鳥浜トメの戦後

「ホタル帰る」赤羽礼子・石井宏 著 より

知覧は軍の基地のあった町なので真っ先に米軍が占領すると言われたのに、実際には米軍はなかなかやってこなかった。十二月になってようやく米軍が来ることになった。その情報が流れると、知覧の町民の不安は頂点に達した。つい先日までは"鬼畜米英〃であったから、何をするかわからない凶暴な人間たちがやってくるのだと人々は思った。富屋の向かいの内村旅館が米軍の宿舎となることに決まり、突貫工事で改装が行われた。井戸をやめて水道とし、畳をはがして板張りとする。問仕切りはすべて襖ではなく壁とし、便所は洋式トイレとなり、風呂場はシャワーになった。大型のベッドが持ちこまれ、見たこともない大型の冷蔵庫などが持ちこまれた。

しばらくして福元警察署長がトメのところに折り入って相談にやってきた。署長によると、米軍の本隊は約二十人がまもなく到着する。さらに署長は語を継いで、トメヘの"折り入ってのお願い"の内容を話した。その願いとは、つい先頃まで特攻兵たちが富屋に出入りし、そこでくつろいで楽しい時を過ごしたように、米兵が来たら、富屋に自由に出入りさせて、楽しい時を過ごさせてやってくれということだった。特攻兵を可愛がったトメさんなら、それができる。もしトメさんがあいつらを手なずけてくれれば、あいつらが知覧の町をうろつく必要がなくなり、町の人に危害を加える機会も減るというものだ。こういう仕事はいやだろうが、トメさん以外にはできない。どうか町の治安を維持するためにご協力いただけないか。トメは即座に断った。自分の耳には、特攻として散っていったあの子たちが「小母ちゃん」と呼ぶ声がいまも聞こえているし、ニコニコと笑いかけてくる顔が目の前に浮かんでいる。あの子たちの命を守ることのできなかった自分の無力さに、いまも涙を流す毎日なのに、どうして掌を返したように、あの子らの敵であるアメリカ兵たちをチヤホヤしなければならないのか。

進駐軍は十二月の半ばを過ぎた頃、知覧にやってきた。任務は治安状況の視察と飛行場や軍関係の施設の跡始末であった。到着の日に町として歓迎会をやることになった。なるべく米軍との関係をよくして、何事もなく駐留してもらおうというのが町側の趣旨である。警察署長の懇願で、歓迎会場は宿舎の内村旅館とは目と鼻の先の富屋食堂ということになり、開催にあたって署長はトメに日本料理を出すことを依頼した。

富屋に初めて外国人が入ることになり、知覧の歴史始まって以来の日米合同パーティーが行われることになった。米軍の一行は二二名、隊長はホールマンと言った。みんな鴨居に頭をぶつけそうな大男ばかりで、彼らが入ってくると富屋食堂が急に小さく見えた。警察署長、町長、米軍の隊長らの短いスピーチが終わって、ビールがつがれ、食事が始まった。トメはたちまち質問攻めにあった。これは何というものか、何でできているのか、食べられるのか、どうやって食べるのだ、フォークとナイフはないのか、ナプキンはないのか。

米兵は声も大きいし、遠慮を知らないらしく、思い思いに叫んだり笑ったりしている。確かに行儀は悪いが、鬼畜には見えない。隊長の前だが、兵隊たちには固苦しい様子はなく、階級差を超えて、まるで対等の仲間のようだ。日本軍の規律正しい世界を見てきたトメの前に突然に現れた自由奔放な新しい世界は、彼女を驚かすに十分であった。「よくまあ、こんな勝手な人たちに戦争ができるものだ」と。屈託ない男たちは屈託なく振る舞って出ていった。ガランとなった店内で後片付けをしながら、このあいだまでここに特攻兵たちが坐っていたことを思うと、再びトメには悲しみがこみ上げてくる。そして、敗けたという現実がどうにもならないことも身にしみて思い知らされる。

数日後、クリスマス・パーティーと称して、また米兵たちが富屋に乗りこんできた。今度は食糧持参である。内村旅館からいろいろな料理を大皿で運んできてテーブルの上に並べた。椅子を取っ払い、立ったままで缶の口からビールを飲み、立ったままで、料理を取ってむしゃむしゃと食べる。相変わらず大声で談笑し、食べながら歩きまわり、ポン、ポン、とクラッカーを鳴らす。いや行儀の悪いこと、あきれるばかりである。そのうちに、歌を歌い出した。クリスマスの歌なのだと通訳が教えてくれた。クリスマスなどという風習を知らないトメには何もわからないが、聞いたこともないような陽気な歌もあれば、ジーンとくるような歌もあった。やがて一つのテーブルに赤や緑の紙やリボンできれいに包装された大小さまざまな箱が積まれた。当番の下士官のような男が、ジョージとか、ジョーンとか名前を呼ぶと、ひとりずつ好きな箱を選んで取る。取るとその場で開封し、ワッと歓声を上げて中の品物を見せる。すると一同からドッと歓声やらひやかしの声やらが上がる。陽気で賑やかなこと、あきれるほどである。そのうちにひとり消え、ふたり消え、最後まで残っていた連中も飲みかけのビールの缶を持って出ていってしまった。あとで通訳の人に聞くと、これが〃パーティー〃というもので、立食はあたりまえで別に行儀の悪いことではないし、坐りたければ坐ってもいいし、爆竹を鳴らしてもいいし、ダンスをしてもいい。遅れてきても、先に帰ってもいい。すべてあたりまえで、陽気に一夜を過ごすアメリカ式のやり方だという。それは、上席から序列順に並んで坐る整然とした日本の宴席に比べるとひどく狼雑なものだが、そのエネルギーと活力には圧倒される。トメにとってはカルチャーショックであった。アメリカとは、まるで異次元の世界の情景だった。米軍はその年のうちにさらに二回も富屋で〃パーティー"をやった。一回はだれかの誕生日だということで、もう一回は大晦日であった。

そのたびにつきあわされたトメは、皆に紹介されたりして、顔と名前が一致するようになり、性格の個人差も少しずつわかるようになった。一様に騒いでいるように見えて、なかにはニコニコしておとなしいのもいるし、友好的なのもいれば、乱暴者もいるということがわかってきた。乱暴者のなかにハスキンというのがいて、この男はとくに危ないから注意しろと通訳に言われた。ハスキンはときおり外でピストルをぶっぱなす癖がある。富屋の裏庭でもパン、パンとやったことがある。怖い男だ。

年が変わって昭和二十一年。いよいよ知覧飛行場で、残っていた飛行機を燃やすことになった。すでに二五〇キロ爆弾の多くは信管を抜かれて枕崎の沖合に投棄されていたが、一箇だけその日のために残してあるとのことだった。、トメは飛行機を燃やすと聞いて、ぜひ、その前に飛行機に別れを告げさせてくれと申し出て許可された。トメは二人の娘に言った。「特攻の人たちのかたみの飛行機の残りがとうとう燃やされるんだって。あの人たちの心のこもった飛行機とも、これが最後のお別れになるんだからね、母さんはお見送りに行くよ。あんたたちも行きなさい。行ってあの人たちに最後のサヨナラを言うんだよ」寒い日だった。三人が関係者に伴われて陸軍の飛行場に着いたときは、冬の短い日はすでに西に傾いていた。そこはあの飛行機のエンジンが轟々と空気を響かせていたときのあの緊張はなく、ただ荒れた野原と化していた。トメたちは飛行場の端で止まるように言われた。飛行場の真ん中のあたりには、かつての特攻機が二つ三つすでにスクラップにされて山積みされていた。その残骸の遠景に向かってトメは手を合わせた。トメの胸中には、わが子の枢を見送るようなつらさがあったにちがいない。何を思ったかトメは遠からぬところに落ちていた棒杭を拾ってきた。「何もないけれど、ここに落ちていたのも何かの縁だろうから。.….」と言ってトメは地面をその棒で掘り、、先を一尺ほど植えこむようにして、その棒を地面に立てた。いま掘った土を掛けると、娘たちに言った。「さ、これがきょうからあの人たちのお墓の代わりだよ。だれも弔ってやらないからね。母さんはきょうから、これをあの人たち㊧お墓だと思って毎日お参りにくるから、あんたたちも毎日一緒にくるんだよ」娘たちは涙を拭きながらうなずいた。「あの人たちはお国のために尊い命を犠牲にしたんだよ。たった一つしかない命を投げうって死んでいったんだよ。それを忘れたら罰が当たるよ。日本人なら忘れてはいけないことなんだよ」いつしかあたりは夕闇が迫っていた。西の空の夕焼けも少しずつ消えていこうとしている。三人は携えてきたお花をその棒杭の墓の前に供えた。「こんな棒杭の墓で済まないけれど、みんなしばらくがまんしてください。いま皆さんの墓を作ったりすればすぐ壊されてしまうからね。こんな棒杭なら壊しにくる人もいないだろうからね。その代わり、毎日お参りにくるからゆるしてください」トメは生ける人に語るように、棒杭に向かって語りかけ、手を合わせた。

実際おそろしいほどの速さで世の中が変わってしまったのだ。もういまは特攻隊を称える人などだれもいない。そんなことをすれば、ただちに「軍国主義者」のレッテルを貼られて世の中から弾劾されるのだ。トメはただでさえ「軍の協力者」であり「特攻隊でもうけた富屋」と言われている。もちろんトメはなんと言われようとも耳を貸さないようにしているげれど、世間の口に戸は立てられない。聞きたくない噂も聞こえてくる。しかし、じっと辛抱するよりしかたがないとトメは思っている。いつかは逆風の遠のく日もくるだろうと。足どりも重く、三人はとぼとぼと飛行場からの道を下っていった。手にはいまお供えした花束が握られていた。もし花束が心ない人に発見されて、あの棒杭の意味がわかってしまったら、あの棒杭すら破棄されてしまうことだろう。あの墓を守るために、花を持ち帰ってきたのである。「母さんはね、いつかあそこに特攻兵の霊を弔うために観音様の像を建てるつもりだよ」とトメは娘たちに言った。「いまはまだできないけれど、きっと観音様を祀るからね。いまのような世の中では、お国のために死んだ人たちの霊は浮かばれない。でも母さんの回向くらいでは足りないからね……。大慈大悲の観音様ならあまねく衆生を済度して成仏させてくださる方だから、観音様におすがりするより、あの人たちのためにしてあげられることはないと思うのよ……」薄暮の中でトメの眼は遠くを見ていた。いつか観音像を必ず建てるという強い決意がそこにあった。

富屋に戻ると、その晩も米兵たちが騒いでいた。陽気で屈託ない若者たちはトメのことをいつのまにかママと呼ぶようになっていた。やれ、クリスマスだ、やれ大晦日だ、やれ誕生祝いだといって集まっては富屋で"パーティー"なるものをやっているうちに、彼らはトメに話しかけるようになった。もちろんトメは英語がわからないし、公用以外には通訳はつかないから、話はチンプンカンプンである。それがいつのまにか、トメのことをママと呼ぶようになったのはふしぎである。しかも、いわゆるバーの女主人などを指す「ママさん」ではなく、母親を指す「ママ」なのである。そして彼らはママに写真を見せるのだ。定期入れを大きくしたようなセルロイドのケースに何枚も写真を入れて持っている。「見てくれ、これ、おれのママだ。これダデイ」とくる。「うん、うん」とトメはうなずく。英語は知らなくても、写真の主を見れば何を言っているかわかる。「これ姉ちゃん、こっちが妹」「うん、うん」顔を見ればわかる。次をめくって米兵が写真にキスした。これもだれなのか、聞かずともすぐにわかる。一人がひととおり自分の写真を見せ終わると、隣の男も自分のを出してくる。「これマミー、これダディー」が始まる。そういうときの顔は、みな少年のようにあどけなくて、とても海兵隊の荒くれ男とは思えない。トメはあるとき通訳に彼らの齢を聞いたことがある。すると、隊長を除けばだいたい二十から二十二くらいまで、と言っていた。といえば、特攻兵たちと変わらない年齢である。それがトメのことを「母ちゃん」と呼ぶのである。どうしていつからそうなったのかわからないが、そうい

うことになった。

米兵が進駐してきた頃には、ススを顔に塗って隠れていた娘たちも、いまはトランプをしたり、本を見せてもらったりするようになった。近寄ってみれば、相手は"鬼畜"ではなかった。それにしても米兵たちが彼女らにくれるハーシーの板チョコ、キスチョコからヌガーの入ったチョコバーなどのお菓子のおいしいこと、コカコーラやジンジャーエールといった初めて見るモダンな飲料、それらは文化の落差をまざまざと娘たちに見せつけた。彼らの持ってくる雑誌などは真っ白い紙に印刷されており、写真などの芸術性もみごとで、ただ感歎するよりほかはなかったし、ふだんは作業服を着ている彼らもパーティーなどのときには制服を着てくることがある。日本兵の服は木綿だったが、彼らの服は羅紗(ウール)で、ズボンにはアイロンがかかっており、ウェストやヒップは体にぴったりで、まるでオーダーメイドのようだった。日本兵は将校といえどもこんなぜいたくな服は着ていなかった。彼らの食べ物といい、衣類といい、すべては日本人にカルチャーショックを起こさせるに十分であった。

それでも一方では、まだ特攻兵たちの記憶がきのうのことのようによみがえってくる。同じ二月十五日の日記の続きに、礼子はこう書いている。「あゝわれは乙女の整備隊」。松田さん柴本さんのお声が耳に聞こえてくるやう。何時も歌ひし三角兵舎。あゝ、昨年の四月五月の今頃は星も空いっぱい輝いていたし、エンジンの音もごうごうなつて居たであろうに。今はあの勇ましい音はなく、ただ隣の人の寝息がきこえているのみ。一一月十九日征きし方々をしのびつつ床に就く。こうした矛盾した気持ちは富屋全体を包んでいた。トメはなりたくて彼らの「母ちゃん」になったのではないが、自分でもわからないうちに大男たちが自分を慕うようになっていたのである。もっとも粗暴だといわれたハスキンも、いつのまにかトメになついてしまった。トメは最初はこの乱暴男をなるべく町に出さないようにするために、ハスキンが現れると、手真似と日本語でいろいろ日本流の生活を教えようとした。まず最初は活け花である。ある日、学校から帰った礼子が驚いたのは、トメがハスキンを床の間の前に坐らせて、花の活け方を教えていたことだった。ハサミの持ち方はこう、切り方はこう、剣山への挿し方はこう、ハイやってごらん、そうそう、うまいじゃない、じゃこの枝をこう切って……といったぐあいなのだが、意外なことに"粗暴な"ハスキンが興味を示し、神妙な手つきでトメの言うとおりにやろうとするのだ。うまく切れなかったりすると舌打ちし、「ガッデム」などと言ったりするが、うまくいってトメに褒められたりすると、まるで子供のように喜ぶのだった。次にトメが教えようとしたのは日本流の料理である。彼女はハスキンを富屋の台所に連れていって、いきなり包丁の使い方から教育しはじめた。この包丁は菜っ葉を切るの、ハイこうやって、サクサクサク、わかった?じゃやってみて、というぐあいである。これまた意外なことにハスキンは興味を示し、トメの横に立って、トメの動作を真似しながら、まな板と格闘を始めたのである。そのうちにハスキンは上手になり、トメの横で下ごしらえを手伝うようになった・もちろん、にんじんやジャガイモの皮をむくといった繊細で高級な技術は使えない。だがネギを切ったり、大根やにんじんを輪切りにしたりサイコロにしたりはできるようになり、しまいにはもっとやることはないのか、と言うようになった。竹箒で庭を掃くのも、いつのまにかハスキンの仕事になった。あの"粗暴な"男がけっこう上手に竹箒を使い、枯葉などを茂みの中からかき出したりする姿を見ていると、微笑ましくなってくる。いつのまにかハスキンはピス午ルをぶっぱなすのをやめていたし、いつのまにかトメは彼の母になっていた。どういうことなのだろうかとトメは思う。最初に警察署長に米兵の懐柔を頼まれたときには断ったのに、いつとなく米兵が勝手に富屋に入りこみ、勝手に遊びながら、トメのことを「母ちゃん」と呼ぶようになったのである。

もちろん、米兵から慕われるようになったトメのことをわるく言う人たちは後を絶たない。きのうまで特攻兵の母だづた人物が米兵に取り入ってチヤホヤしているとはなんだ。節操のないことおびただしいではないか、というのである。ある日、学校から帰ってきた礼子は泣かんばかりにして下メに訴えた。「お母さん、やっぱりアメリカ兵を可愛がるのはやめて。世間の人がみんなお母さんのことをわるく言ってるの。きのうまで特攻兵を可愛がっていたのが、戦争が終わったらとたんにアメリカ,兵を手なずけている。よくそんなに簡単に変われるものだ。死んだ特攻兵にわるいと思わないのかって」しかし、トメはこう言つた。「母さんだってアメリカ兵から慕われるようになろうとは思っていなかったよ。なりたくもなかったよ。でもね、礼子、あの人たちを見たかい。みんなポケットに両親や兄弟やら恋人やらの写真を入れているだろう。みんな自分の家族を離れて、地球の裏側の見たこともない土地に来てしまってねえ。淋しいんだよ。早く帰りたいんだよ。来たくて来たん七やないからねえ。お国のために、しかたなく来てるんだよ。そういう気持ちがわかるとねえ、せめてこの家にいるときくらい、やさしくしてやらないとかわいそうだと思えてくるの。だって、どこへ行ったって、あの人たちにやさしくしてくれる人はいないよ。日本人は敵だったんだからねえ。あの人たちは敵に囲まれているんだよ。かわいそうじゃないか。淋しいんだよ。だから、せめて富屋にいるときくらいやさしくしてやりたいと思うよ。写真を見せられたら、そうか、そうか、って言ってあげるの。何を言ってるのか、母さんにはわからないけど、何を言いたいのかはわかるよ。だから、うん、うんて聞いてあげればいいのよ、それで気が済むんだから。そうして、無事に任務を果たして、何事もなくお国へ帰ってもらいたい。だからね、礼子。もうちょっとがまんしてくれない。母さんだってわるく言われているのは知っているよ。でも母さんはけっしてわるいことをしているわけではないからねえ……。しかたがないんだよ、母さんは気の毒な人を見ると、助けてあげたくなってしまうんだよ」

別れの日は意外に早く来た。約二か月にわたって知覧に滞在した米軍は任務を終わって鹿児島市に駐留する本隊に合流することになった。二月二十五日、礼子は日記にこう記している。二月二十五日月曜今日は朝早くから家に来て居た。一時知覧出発。ジャケさん男泣き。ジャケさんやジョージさんたちは何時も私達にやさしくして下さるのだった。今頃きっと風の吹くテントの中でさむいことでせう。

米兵たちは富屋の家族と別れるのがつらいと言って泣き出す者もいた。「マーマ、さよなら」。ジープに分乗しながら、みんなトメたちに手を振って出ていった。鹿児島市には内村旅館のような宿舎はなく、仮設のテント小屋なのだそうだ。どんなに寒かろうと礼子は思った。米兵が去ってしまうと富屋はまたガランとなった。異国の大男たちも、ひと皮むけば、みんな気のいい若者だった。あの"乱暴者"といわれたハスキンでさえ、お花を活けるのに夢中になったり、トメの料理の下ごしらえを手伝ったり、庭の掃除をしたりできるふつうの子供だった。ガランとした食堂に坐っていると、特攻隊の"子供たち"の顔に、去っていった米兵の顔がオーバーラップしてくる。「みんないい子だった」とトメは思う。「アメリカ兵も日本兵もみんないい子だった」。それなのに、どうしてあの子たちは死んでいかなければならなかったのか。「みんな戦争がわるいのだ。戦争さえ起きなかったら、あの子たちは死ぬことはなかったのだ。あの子たちだって、生きていて、ここで米兵に会ったなら、お互いに心が通じあったはずだ」とトメは思う。それが、戦争というものがあったために殺しあうことになってしまった。それから五日後の土曜日、思いがけないことが富屋で起きた。三月二日土曜夜七時半頃、鹿児島から、ジョ!さん、デビさん、シストさんたちが知覧までいらした。

表の引き戸をがらりと開けると、大声で「マーマ」と呼びながら大男たちが入ってきたのには驚いた。週末、非番の連中がジープを駆って富屋に戻ってきたのである。トメを見つけると、大男たちはいきなり抱きついてきた。「マーマ、会いたかったよ」。次の男も、次の男も、トメに抱きついてヒゲづらをすり寄せてきた。人前で男に抱きつかれたことのないトメは有難いような困ったような顔になった。「はい、ありがとう、ジョーさん、元気?」「どう、しっかりやってる?」。片方は英語をしゃべり、片方は日本語でしゃべるが、国境を越え、民族を越え、言語を越えて人の心は通じる。連中は持参のビールを飲みながら夜中まで上機嫌で騒いで引き揚げていった。翌々日、月曜日、今度は「ジャケさんとジョージさん」がトメ母さんに会いにきた。二人ともトメに抱きついて涙を流した。「マーマ、会いたかったよ」。日本の男ならこんな派手な感情表現はしない。しかし、それほどにしてくれる気持ちは嬉しくて、つられて涙が出そうになる。トメは米兵の母になったのである。かつての日、「小母ちゃ…ん」と元気に表から入ってきた少年兵のかわりに、いま青い目の大男が「マーマ」と呼びながら入ってくる。鹿児島からは四〇キロもあるというのに、山の中の舗装もしていない道を、夜ジープを飛ばして会いにきてくれる。愛情に国境はないのである。一方で礼子は日記に書く。

三月二十四日日曜お兄様方が征かれましてより早一年が経とうとしています。今年も昨年と同じ桜が咲き始めましたよ。お兄様方、桜が見えるでせう、飛行場の回りの桜が。黄色い菜の花も、つばきも。富屋から特攻の思い出が消える日はない。

トメはせっせと役場に通い、観音像建立の提案を続ける。長い月日を要したが、ようやく役場も富屋のトメさんの請願には勝てないと、重い腰を上げることになる。町長は任期の最後の年に観音像設置の手続きをしてくれた。昭和三十年(一九五五)九月二十八日、観音像は完成し、旧陸軍知覧飛行場の跡地の北東の一角に、はるか開聞岳から南の海を望む形で安置された。除幕式の日、トメはその像の前に御手洗の手水鉢を寄進した。ようやくトメの願いが叶った。特攻隊員を顕彰し、その霊を慰めることが公に認知された証の観音像が建った。きのうまで特攻隊員たちの墓標の代わりに毎日拝んできた棒杭を、トメは静かに引き抜いた。この棒にこめられた思いは、いま観音像に引き継がれたのである。これからは大慈大悲の観音様がトメに代わって特攻隊員たちの霊を慰めてくださることになるのだ。その日から、棒杭参りは観音参りに変わった。