、再び出撃だと言っているが、今日まで起居をともにした部下が肉弾となって敵艦に突入するのを見ながら自分らだけが帰投できると思うか。俺が出撃を命ぜられたら、桜花投下と同時に、自分も飛行機諸共別の目標に体当たりを食わせるぞ」
野中隊は「野中一家」と自ら呼んで、べらんめえ口調の野中少佐の統率下、結束が高かった。野中少佐の意向にも関わらず、関中尉、岩本大尉同様、特攻方法に反対する生え抜きの航空士官が最初の桜花特攻隊隊長となった。

 

 

 

航空特攻隊員  


航空特攻戦死者

海軍 特攻隊には真珠湾攻撃などを行った特殊潜航艇や、人間魚雷回天、モーターボートによる特攻「震洋」(多くの学徒兵や海軍飛行予科練習生出身者を含む約2500名以上の戦死)、また沖縄に海上特攻で出撃した戦艦大和(2740名戦死)などがあるがこれらを含まず航空機(桜花を含む)による航空特攻のみを数えると2568名。(主として「特別攻撃隊の記録海軍編」の名簿より)

 

陸軍特攻隊には空挺部隊の特攻やマルレと言われた特攻モーターボート、戦車特攻があったが、これらを除く航空機による航空特攻だけ では1305名。(主として「特別攻撃隊の記録陸軍編」から)

 

陸海軍を合わせると4千名弱が航空特攻で戦死。

その中で海軍は飛行予備学生・生徒と呼ばれた大学・専門学校卒業・卒業見込者と満14歳以上の飛行予科練習生(予科練)が主体であり、

陸軍は高等学校・専門学校の卒業生と大学の卒業生・在学生を対象とする特別操縦見習士官(特操)、および少年飛行兵(少飛、技術生徒は満15歳以上)が主体

 

陸海軍とも戦争が進むに従い従来、軍隊の士官を占める海軍兵学校陸軍士官学校出身の戦死を大学・専門学校在学・卒業者から補充し、下士官(士官と兵の間)である少年兵と共に大量に特攻隊とした。航空兵は軍隊の中でも特に心身共優秀な者を厳選し、さらに厳しい訓練で操縦適正のないものを振り落としながら一人前に育て上げた。

 

敗戦が近づくに従い、飛行機も航空兵も不足し、飛行機は性能不良となり、航空兵は訓練期間が短縮するばかりで、十分に敵と空戦できないまま、1944年後半から1945年8月の終戦までは、ひとえに敵艦に体当たりすることだけを主眼に短期育成された。そのため米軍の特攻対策も進み敵艦に突入する前に撃ち落とされることも多くなった。

 

特攻戦死したのは最年少16歳から20代前半の若者が主体だった。彼らは死にたくなかった。しかし、国のため、家族のため、みずからの矜持のために命をかけた。

  

階級と出身(明治以来種々変更があった)

特攻隊員は中尉、少尉から下士官が中心、その前後もいる。

        海軍          陸軍

士官     大将、中将、少将

       大佐、中佐、少佐、    同左

       大尉、中尉、少尉

        士官候補生

准士官 飛行兵曹長(飛曹長)      准尉

下士官 上等飛行兵曹(上飛曹)     曹長

    一等飛行兵曹(一飛曹)     軍曹

    ニ等飛行兵曹(二飛曹)     伍長

兵   飛行兵長(飛長)        兵長

    上等飛行兵(上飛兵)      上等兵

    一等飛行兵(一飛兵)      一等兵

    ニ等飛行兵(二飛兵)      二等兵

 

大本営海軍部が侍従武官符に提出した「ご説明資料」では

特攻隊が帝国海軍の従来の決死隊と異なる点は、計画的に敵艦に突入するので、隊員生還お公算が絶無であると説明されていた。

また、戦死した隊員たちの取り扱いでは

戦争初期、特殊潜航艇の攻撃で戦死した士官と下士官は、死後、二階級特別進級していた。

体当たり攻撃で戦死した特攻隊の士官は二階級特進下士官兵は三階級あるいは四階級特進。下士官は少尉に、兵は兵曹長に死後、特進。「特攻 空母バンカーヒルp275」

 

 日本で最初の特攻隊となった関行男は

1938年(昭和13年)12月に旧制中学を経て海軍兵学校江田島)に入学した(海兵70期)。兵学校4号(1年生)のときの写真。1941年11月3年で卒業(かつては最長4年制であったが戦争の拡大で徐々に短縮)海軍の中では士官として下士官・兵隊を命令・指揮するエリート中のエリートになることが約束されていた。65期から69期の入学倍率は20倍以上。同期の卒業は432名。兵学校全78期の卒業生総数が12,433名、平均約160名/年. 実質75期が1945年最後の卒業で、74期卒業は実に1000名を超えている。戦死者の増大で急激な養成が必要だった。

 

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兵学校4号生徒時代

少尉候補生として戦艦「扶桑」乗組。1942年6月少尉。

1943年1月飛行科学生(39期)霞ヶ浦海軍航空隊に入隊。6月海軍中尉任官。8月宇佐空で艦上爆撃機の実用機教程。1944年1月飛行教官就任、5月結婚、10月特攻戦死。

 

関がたどった兵学校→艦船勤務→飛行学生(霞ヶ浦航空隊約1年)→実用機訓練(戦闘機、艦上爆撃機、艦上攻撃機、陸上攻撃機、水上偵察機など) というのは海軍の航空戦闘部隊の指揮権を担う兵科士官の通常のコースであった。これは海軍予備学生や海軍飛行予科練修生の操縦者よりも養成期間が長かった。

 

隊長 関大尉の敷島隊

 中野 一飛曹 甲飛10期

 谷  一飛曹 甲飛10期

 永峰 飛長  丙飛15期

 大黒 上飛曹 丙飛17期

 が部下として突入戦死した。甲飛とは甲種飛行予科練習生、丙飛とは丙種飛行予科練習生で、予科練と呼ばれ、満14歳(時期により15歳以上)から霞ヶ浦海軍航空隊で教育・訓練を受けた。一期生は73倍の競争率。

甲飛10期は1942年4月1日卒業1097名。777名戦死。

丙飛15期は1942年12月1日卒業(特丙と合わせ)737名。494名戦死。

予科練出身の特攻戦死者は海軍特攻戦死者の62%。兵学校出身の5%に比べて圧倒的に多い。関隊長の兵学校70期は航空科以外を含め卒業が432名しかいない。特攻隊は少年兵と学徒兵が主力だった。

 

海軍特攻隊戦死者  2557名

               海軍兵学校、海軍機関学校 出身  120名         5%

    飛行予備学生・生徒 出身      651名    25% 

    予科練 出身           1582名 62%    

              その他(准士官下士官出身など)   204名  8%

 

 陸軍で最初に特攻隊万朶隊隊長となったのは岩本大尉。陸軍士官学校53期。万朶隊で士官操縦者はそれ以外には、園田中尉(陸士55期)安藤中尉(56期)川島中尉(56期)

 

陸軍特攻戦死者 1305名

    陸軍航空士官学校士官学校出身  152名 11%

     特別操縦見習士官(特操)出身    311名 23% 

    少年飛行兵(少飛)出身      418名 30%

     幹部候補生             110名        8%

    航空機乗員養成所 出身      182名 14%

    その他(不明を含む)       132名 14%

    (少年飛行兵以下は下士官

 

万朶隊は士官が全員特攻前に死亡したため、士官なしで出撃した。通例は士官が隊長となり、その突入命令に従って士官を先頭に全軍突撃する。

陸軍曹長 田中逸夫  昭和12の徴集兵 士官全滅し隊長となった
同    生田留夫  不明(田中曹長機に同乗、通信手)
陸軍軍曹 久保昌昭  少飛10期
陸軍伍長 佐々木友次 仙台乗員養成所(逓信省所轄、実態は陸軍航空兵養成)

   佐々木は援護の隼が帰還し突入したと報告したが、誤りで後日帰還

 

万朶隊に(出撃できなかったが)4名もの陸軍士官学校出身者がいたように、陸軍の特攻戦死者の中で士官の比率は11%と海軍5%より高い。一方、少飛(少年飛行兵)の比率が30%と最も高く、特操(高等学校・専門学校の卒業生と大学在学・卒業生)が23%と、海軍同様、特攻の主体は少年飛行兵と在学・卒業学生であった。

 

海軍のその他には操縦練習生・偵察練習生を含む。これは海兵出身で下士官兵の内部選抜。当初、下士官パイロットの養成コースはこれのみ。草創期に坂田三郎(敵機64機撃墜16歳で四等水兵、戦艦霧島・秦名の砲手から38期操縦練習生)などのエースパイロット(5機以上の撃墜王)を含む優秀なパイロットを輩出した。坂田著「大空のサムライ」によると数千名の応募者から合格したのは40名。そのうち操縦練習生を卒業できたのは25名。

 
少年兵

 特攻戦死者の中で最年少は16歳で、18歳以下が207人(海軍178人、陸軍29人)いたとされている。


戦前の日本では、このようなことが問題視されることはなく、子どもを軍人として教育する公的な機関、陸軍の場合はエリートを養成する陸軍幼年学校があり、陸軍戦車学校では少年戦車兵が養成され、操縦者や通信手を養成する陸軍少年飛行兵学校(少飛)があった。
少飛の採用年限は14歳以上17歳未満で、基礎教育一年、地上準備教育一年、基本操縦一年、戦技教育など六ヶ月、合計三年六ヶ月の教育で操縦者が育成された。
従来、東京だけだった少飛は、1942年に滋賀県に、1943年に大分県に新設され、年間8000人の子どもが教育されることになり、さらに同年、東条英機の航空大拡充によって、教育課程を半分に短縮する制度(乙種)がつくられた。この速成制度は1943年4月入校の一四期乙種からで、特攻戦死した最後のクラスは一五期乙種(1943年10月入校)であった。
小学校(国民学校)を卒業して、すぐに少飛に入校すると一四歳で軍人になるわけだが、この年代の子どもたちは、皇国史観による教育と戦争という時代の影響を全身に受けて、「立派な軍人になって、手柄をたて、立派に戦死する」ことと、「大空への憧れ」をかなえることが結びついていた。

 

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5月27日出撃と思われる。万世基地より出撃、九九式襲撃機(複座)。

第72振武隊 少飛15期6名(写真以外に 久永正人伍長)

      指揮官 航空士官 佐藤睦男中尉 新井一夫軍曹

 

第72振武隊 陸軍伍長 荒木幸雄の父親宛遺書

最后の便り致します
其後御元気の事と思ひます
幸雄も栄ある任務をおび
本日出発致します。
必ず大戦果を挙げます
桜咲く九段で会う日を待って居ります
どうぞ御身体を大切に
弟達及隣組の皆様にも宜敷く さようなら

 

同じ日第431振武隊 九七式戦闘機で少飛14期5名が知覧基地より出撃

この中には朝鮮半島出身の平岡賢哉(李賢載 イヒョンジェ)伍長を含む

 

米軍記録では九九式襲撃機(米軍ニックネームVal)が駆逐艦Braine(DD-630)に2機突入。特攻機2機は命中し同艦は大破し66名戦死、78名負傷。この日は4月1日に米軍が沖縄本島に上陸して、すでに2ヶ月近い。特攻作戦は4月6日の海軍菊水1号作戦/陸軍第一次航空総攻撃に始まってこの日は菊水8号作戦/第九次航空総攻撃であり、まとまった航空攻撃は6月22日が最終。6月23日に沖縄における日本軍の組織的抵抗は終わる。

 

Damage to USS Braine (DD-630)

At 0744 on 27 May 1945, BRAINE was attacked by Japanese "Val" suicide planes while on Picket Station No. 5 off Okinawa. One plane carrying a 550 pound bomb crashed into No. 2 handling room from ahead. The bomb detonated in wardroom. The bridge was seriously damaged and No. 2 handling room was ablaze. Almost simultaneously a second plane carrying a bomb crashed into sick bay. The bomb exploded in the uptake for No. 3 boiler. The after stack was blown clear of the ship and the superstructure from the galley to the torpedo workshop was demolished. Serious fire raged in sick bay. Sixty six were dead, 78 wounded.

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5月27日は日本海海戦の記念日で海軍記念日であった。特攻戦死者、海軍34名、陸軍13名うち11名が荒木伍長以下第72振武隊を含む少年兵。(「ドキュメント神風」によるとこの日、175機が特攻に飛び立ったとある)

また海軍戦死者34名のうち32名は練習機「白菊」(250kg爆弾2発装着、航続距離を稼ぐため燃料タンクを増槽し時速180kmしか出ず、あまりに遅いため護衛の戦闘機は白菊離陸15分後に離陸、白菊を追い越して敵機と交戦した)による特攻であった。白菊隊の出身は海兵1名、予科練18名、飛行予備学生・生徒12名、予備練習生1名。脆弱な練習機による特攻には強硬な反対もあったが、結局実行された。驚くべきことに戦果もあった。別途記載する。

 

 

 

 第6航空軍編成担当参謀倉澤忠少佐は飛行機、操縦士、特攻隊委員の管理を行っていた。陸軍士官学校から航空士官学校1期生として卒業した生え抜きの陸軍航空士官である。倉澤は特攻から帰還した操縦士を収容、軟禁する振武寮」の管理もしていた。

 

倉澤に2003年3月から7月にかけて林えいだい氏がインタビュー。その中で当時86歳の倉澤が語っている。(「振武寮」p255)

「途中で命が惜しくなってね。そういうのがいっぱい帰ってきている。そういうものたちも収容したのが振武寮です。結果的に隔離所になるわけですよ」

振武寮は福岡の司令部に隣接し、周囲には鉄条網が張り巡らされ、銃を持った衛兵が入り口に立っていた。

「軍人のクズがよく飯を食えるな。おまえたち、命が惜しくて帰ってきたんだろう。そんなに死ぬのが嫌か」、「卑怯者。死んだ連中に申し訳ないと思わないか」と罵倒、竹刀で滅多打ちにした。

特攻基地を飛び立った者に対して、その日をもって死亡、二階級特進の手続きをとっており、帰還してくる隊員たちに対して、帰還してきたことを伏せるよう箝口令を敷いていた。命が惜しくて帰ったものもいるかもしれない。しかし、出撃後、飛行機の不調や敵艦を発見できずに突入せず帰還した特攻隊員の思いが書かれている。

 

少年飛行兵についても、インタビューで語っている。

「十二、三歳から軍隊に入ってきているからマインドコントロール、洗脳しやすいわけですよ。あまり、教養、世間常識のないうちから外出を不許可にして、その代わり小遣いをやって、うちに帰るのも不十分な態勢にして国のために死ねと言い続けていれば、自然とそういう人間になっちゃうんですよ」

 86歳になって本音が出たのか?航空兵になってすぐに事故で目を負傷し、地上勤務になった経歴も影響したか?

 

 

 

少年兵の中に台湾出身者がいる。

泉川正宏伍長 劉志宏、1923年台湾新竹生まれ少年飛行兵11期

1944年12月14日百式重爆でフィリピン・クラーク基地から菊水隊47名出撃の一人

百式爆撃機は搭乗員8名の爆撃機

米軍損害記録なし

 

戦死しなかったっが戦後、国民党が台湾に逃げてきた時に政治犯となった。台湾出身の元少年兵。その後陸軍航空士官学校を経て、特攻兵として訓練中に終戦。「台湾・少年航空兵 大空と白色テロの青春期」

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アメリカでは、太平洋戦争開始後、ルーズベルト大統領が飛行機年産五万機、パイロット養成年間二万名の計画を実行に移していた。これに対して日本では、航空士官学校五十六期生が、十八年五月に卒業して、士官候補生となったが総数六二七名にすぎず、他に年間二六〇〇名を採用した少年飛行兵を加えてもアメリカとの差は大きかった。飛行機の生産と操縦者の養成には桁違いの開きがあった上に、双方を酷使し、消耗品として使い捨てにしたのだから、結果は目に見えていた。


陸軍士官学校とは一八七四年に設置された職業軍人(指揮官)を養成する学校。一九二〇年に予科が設置され、ここを二年で卒業すると本科(歩兵、工兵、航空兵など)と配属先(連隊)が決められ、本科では個別の軍事技術が教えられた。入学資格は旧制の中学四年程度の学力とされ、学歴は問わず、かつ官費だったので、多額の学費を必要とする一般大学と比べ、地方都市の中小地主や軍人の子弟が多かったといわれている。毎年二〇~三〇倍の志願者があり、ここを卒業すると二〇歳くらいで将校(少尉)になった。一九三四年入校の四九期から、朝鮮人も日本人と同じように試験に合格すると入校できるようになり、累計で一二五人の朝鮮人卒業生がいた。

 

米軍パイロットの場合 

How the US Navy Trained its Pilots in WWII – the Bar for Entry was High
https://www.warhistoryonline.com/world-war-ii/how-the-us-navy-trained-its-pilots-in-wwii-the-bar-for-entry-was-high.html

The first step in preparing pilots was to pick the best men for the job.
During the late 1930s, the Navy shifted from producing a small number of superb pilots to producing a larger number of excellent ones. Even with the slight slackening in the demands placed on Navy pilots, the bar for entry was kept high. All potential pilots had to complete at least two years of college, to prove their intelligence and provide them with a decent level of education. They had to be between 18 and 26 years old, ensuring young, healthy candidates with a long career potential. They also had to be unmarried.