航空母艦


太平洋戦争以前、海軍主力は戦艦であった。

日本軍による真珠湾攻撃以来、日米ともに制空権なくして勝利はなく、飛行機を搭載した航空母艦が主力艦となった。 艦艇に突入する特攻の主たる目標は航空母艦であった。

 

  「一機一艦撃沈」と日本軍では言われることになったが、特攻を開始した時には、撃沈が困難であることは認識あり、航空母艦の飛行甲板が一ヶ月でも使用できなくなれば、その間に戦況を挽回するという考えだった。しかし、最初の特攻で空母セント・ローを一発の爆弾と一機の特攻で撃沈してしまったので、「一機一艦撃沈」となってしまった。しかし、セント・ロー以外に撃沈された航空母艦ビスマルクシーのみ。

 

とは言え特攻隊は多数の飛行機と乗組員を搭載した航空母艦を突入目標とすることに変わりなく、特攻機が突入した数は駆逐艦が多いものの、大きな戦果を挙げたのは航空母艦に対してであった。米軍は航空母艦を守るためにレーダーを装備した多数の駆逐艦を前方に配置し、レーダーピケと呼ばれる防御網を張った。空母に搭載する飛行機の中で迎撃機の比率を高くし、日本軍機が接近するのを事前につかみ、友軍機を発進させて、待ち伏せした。これに撃ち落とされる日本軍機も多く、また駆逐艦に突入せざるを得ない特攻機が多数あったのだ。

 

特攻による損傷・沈没艦(連合軍側の記録)

戦艦          19  隻 

空母          47

駆逐艦     169

巡洋艦       19

その他     149

合計        407(この内沈没したのは51隻)

 

特攻によって戦死者100名以上の甚大な被害を受けた米航空母艦

 

1)1944年10月25日10時52分 第一神風特攻敷島隊 突入

護衛空母セント・ロー St.Lo(CVE-63)   Casablanca class escort carrier 沈没

戦死者143名 負傷者370名

 

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2)1944年10月26日00時38分 第一神風特攻敷島隊 突入 大破
護衛空母スワニー Suwannee(CVE-27) escort carrier
戦死者100名 負傷者170名

 

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3)1945年1月21日 台湾南東沖
空母タイコンデロガ Ticonderoga(CV-14)  大破 
戦死者143名 負傷者202名

 12時すぎに特攻2機命中

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この日、タイコンデロガ以外に駆逐艦マドックスdestoryer Maddox (DD-731、戦死者10名・負傷者30名), 軽空母Langley (CVL-27)にも正午過ぎ特攻突入、損傷を与えた。

 

特攻隊は台湾台南基地から12時前に海軍の特攻隊7機が出撃した。

 

新高隊 彗星(乗員2名/機)5機 爆装500㎏ 

西田幸三中尉 海兵72期 高島陸人少尉 宮崎高農13期 宮野健次郎二飛曹 丙飛16

新田四郎二飛曹 甲飛11期 平井孝二少尉 日大13期 杉山喜一郎一飛曹 乙飛17期

山下信博飛長 丙飛17期 沢田光雄一飛曹 乙飛17期 福島昇飛長 丙飛17期

安留亀市一飛曹 甲飛11期 

 

第一航空艦隊零戦隊 零戦2機 爆装250㎏

堀口吉秀少尉 函館高水13期 藤波良信飛長 特乙1期

 

 堀口吉秀(函館高水、三重県)は、館山の州崎海軍航空隊の戦闘三一七飛行隊にいた。

彼は要務飛行のため、一月中旬、台南基地に飛ぶことになったが、沖縄方面には敵艦載機が時々来襲するので針路を変更して上海経由で台南基地についた。そして、要務飛行の責任を果たして、内地に帰るばかりになっていたとき、たまたま敵の機動部隊の動きが活発になってきていたので、司令から、「敵の機動部隊に特攻をかけてくれないか」と懇願されたという。

熱血漢の堀口吉秀は、飛行科予備学生の出身者らしく、「ハイ、やります」と、なんの躊躇することもなく引き受け、飛行長より特攻の要領を聞き、そのまま突っ込んだというのである。

この話を裏づけるように、台南基地から爆戦(零戦に爆装)特攻隊が出撃したのは、前にも後にも、堀口少尉たちの二機だけである。

のちに彼がいた戦闘三一七飛行隊は、神風特別攻撃隊大義隊を編成し、酒井正俊が第一大義隊六機の指揮官として四月一日の午前六時四十五分、伊藤喜代治が第二大義隊七機の指揮官として、四月二日の午前六時四十五分、ともに石垣島基地より出撃している。

普通なら、堀口たちの特攻隊にも、当然なんらかの名称が命名されるはずなのに、あまりにも急であったため、特攻隊の命名式もなく零戦で出撃した模様である。

「海軍飛行科予備学生」より

 

4)1945年2月21日 硫黄島 
護衛空母ビスマーク・シー Bismarck Sea(CVE-95) escort carrier 沈没
戦死者318名 負傷者99名

 特攻による2隻の撃沈空母の一隻

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5)1945年2月21日 硫黄島
空母サラトガ Saratoga(CV-3)  大破
戦死者123名 負傷者192名

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2月21日硫黄島沖で特攻機が突入したのは護衛空母ビスマルクシーと正規空母サラトガ以外に防潜網輸送艦キーアカック、戦車揚陸艦LST-477, 809にも損傷を与えた。

 

米軍は航空母艦8隻、艦載機1200機、戦艦6隻、巡洋艦15隻、駆逐艦17隻が集結し、硫黄島の日本軍に対し2月16日からまず猛烈な艦砲射撃 を開始した。地下坑道に隠れた日本軍はこれに耐え、上陸してきた米海兵隊と激戦となった。日本兵18000名は全滅したが、米軍も約7000名が戦死した。2月21日千葉県香取基地を出撃した第二御盾隊は八丈島で燃料を補給し、硫黄島沖の米軍艦隊に特攻突入した。

 

第二御盾隊で突入戦死したのは

彗星(乗員2名/11機/22名)直掩零戦(5機/5名)天山(乗員3名/6機/18名)

特別攻撃隊の記録 海軍編」による

 

青木(旧姓岩下)泉蔵氏(直掩機指揮)によると出撃したのは32機60名

第一・第二・第三攻撃隊 各彗星500㎏爆装4機+各直掩零戦4機

第四(800㎏爆装)・第五攻撃隊(雷装) 各天山4機

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「図解特攻のすべて」より

空母には第一攻撃隊、大型空母には第五攻撃隊が突入としている。

 

以下「特別攻撃隊 海軍編」より

 第一攻撃隊 隊長兼指揮官 村川弘大尉 海兵70期 原田喜太男飛曹長 甲飛2期

  田中武夫一飛曹 丙飛10期 幸松正則上飛曹 乙飛16期

  青木孝充上飛曹 丙飛10期 木下茂少尉 関大予備学生13期

  小石政男上飛曹 甲飛9期 戸倉勝二上飛曹 乙飛16期

第二攻撃隊 隊長 飯島晃中尉 海兵72期 以下省略

第三攻撃隊、第四攻撃隊 省略

第五攻撃隊

隊長櫻庭正雄中尉海兵72期 村井明夫上飛曹 甲飛9期 窪田高市上飛曹 乙飛16期 桿田一幸一飛曹 丙飛13期 中村伊十郎上飛曹 乙飛16期 竹中友男二飛曹 乙飛18期

佐川保男少尉 香川師範13期 岩田俊雄上飛曹 乙飛13期 小山良和二飛曹 乙飛18期

(櫻庭正雄中尉は「特別攻撃隊 海軍編」では桜場となっている)

www.naniwa-navy.com


6)1945年3月11日 ウルシー
空母ランドルフ Randolph(CV-15)  大破
戦死者34名 負傷者125名

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USS Randolph修理中


ウルシー環礁は比、台湾、沖縄からほぼ等距離にあり米軍の重要な艦艇補給基地であった。

この日、海軍菊水部隊梓特別攻撃隊 銀河(乗員3名爆装800kg)24機が0910鹿屋基地を出撃、0925誘導のため二式大艇5機(乗員12名/機)が鹿児島基地を出撃した。黒丸隊長機が出発したのは0850。追い風のために出発を一時間繰り下げた。ウルシーまでは約3000km。次々と機体不良で落伍し、鹿屋出発から8時間後ウルシーへ到達したのは15機。1750日没。ウルシーまで30分の飛行距離であるヤップ島を目印にしていたが、1830になっても二式大艇はヤップ島を発見できず、大艇から攻撃隊は離れて進軍した。環礁に到着した時、すでに日没で米軍は灯火管制にあり、黒丸隊長は

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二式大艇

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双発爆撃機銀河

艦艇を探し回ったが見つからず4機をつれてヤップ島に不時着した(1機は墜落)。特攻機は1機のみではあったが一瞬、友軍艦艇のサーチライトに照らされた空母ランドルフに突入した。

 

銀河の巡航速度は時速370km(最高速度546km)に対し二式大艇の巡航速度は296km(最高速度454km航続距離7000-8000km)はるか洋上の敵に近づくには大艇の偵察攻撃能力が必要だったがスコールや敵輸送船団回避などもあり貴重な時間を浪費した

 

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ウルシー在泊の空母群を足止めし、航空部隊の回復を狙った作戦は失敗した。米空母群は沖縄戦の準備の為、日本近海まで進軍し、九州四国の爆撃を行う。これを率いたのはマークミッチャー中将で、空母ランドルフへの特攻突入をウルシーで見ていたが、日本近海でも猛烈な特攻攻撃に会う。

 

 

 

7)1945年3月19日 室戸沖
空母ワスプ Wasp(CV-18)  大破
戦死者101名 負傷者269名

www.youtube.com

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USSWasp1945/3/19

 1945年3月18日、ワスプを含む空母12隻を基幹とするマーク・ミッチャー中将率いる第58機動部隊の艦上機約1,400機が、第5艦隊司令長官レイモンド・スプルーアンス大将による指揮のもと日本近海に現れ、九州、四国、和歌山などの各地域を襲った。これに対して日本軍は、宇垣纏海軍中将率いる第五航空艦隊(指揮下の陸軍飛行戦隊2個に属する四式重爆撃機「飛龍」を含む)が反撃を開始し、九州沖航空戦が始まった。神風特別攻撃隊を含めた日本軍機の攻撃で、空母イントレピッド、ヨークタウン、エンタープライズが小破した。しかしこの日、日本軍は特攻機69機を含む攻撃部隊全193機のうち、約8割である161機を失い、このほか50機が地上で損傷を受けた。さらにアメリカ軍機を迎撃した零式艦上戦闘機も47機の損害を出した。米軍機の損害は29機撃墜、2機損傷にとどまった。
翌3月19日、機動部隊の一部は室戸岬のおよそ80キロ沖にまで接近した。艦上機部隊は主に瀬戸内海を空襲し、呉軍港に停泊中の日本の水上艦艇の一部を損傷させた(呉軍港空襲)。これに対し日本軍は、特攻隊を交えた出撃可能な全航空兵力をもって激しく反撃。室戸岬に最も近づいていたフランクリンとワスプは爆撃を受け大破した。ワスプには1発の250kg爆弾が命中して格納庫を貫通し居住区で爆発し、艦載機の航空燃料が下層甲板に流れ出して大火災が発生し、101名が死亡、死傷者の合計は約370名にのぼった。wikipedia 

 

3月18日出撃海軍特攻隊戦死者 

 菊水部隊彗星隊 第一国分基地出撃 

九州東方に来攻の機動部隊(第一次攻撃隊) 0613-0658

彗星10機(乗員20名)爆装500kg

直掩零戦 2機(乗員2名)

 

九州南東機動部隊(第二次攻撃隊) 1045-1150 (第三次攻撃隊)1350-1420
彗星8機(乗員16名)爆装500kg
直掩零戦 1機(乗員1名)

 

菊水部隊銀河隊 築城基地出撃 0628-0710

九州東方機動部隊 

銀河5機(乗員15名)特攻隊最小年齢16歳の一人、西山典郎二飛曹 甲飛12期を含む

鹿屋基地出撃 0440

銀河2機(6名)爆装800kg

大分基地出撃 0440

銀河1機(3名)雷装

 

3月19日出撃海軍特攻隊戦死者

菊水部隊彗星隊

第一国分基地出撃 九州南東の機動部隊 (第四次攻撃隊)545-715

彗星8機(16名)爆装500kg

 

第二国分基地出撃 九州南東の機動部隊(第五次攻撃隊) 928-953
 彗星3機(6名)爆装500kg

 

出水基地出撃  九州東方の機動部隊 0420-0705

銀河5機(15名)爆装800kg4機 雷装1機

 

3月18日と19日の特攻戦死は45機(100名)、これ以外に通常攻撃もあったはずだが

http://www.navsource.org/Naval/1945.htm 米海軍記録1945によると

3/18 Sun.

Aircraft from fast carrier task force (Vice Adm. M. A. Mitscher) bomb airfields on Kyushu, Japan. Army troops are landed on southeast coast of Panay, P. I., by naval task group (Rear Adm. A. D. Struble) under cover of cruiser and destroyer gunfire.
United States naval vessels damaged:
Carrier ENTERPRISE (CV-6), by horizontal bomber,off Kyushu, Japan,
30 d. 50'N., 133 d. 42'E.
Carrier YORKTOWN (CV-10), by horizontal bomber, off Kyushu, Japan,
30 d. 40'N., 133 d. 49'E.
Carrier INTREPID (CV-11), by suicide plane and  accidentally by United States naval gunfire, off Kyushu, Japan, 30 d. 47'N., 133 d. 50'E.

3/19 Mon.

Aircraft from fast carrier task force (Vice Adm. M. A. Mitscher) bomb airfields on Kyushu, and shipping at Kure and Kobe, Honshu, Japan.
United States naval vessels damaged:
Carrier ESSEX (CV-9), accidentally by United States naval gunfire, off Shikoku, Japan,
32 d. 10'N., 134 d. 20'E.
Carrier FRANKLIN (CV-13), by horizontal bomber, off Kyushu, Japan,
32 d. 01'N., 133 d. 57'E.
Carrier WASP (CV-18), by dive bomber, off Shikoku, Japan,
32 d. 16'N., 134 d. 05'E.

6隻の空母に被害あり、空母ワスプは急降下爆撃によるとなっており、特攻によるものは18日の空母イントレピッドのみ

 

18日/19日に特攻戦死した菊水隊100名には

1943年入隊の予科練甲飛12期、丙飛16期、特乙が14名含まれている。入隊から2年足らず、最年少16歳から18歳程度と想像される。

14名が予備学生13期(1943年入隊)出身。

海兵69から72期(1941から1943年卒業)7名。

残りはほとんどが予科練出身の若者である。

 

8)1945年5月11日 沖縄 

第七昭和隊 安則盛三中尉(旅順師範予備学生13期) 及び 

小川清中尉 (早稲田大学予備学生14期)

鹿屋基地より零戦52型爆装500kg爆弾にて第7昭和隊4機と共に出撃突入 
空母バンカーヒル Bunker Hill(CV-17) 大破 
戦死者402名 負傷者264名(航空特攻による最大の犠牲者数)

 

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小川清

安則盛三辞世             「雲流るる果てに」p247

  はらからが五人そろって旗のもと

    一足先に4男坊征く 

 

 

航空母艦以外で戦死者100名以上の犠牲を出した米軍艦艇

1944年12月11日

駆逐艦レイド destroyer Reid (DD-369)

戦死者150名 負傷者不明

第一金剛隊隊長鈴木清中尉 零戦11機 内4機命中

 

1944年12月13日jネグロス島

軽巡ナッシュビル light cruiser Nashville (CL-43)

戦死者133名 負傷者190名

九九式艦爆命中

 

1945年5月4日

駆逐艦モリソン Morrison DD-580 戦死者152   負傷者102

駆逐艦ルース Luce DD-522   戦死者150   負傷者94

 

兵員輸送

1944年11月12日 レイテ
商船ジェレミア・M デイリ Jeremiah M. Daily (Liberty)
戦死者106名 負傷者43名

1944年11月12日 レイテ
商船トマス・ネルソン Thomas Nelson (Liberty)
戦死者136名 負傷者88名

 

 

以下主に「特攻 空母バンカーヒルと二人のカミカゼ」マクスウェル・ケネディーより

含写真
空母バンカーヒル Bunker Hill(CV-17)とマーク・ミッチャー大将 
 安則盛三中尉と小川清中尉がバンカーヒルに突入した時に同艦で高速空母部隊を指揮していたのはマーク・ミッチャー大将であった。彼は米国海軍生え抜き33番目のパイロットであり、空母戦闘群を使った戦略や高速空母部隊を考案した。米軍はすべての空母と海軍航空基地の司令官をパイロットから選んだ。日本の上官にはパイロット経験のない人間が多数いた。

 

米軍が勝利し、その後の戦況を決定的に変えたミッドウェーの戦いでも米軍は自ら分析反省改善した。当時依然として世界最高レベルの日本軍パイロットの急降下爆撃隊は、米空母ヨークタウンに三発の爆弾を命中、続けて雷撃隊が二本の魚雷を命中。一方米陸軍の爆撃隊は84トンの爆弾と、海兵隊雷撃隊は23トンの魚雷の一本も命中できなかった。米軍は、そこから何万人もの後進パイロットを徹底的に訓練する。当時10万人以上が訓練を受けていた。日本では数千人規模。

 

真珠湾攻撃後、米太平洋艦隊司令長官になったニミッツは戦艦はもはや時代遅れだと考えていた。日本海軍には戦艦大和や武蔵が参戦したレイテ沖海戦でも、まだ戦艦至上主義者がいた。

 

Marc Andrew "Pete" Mitscher (January 26, 1887 – February 3, 1947) was a pioneer in naval aviation who became an admiral in the United States Navy, and served as commander of the Fast Carrier Task Force in the Pacific during the latter half of World War II.

1910年アナポリス(米海軍兵学校)卒業131人中103位

当初より飛行機に興味を持ち海軍パイロット第33号

空母サラトガに初着艦

1942年4月2日空母ホーネット艦長、16機のB-25爆撃機を搭載し、ドーリットル隊長による東京空襲実施。ミッドウェーをはじめ数々の戦歴のあと、

第3空母部隊司令官から太平洋艦隊高速空母任務部隊司令官となった。任務部隊の名称、第58任務部隊。参謀長として「31ノット・バーク」ことアーレイ・バーク少将が就任。これは「主要艦隊の指揮官が水上艦出身者であれば参謀長は航空出身者、指揮官が航空出身者なら参謀長は水上艦出身者」という、1944年1月に同意された原則に基づく。

 

1945年3月11日夜、ミッチャーとバークは旗艦であった「バンカー・ヒル」(USS Bunker Hill, CV-17)の艦隊指揮所におり、バークが僚艦「ランドルフ」(USS Randolph, CV-15)を眺めていたところ、梓特別攻撃隊の銀河のうちの1機が「ランドルフ」の飛行甲板後部に命中するのを目撃した。これが初めて見る神風特別攻撃隊であり、以後何度もつきあわされることとなる

 

4月7日朝、「エセックス」(USS Essex, CV-9)の索敵機は西航する戦艦大和を旗艦とする第二艦隊を発見、ミッチャーは順次攻撃隊を発進させた、第58任務部隊機の波状攻撃により「大和」や軽巡洋艦「矢矧」、いくつかの駆逐艦が沈没し、日本海軍は事実上崩壊した(坊ノ岬沖海戦)

 

On 11 May 1945 Mitscher's flagship Bunker Hill was struck by kamikazes, knocking her out of the operation and causing much loss of life. Half of Mitscher's staff officers were killed or wounded, and Mitscher was forced to shift his command to Enterprise. Enterprise at that time was functioning as a "night carrier", launching and recovering her aircraft in the dark to protect the fleet against bomber and torpedo aircraft slipping in to attack the fleet in the relative safety of night. When Enterprise was struck by kamikaze attack as well, Mitscher had to transfer once more, this time to USS Randolph, the Essex-class aircraft carrier that had been damaged by a long-range kamikaze attack at Ulithi. Throughout this period Mitscher repeatedly led the fast carriers northward to attack airbases on the Japanese home islands. Commenting on Admiral Mitscher upon his return from the Okinawa campaign, said Admiral Nimitz "He is the most experienced and most able officer in the handling of fast carrier task forces who has yet been developed. It is doubtful if any officer has made more important contributions than he toward extinction of the enemy fleet.

5月11日、ミッチャーは「バンカー・ヒル」の艦上で、艦隊指揮所に陣取っていた。午前9時過ぎ、「バンカー・ヒル」では朝に発進した攻撃隊を収容して、午後に発進予定の攻撃隊の発艦準備を行っていた。次の瞬間、「緑色の航空機が三機」突入するのが見えた。警報を受け、ミッチャーは周囲から説得された末に鉄のヘルメットと救命胴衣を身につけ、艦隊指揮所の椅子から離れた。直後、神風特別攻撃隊第七昭和隊所属の安則
盛三中尉機は「バンカー・ヒル」の第3エレベーターより少し後の地点に爆弾を命中させ、自身も命中する。ただちに応急措置が取られたが、それから1分も経たないうちに、今度は安則と同じ神風特別攻撃隊第七昭和隊所属の小川清少尉機が飛行甲板に突入する。その場所は、艦隊指揮所から移動してきたミッチャーとバークからわずかに6メートルしか離れていない場所で、小川機の破片によりミッチャーの幕僚3名と下士官兵7名が戦死した。

 

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破壊された艦中央部

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飛行甲板に空いた穴

 

 

直撃を逃れたミッチャーは海側のキャットウォークに移り、バークは煙に巻かれた無線室から乗組員を救助したあと、ミッチャーの下に駆けつける。大破した「バンカー・ヒル」は通信手段も失われ、僚艦はミッチャーの安否すら知ることができなかった。また、突入によりミッチャーの司令官用個室と私室も粉砕され、衣類や文書もなくなってしまった。しばらくするとミッチャーは、暗くなっていたものの辛うじて残った艦隊指揮所に戻り、再び椅子に座って艦の機器の状態を調べ始めた。また、第58任務部隊の指揮をF・C・シャーマンに一時的に委譲させた。「バンカー・ヒル」は激しく炎上したが、乗組員や僚艦の決死の働きにより午後遅くには山場を越えることができたが、完全な鎮火はしていなかった。バークは生き残った幕僚を招集し、駆逐艦「イングリッシュ」(USS English, DD-696)を呼び寄せて移乗を開始する。しかし、ミッチャーは火災により飛行甲板に出られなかったので、艦橋から吊り下げ型救命ブイで「イングリッシュ」に移っていき、さらに「エンタープライズ」に移って新しい旗艦とした。

 

新たに「エンタープライズ」に将旗を翻したミッチャーではあったが、この「幸運のE」も安住の地ではなかった。5月14日、神風特別攻撃隊第六筑波隊を初めとする零戦28機が攻撃を仕掛けてくる。その多くは戦闘機と対空砲火で撃墜されたが、第六筑波隊隊長富安俊助中尉機のみは「エンタープライズ」めがけて突入してくる。突入の最後の瞬間、「エンタープライズ」では射手以外は全員甲板に伏せるよう指示されたが、富安機の突入後に幕僚が身を起こすと、ミッチャーのみ依然として甲板上で立っていた。富安機の一撃は「エンタープライズ」に再起不能の損傷を与え、その戦歴に幕を引かせる結果をもたらした。ミッチャーは再び旗艦を変更しなければならず、一旦前線から下がってから「ランドルフ」に移っていった。

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空母エンタープライズに突入する富安機

富安俊助中尉 早稲田大学予備学生14期 22歳

 5月14日鹿屋基地 第6筑波隊 零戦52型 500kg 爆装 14機出撃戦死

第8七生隊 3機も鹿屋から出撃戦死

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特攻機に突入されたエンタープライズ

5月14日、26機の日本機がTF-58目掛けて飛来してきた。6機が対空砲火で撃墜、19機が上空哨戒機によって撃墜された。だが、富安俊助中尉搭乗の1機のみは集中砲火を避けて雲に隠れ、時々雲から顔を出してエンタープライズの位置を確認しつつ生き残っていた。そして午前6時56分、この1機がエンタープライズに向かって突撃してきた。エンタープライズは富安機を20分前からレーダーで認識していたが、富安機が雲に隠れるなどしたために、効果的な反撃が出来ずにいた。エンタープライズが回頭し艦尾を向けたときに富安機は満を持して緩降下攻撃を実施。エンタープライズは右舷後方から降下してくる富安機に対して、右舷回頭して集中砲火を行なったが、富安機は機体を横滑りさせるなどして回避、オーバーシュートする寸前に艦の真上で180度に左回転し、背面飛行の状態から急降下し、前部エレベーターの後部に突入した。前部エレベーターは爆発によって400フィート(≒120m)上空まで吹き上げられ、エンタープライズの左舷海面に落下した。エンタープライズは大破炎上し、破孔からの浸水によって前部は2.2メートル沈下し、深刻な損傷を負ったエンタープライズのダメージコントロール班は即座に行動し、17分で火災の延焼を食い止めて誘爆を阻止した。被弾から30分で火災は消火され、エンタープライズは対空戦闘を継続して更に2機を撃墜、速度を落とすことなく旗艦として任務部隊の配置を守り続けた。そのダメージコントロール能力の高さにミッチャー提督はエンタープライズのダメージコントロール班が「かつて見た中で最高の優秀さ」であったと賛辞を送っている。また、これだけの大爆発にもかかわらず当時第2エレベーターを使用中だったことと、爆弾が鋼材置き場で炸裂し、弾片が飛散しなかったという幸運から戦死者数は13名に留まった。だが前部エレベーターや飛行甲板などの損傷により発着艦能力は麻痺し翌日ミッチャー提督をランドルフに移し、旗艦から外れた。そして16日に任務部隊を離脱した。富安中尉の遺体はエレベーターホールの下で発見され、アメリカ兵と同じように丁重に水葬された。 彼は海軍関係者から「これまで日本海軍が3年かかってもできなかったことを、たった一人で一瞬の間にやってのけた。」と称賛の言葉を受けた。またこの時の機体の破片は後に、軍属の二級登録板金工だったノーマン・ザフトから富安中尉の家族に返還された。この日が、エンタープライズにとっての最期の戦闘となった。ウィキペディア

エンタープライズは4月11日にも特攻攻撃を受けたが、彗星2機が突入した模様。

第一国分基地から第210部隊彗星隊2機4名、第3御盾隊4機8名が出撃戦死。


USS Enterprise (CV-6) hit twice by kamikaze - 11 April 1945

 

 

 沖縄戦の最中の5月27日、ニミッツは第5艦隊と第3艦隊の入れ替えを行い、第58任務部隊改め第38任務部隊の指揮はマケインに譲られた。沖縄戦での約2カ月間、ミッチャーはろくな休養もなく第58任務部隊を指揮し続け、また相次ぐ神風特攻隊の攻撃は、ミッチャーに少なからぬ動揺を与えていた。そのせいか、ミッチャーは体重が45キロ以下とガリガリになるほど心身を消耗し、もはや周囲の助けなしでは舷側の梯子を登ることができなかった。戦艦「ミズーリ」(USS Missouri, BB-63)での事務引継ぎの会談でミッチャーと顔を合わせたハルゼーは、「歩く骸骨のよう」なミッチャーの姿にショックを受けた。

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普通に幸福に生活してきた若者達が、なにも罪のない若者達と殺し合った。

まことに残酷な殺し合いであった。だれがそれを始めたのか。

だれが殺し合うことを命令したのか。

だれが早く止めなかったのか。やめれば殺し合わずに済んだ若者たちが次々と殺し合い死んでいった。悲しみ、苦しむ人々がその背後にいた。

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真珠湾攻撃時の保有艦艇数

     日本     米国
空母   10      8

戦艦   10(大和、武蔵建造中) 17

巡洋艦  41      37

駆逐艦 111     171 

潜水艦  64     112

 

戦争中に就役した米軍空母

正式空母 23隻

1942年12月31日就役 空母エセックス(Essex CV-9)から

1944年11月26日就役 空母Bon Homme(CV-31)まで

           レキシントン級  ヨークタウン級  エセックス級
全長(m)           270                         230-251      250-271
速力(ノット/km)     33(61)                     32.5(60.2)    32.7(60.6)
搭載機数            78                           90                          90-100

乗組員                                2791                      2217                      2631

 

インディペンデント級空母(軽空母)

ボーグ級 45隻   34隻英国海軍へ

Altamaha (CVE-6) 1942/10/31 HMS Battler(D-18)

CVE-27から30なし

Winja (CVE-54) 1944/2/18Became HMS Reaper (D82)

 

サンガモン級 4隻

Sangamon (CVE-26) 39/11/4

Santee (CVE-29) 39/3/4

 

カサブランカ級 50隻

Casablance (CVE-55) 43/7/4 就役

Munda (CVE-104)  44/7/8 

 

Commencement-Bay 級  16隻

Commencement-Bay(CVE-105)  44/11/27 就役

Mindoro (CVE-120) 1945/12/4 就役 

 

 合計188隻 内 特攻で沈没したのは2隻 (特攻以外で沈没したものあり)

 

           ボーグ級      サンガモン級 カサブランカ級      C.Bay級    

全長(m)              151      168.6       150-156                170    

速力(ノット/km)         18(33)     19(35)    19(35)             19(35)         

搭載機数                         19-24        30             27                34     

乗組員         646  680-1080          858                 1066

設計母体       C3型貨物船  T2型油槽船           新設計      (T2型油槽船)

 

カサブランカ級 

 1942年にカイザー造船所社長ヘンリー・J・カイザーが提案した30隻建造のプランによる。当初、アメリカ海軍はさほど相手にはしていなかったが、フランクリン・ルーズベルト大統領の肝いりもあって、6月に入ってカイザー造船所に50隻の建造が発注された。カイザー造船所のドックおよび船台はもともとリバティ船建造用に建設されたものだったが、やがて戦車揚陸艦の建造も手がけ、最後にカサブランカ級の一括建造に取り掛かった。1943年7月8日に一番艦の「カサブランカ」が竣工してから、最終艦の「ムンダ」がちょうど一年後の1944年7月8日に竣工するまでの間、ほぼ一週間に1隻のペースで新造航空母艦が送り出された

 

 日本の航空母艦

真珠湾攻撃 七隻 

   竣工   全長m   乗員  速力ノット 搭載機
赤城 1927/3/25  260   1630   31.2     91   1942/6/6沈没ミッドウエイ海戦221名戦死
加賀 1928/3/31  239   1270   27.5     60   1942/6/5沈没ミッドウイ海戦811名戦死
蒼龍 1937/12/29  227   1100   34.9     72   1942/6/5沈没ミッドウエイ海戦718名戦死
飛竜 1939/7/5   227   1103   34.3     73   1942/6/6沈没ミッドウエイ海戦417名戦死
瑞鳳 1940/12/27 205.5   977   28.3     30   1944/10/25沈没レイテ沖海戦216名戦死
翔鶴 1941/8/8     257.5 1660   34        77   1944/6/19沈没マリアナ沖海戦1227名戦死
瑞鶴 1941/9/25  257.5  1660   34        69   1944/10/25沈没レイテ沖海戦843名戦死

 

他に開戦時保有 一隻 

龍驤  1933/5/9 180     916         29      48        1942/8/24沈没第二次ソロモン海戦121戦死

 

真珠湾攻撃以後竣工 5隻

雲龍 1944/8/6 227.3 1561 34.3 60 1944/12/19沈没済州島沖1241名戦死
大鳳 1944/3/7 260.6 2038 33.3 53 1944/6/19沈没マリアナ沖海戦潜水艦攻撃
信濃 1944/11/19 2400 27 1944/11/29沈没潮岬沖791名戦死
葛城 1944/10/15 227.4 1500 32 53 1946/1947解体
天城 1944/8/10 227.4 1571 34 47 1945/7/28被弾転覆

 

水上機母艦潜水母艦、客船から改装 11隻

龍鳳 1942/11/30潜水母艦改装  215.7 989 26.2 31 1946/9/2呉にて解体
千歳 1943/12/15水上機母艦改装   192.5  965 29.4 計画30 1944/10/25沈没レイテ沖海戦903名戦死
千代田 1943/12/15水上機母艦改装 192.5 1084 29.5 計画28 1944/10/25沈没レイテ沖海戦総員戦死
祥鳳 1942/1/26潜水母艦改装   205.5   836 28.2 28 1942/5/7沈没珊瑚海海戦631名戦死

隼鷹 1942/5/3                              219.3 1187 25.5   53 1946解体
飛鷹 1942/7/31                            219.3  1187  25.5  53 1944/6/20沈没マリアナ沖海戦
神鷹1943/12/15客船改装    198.3  834 21 33 1944/11/17沈没済州島沖1165名戦死
海鷹 1943/11/23アルゼンチナ丸改装  166.5      587    23     24 1945/7/24触雷擱座

大鷹 1942/8/31春日丸改装     180.2     747    21     27 1944/10/10沈没ルソン島沖
雲鷹 1942/5/31八幡丸改装     180.2  747  21  27 1944/9/17沈没台湾沖1650戦死
沖鷹 1942/11/25新田丸改装   180.2  850  21   27  1943/12/4沈没八丈島

龍鳳 1942/11/30潜水母艦改装  215.7  785  26.2  31  1946解体

 

合計24隻 内20隻沈没