最初の陸軍特攻隊と9回出撃して帰還した特攻隊員

陸軍最初の特攻隊 


第二次世界大戦当時、空軍はなく、海軍と陸軍がそれぞれ航空部隊を持っていた。

1944年11月、海軍に続き、陸軍でも飛行機による特攻攻撃がフィリピンで始まる。

陸軍の最初の特攻隊は岩本益臣大尉を隊長とする万朶隊(ばんだたい)とされている。

ほぼ同時に富嶽隊も出撃した。

岩本は陸軍士官学校53期で当時は跳飛爆撃という新たな爆撃方法の開発訓練を続けており、特攻には批判的であった。

結局、岩本大尉は万朶隊隊長に任命されるが、司令部に出頭を命じられ単機でマニラ到着寸前、米軍機に撃墜され1944年11月5日戦死、自身は特攻に参加できなかった。

1943年12月に結婚し1年も経っていなかった。

 

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岩本益臣

11月12日隊長を失った万朶隊は特攻を行った。 

その戦闘について、大本営は次のように発表した。
大本営発表(昭和19年11月13日午後2時)

一、我が特別攻撃隊万朶飛行隊は、戦闘機援護の元に、11月12日レイテ湾内の敵艦船を攻撃し、必死必殺の体当たりをもって、戦艦一隻、輸送船一隻を撃沈せり。本攻撃に参加せる万朶飛行隊員次の如し。

陸軍曹長 田中逸夫
同    生田留夫
陸軍軍曹 久保昌昭
陸軍伍長 佐々木友次
右攻撃において、掩護戦闘機隊員、陸軍伍長 渡辺史郎また敵船に体当りを敢行せり。

二、万朶飛行隊長陸軍大尉 岩本益臣、同隊員陸軍中尉 園田芳巳、同 安藤浩、同 川島孝、同少尉 中川勝巳は、攻撃実施数日前、敵機と交戦戦死し、本攻撃に参加する能わず

 

これは陸軍特別攻撃隊についての、最初の大本営発表であった。しかし、この発表のなかの佐々木伍長は体当りもしていないし、戦死もしていなかった。陸軍と大本営の勇み足であり、この後も、佐々木は何度も出撃を繰り返しながら生還し、戦後を迎える

 

陸軍では7月には特攻隊の検討が始まっていた。

 

元来、陸軍の爆弾は、地上の攻撃に効果のあるように作られている。艦船を目標に爆撃すると甲板に当ってすぐ爆発するが、海軍の爆弾は徹甲爆弾で甲板を貫通した後に爆発する。戦線は南東方面に拡大していたので、陸軍機の艦船攻撃は、ますます必要になろうとしていた。第一線の実戦部隊からは、海軍と同じような、艦船攻撃に効果ある徹甲爆弾を要求したが実現しなかった。

 

 陸軍が特攻用に最初に使った飛行機は九九式双発軽爆撃機であった。爆弾搭載量や航続距離よりも、戦闘機並みの速度と運動性能が重視し、主として敵飛行場において在地敵機を撃滅することを目的として開発された。それでも戦闘機に比べると速度、機動性に劣り、特攻で戦果を挙げるのは難しかった。乗員は、操縦者・無線手・射手(2名)の計4名。

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飛行する九九式双発軽爆撃機(キ48) (飛行第34戦隊所属、1944年以前撮影)

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特攻機に改造された九九式双発軽爆撃機、突き出ている3本の管が爆弾の起爆管、のちに1本に改修された

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フィリピンへ出発直前の万朶隊、前列左から3人目が隊長の岩本益臣大尉

 九九双軽は胴体下部に通常装備では300kgの爆弾を懸吊するが、特攻機では800㎏爆弾を括り付け、機内から落とせないように改造された。機首には長さ三メートルほどの金属の細い管が三本突き出している。これは起爆管で何かにふれると爆弾は爆弾倉の中で爆発し、機体も乗員も吹き飛ばす。

 

これを知った岩本大尉は万一敵艦を見つけられず帰還する場合などに備え、爆弾を投下できるように改造した。

 

10月21日 陸軍士官学校出身の将校操縦者4名、下士官操縦士8名、通信係4名、機体整備11名の万朶隊が結成された。

 

10月29日万朶隊はフィリピンのリバ飛行場に到着した。

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フィリピンに到着した直後の隊長の岩本益臣大尉と万朶隊隊員

 

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フィリピンで爆弾を搭載し訓練飛行中の万朶隊の九九式双発軽爆撃機、改造後で機首の起爆管が1本になっている

10月30日岩本大尉は操縦士だけを集合させた。

「我々の任務はレイテ湾のアメリカ艦隊を爆撃、撃沈させることにある。その攻撃方法を研究するのだが、その前に我々の飛行機について説明する。我々の九九双軽で角が3本あるものは爆発を確実にするためというが、実際には1本あれば十分である。また3本もあると飛行に差しさわりがある。そこで3本のものは1本にしてもらった。また、爆弾を投下できないようになっていたのを、できるようにした。

操縦者も飛行機も足りないというときに、一度だけの攻撃でおしまいというのは、余計に損耗を大きくする。要は爆弾を命中させることで、体当たりで死ぬことが目的ではない。これは岩本が命が惜しくてしたのではない。自分の命と技術を、最も有意義に使い生かし、できるだけ多くの敵艦をしずめたいからだ。」

 

岩本は急降下爆撃について話し、

「これぞと思う目標をとらえるまでは、何度でも、やり直しをしていい。それまでは、命を大切につかうことだ。決して無駄な死に方をしてはいかんぞ」

岩本はフィリピンの150近い着陸地点を示した地図を配った。

「出撃しても、爆弾を命中させて帰ってこい」

それからは急降下だけでなく着陸訓練も繰り返し行われた。

 「不死身の特攻隊」p69

 

1944年11月5日午前8時、岩本大尉他4人の将校は九九双軽に搭乗しただ一機でリバ飛行

場からマニラに向かった。万朶隊の操縦将校全員であった。直線距離で90キロ、約20分。しかし、いつ頻繁に空襲に来る米軍機と遭遇するかわからなかった。

岩本達が飛び立ったリバ飛行場では、その日も米軍機の空襲があった。石綿軍曹が頭に負傷した。整備のために来ていた民間人が死亡した。特攻機も二機破壊された。

岩本大尉の九九双軽はマニラ上空にさしかかったその時グラマンF6Fヘルキャット2機が後方から襲撃、撃墜され、最終的に岩本達全員が戦死してしまった。

なぜこのようなときに、マニラに行ったのか?

 

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マニラには岩本達が所属する第四航空軍の指令部があり、冨永軍司令官が特攻隊員のための宴会をするために岩本大尉らをマニラに呼んだ。冨永軍司令官は特攻隊に対しては、熱誠あふれるという態度で会見し、さらには必ず宴席を設けて、壮行を激励した。その温情ぶりには、多くの特攻隊員は感銘をうけていた。これは冨永中将が陸軍次官や人事局長の要職にいた間に身につけた宴会政治による人心をとらえる手段でもあった。岩本大尉は、その前にも、冨永軍司令宮に着任の申告のために、バコロド基地まで飛んだ。これは、冨永軍司令官が特攻隊員と早くあいたいという要望のためであった。

 

11月8日万朶隊はリバからカローカン飛行場に移った。残された下士官操縦士で健在なのは佐々木を入れて5名。

 

「万朶隊」隊員を激励するため、11月10日に第4航空軍司令官富永は同じ特攻隊の「富嶽隊」隊員と共に全隊員をマニラでの会食に招いた。その席で富永は自ら「万朶隊」の隊員ひとりひとりに酒を酌して回り、「とにかく注意してもらいたいのは、早まって犬死にをしてくれるな」「目標が見つかるまでは何度でも引き返してかまわない」と声をかけた。

 

体当たりをせずに爆弾を投下して帰還しようと密かに考えていた佐々木は、富永の「何度でも引き返してかまわない」という言葉に心をひかれた。富永はさらに「最後の1機には、この富永が乗って体当たりする決心である。安んじて大任を果たしていただきたい」という言葉をかけたが、それを聞いた佐々木は「これほど温情と勇気がある軍司令官なら、自分の決死の計画も理解してもらえる」と意を強くした。

 

富永は、その後、比での敗北が明確になった後、体当たりすることもなく、その上、命令もないのに台湾に脱出した。一方、佐々木は何度も特攻出撃し、そのたびに帰還した。

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隊長の岩本益臣大尉ら士官が戦死したのちマニラに招かれた万朶隊隊員、酒を酌しているのが第4航空軍富永恭次中将、酒を注がれているのが空襲で負傷し頭に包帯を巻いてる石渡俊行軍曹

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初出撃日に日本酒で乾杯する万朶隊隊員、左から佐々木友次伍長、生田留夫曹長、田中逸夫曹長、久保昌昭軍曹、奥原秀孝伍長

 11月12日の空は快晴。カローカン

午前4時に第4航空軍司令官富永が隊員ひとりひとりと握手をかわすと訓示を行った。

出撃は4機の「九九式双発軽爆撃機」に5名の「万朶隊」隊員が搭乗して行われた。本来、「九九式双発軽爆撃機」は4名で運用するが、機銃などは特攻機改造で身軽にするため全て撤去しており、通信士の搭乗する1番機を除いては、全機操縦士1名で飛行した。

先に戦死した岩本以下4名の霊位の紙片が入った白木の箱を抱いた「万朶隊」隊員には、日本酒が振る舞われ、海苔巻きや餅も出された。

4機は多くの幕僚、飛行兵、整備兵に見送られながら順に離陸、飛行場上空を一週すると編隊を組んでレイテ湾に向かった。護衛には一式戦闘機「隼」が11機ついた。途中で1機がエンジン故障で引き返したが、残り3機はレイテ湾に突入した。援護についていた「隼」は船団を護衛していた「P-38」と空戦となり、空戦で被弾した第24中隊の渡邊史郎伍長も、搭乗していた「隼」で「万朶隊」と共に敵艦隊に突入した。しかし特攻機種、特攻の時間から万朶隊の攻撃による損失とみられる米軍報告はない。

 

第4航空軍はこの攻撃で戦艦1隻、輸送艦1を撃沈したと戦果判定し、南方軍司令官寺内寿一大将より戦死した4名への感状が授与がされることとなった。この戦果は、戦果確認の将校直掩機が3機も帰還して報告したにもかかわらず 過大戦果発表であった。

 

突入した「万朶隊」の4名は全員戦死と思われていたが、後に佐々木が敵艦に体当たりせず通常攻撃を行い、ミンダナオ島のカガヤン飛行場に生還していたことが判明した。ミンダナオからカローカンに帰ってきた佐々木に、第4飛行師団参謀長の猿渡が「どういうつもりで帰ってきたのか」と詰問したが、佐々木は「犬死にしないようにやりなおすつもりでした」と答えている。第4航空軍司令部にも出頭し、参謀の美濃部浩次少佐に帰還を報告したが、美濃部は大本営に「佐々木は突入して戦死した」と報告した手前「大本営で発表したことは、恐れ多くも、上聞に達したことである。このことをよく胆に銘じて、次の攻撃には本当に戦艦を沈めてもらいたい」。

天皇に報告した通りに死ななければいけないという不条理に佐々木は憤然としたが、軍司令官の富永は思いのほか優しく、軍司令官室に入って佐々木が敬礼するなり「おお、佐々木、よく帰ってきたな」「よくやった。これぞという目標をとらえるまでは、何度でも帰ってこい。はやまったりあせってはいかん」と下士官に対しては破格の声をかけて、「昼飯を一緒に食べようと思ったら、他に予定があるそうだ。せっかくだから、お土産を進呈しよう」と上機嫌で缶詰を佐々木に手渡した。佐々木は軍司令官から贈り物をもらって光栄な思いを抱きながら司令部から退去した。

 

11月15日、負傷から復帰した石渡俊行軍曹が隊長となり、前回出撃から漏れた近藤行雄伍長、前回出撃しながら帰還した奥原と佐々木の4機が「万朶隊」第二回目の出撃を命じられたが、初出撃日と違って天候に恵まれず上空に雲が多かった。4機は離陸後に飛行場上空で空中集合して編隊を組んで進撃する予定であったが、初陣の近藤機が自分の位置を見失って墜落、佐々木機と奥原機は雲に遮られて予定の空中集合ができずに再び帰還した。隊長の石渡は単機で進撃したと思われるが、そのまま行方不明となった。佐々木はこの日に再び特攻に失敗したとされて、戦死公報は取り消され、感状の授与は見送られた。こののち、「万朶隊」初回出撃の戦果によって、11月12日に戦死した田中と生田と久保の3名に感状の授与、さらに一緒に敵艦に突入して戦死した護衛戦闘機隊の渡邊を含めた4名に対して少尉への特進と、特旨による論功行賞が発令されている

 

その後の11月25日に3回目の「万朶隊」の出撃がわずかに残っていた奥原、佐々木の2名に命じられたが、出撃直前にアメリカ軍艦載機の空襲を受けて、奥原が爆撃により戦死、両名の九九双軽も撃破されてしまった。負傷により入院中の2名を除けば「万朶隊」は佐々木ただひとりとなってしまった。

 

11月28日4度目の出撃命令。ただ一機での出撃だった。猿渡参謀長は「立派に体当たりするんだ」と命じ、佐々木は直掩機6機とともに飛び立った。しかし隊長機はレイテ湾が見える距離で急旋回し、僚機も佐々木も基地に戻った。

 

12月4日5度目の出撃命令。ただ一機の出撃。「隼」二機が直掩した。

 

この日まで10月25日の海軍最初の特攻隊、敷島隊以来、陸海軍合わせて40隊以上が特攻出撃していた。米軍は対策として空母に乗せる急降下爆撃機の数を半減させ、艦上戦闘機の数を倍にした。また特攻機の目標である空母の前方60海里(約110キロ)にレーダー警戒駆逐艦を多数配備し、近づく特攻隊をいち早くレーダーで捕捉し、多数の艦上戦闘機が上空で待ち構え、それも通常三波の体制で迎え撃った。

 

さらに米軍は近接信管(VT信管)という目標に当たらなくとも目標物が15メートル以内に近接すれば電波発信機などで爆発しその破片で機体を破壊できる信管を開発した。また、40ミリ機関砲を艦船に大量に増設し特攻機が接近することを困難にした。

 

 レイテ湾上空、米軍戦闘機の編隊が現れた。佐々木は編隊を離脱し、800㎏爆弾を投下しネグロス島バコロド飛行場に着陸した。すでに夜になっていて、翌朝マニラ近くのルバング島に着陸し、マニラの空襲が終わるのを待ちカローカンに帰った。

 

帰るとすぐに6度目の出撃を命令された。内地から来た九九式襲撃機3機の特攻隊「鉄心隊」と共に出撃、「どれでもいいから、見つけ次第突っ込め」と言われた。すでに800㎏爆弾はなく500㎏爆弾を装着発進した。

12月6日、佐々木は「鉄心隊」(九九式襲撃機、隊長松井浩中尉)と一緒にカローカン飛行場から出撃、数時間の飛行でレイテ湾まで到達し、アメリカ軍の無数の艦影を確認し突入していく松井機に続いて佐々木機も急降下を開始した。佐々木はやがて大型船(艦種不詳)を視認したので、攻撃突入した。無数の対空砲弾を掻い潜りながら、大型船から200mから300mの高度で爆弾を投下、命中の瞬間は海面すれすれでの待避し確認できなかったが、振り返ると大型船に火柱が上がってはいなかったものの傾いていたように見えたので、この大型船を撃沈したと判断し「レイテで大型船を撃沈しました」と報告している。しかし米軍記録に該当するとみられるものはない。

 

佐々木は1回目と同様、ミンダナオ島カガヤン飛行場に着陸した。

カガヤンで佐々木は耳が聞こえなくなっているのに気が付いた。2日間宿舎で休んだ。12月8日3回目の開戦記念日。耳が回復した佐々木は短波放送で大本営発表を聞いて耳を疑った。12月5日に万朶隊の一機が戦艦か大型巡洋艦一隻を隊は炎上し、万朶隊隊員として佐々木と石綿軍曹の名前が挙げられた。佐々木にとって2度目の戦死発表だった。

佐々木はこの出撃で「戦死した」と第4航空軍から陸軍中央に報告されており、天皇から金鵄勲章と勲6等旭日章が授与されることが決定した。この一連の受勲によって佐々木は公式には戦死扱いとなった。しかし、今回カガヤンにいることは無線で連絡し、返電も来ていた。さらに2回目の出撃で行方不明になった石綿軍曹の名前も挙げられていた。

 

佐々木の故郷、当別村は大本営発表と新聞発表で、大騒ぎになった。最初の特攻戦死、次に生還、そして2度目の特攻戦死。再び大掛かりな葬式が行われた。

 

12月9日佐々木は午後4時にカガヤンを離陸、悪天候の中、暗闇となったマニラの北に不時着した。幸運にもゲリラに襲撃されず村のフィリピン人村長の家に泊めてもらった。

カローカンに戻り、司令部に呼び出されると、戦果については触れられず、帰ってきたことを責められた。反論は許されなかった。佐々木は「体当たりした」と報告した直掩隊の操縦士に会って事情を聞いた。操縦士は、佐々木が爆弾を落としたところまでは見たが、自分が一機だけになり、急いでその場を離れたため、その後の確認はできなかったことを正直に話した。

 

「特攻隊が体当たりしないで生きていると周りがうるさいだろう」と言われると

「いろいろ言われますが、船を沈めりゃ文句ないでしょう」と佐々木は答えた。

 

12月14日7回目の出撃命令。百式爆撃機「呑竜」(どんりゅう)9機の菊水隊特攻に参加せよという命令だった。直掩3機。百式重爆は爆撃専門で最高速度は500kmに満たない。米軍ヘルキャットは600キロ、ムスタングは700キロを超える。直掩「隼」は550キロ前後。動きの遅い重爆の結果は明らかだった。

午前7時離陸。急に佐々木の機体は動揺し滑走路から飛びだした。整備不良だった。重爆は特攻に進撃し、佐々木は取り残された。

 

12月16日早朝8回目の出撃。旭光隊(きょっこうたい)と共に出撃、ただし、旭光隊の2機はミンドロ島の東回り、佐々木は一機で西回り、直掩なしで、援護も戦果確認も不可能だった。佐々木は攻撃せずに帰還した。

 

12月18日9回目の出撃命令。マニラ上空で異常な爆音が発生し、空気と燃料の混合比を表示する計器に異常。カローカンに帰還した。事故報告後、発熱。何日も40度の熱を出してマラリアで休んでいる時のことを若桜隊の池田伍長が手記に書いている。

「ぼくらは毎日、万朶隊の佐々木伍長の部屋に行き、話し合いました。彼は何度か出撃し、戦果を挙げて帰還していました。僕らはその考えを何度も難詰しました。彼は『死んで神様になっているのに、なんで死に急ぐことがあるか。生きられれば、それだけ国のためだよ。また出撃するさ』と、タンタンとしておりました」

佐々木が高熱で休んでいるときに出撃命令が出た。

「命令伝達に来た将校が、本人が起きることもできないでいるのに、『貴様は仮病だろう』と聞くに堪えない悪罵を残して帰っていきました。彼(佐々木)は、『軍神は生かしておかないものなあ』と言って、寂しく笑っていました。この光景は私たちに大きい衝撃となって心に焼き付いてしまいました。この時のことを一生忘れることはないと思います。僕はこの時、はっきりと、特攻隊という言葉からくる重圧感から解放されて、命ある限り戦うことを固く心に決めました。死ぬことの苦悩から解放された後は、案外さっぱりした気分になって過ごしたものです」

池田伍長は、21日特攻隊として出撃したが、生還した。

 

帰還を続ける佐々木に猿渡参謀長は「爆撃で敵艦を沈めることは困難だから、体当たりをするのだ。体当たりなら確実に撃沈できる」と次回出撃時は確実に体当たりするよう諭したが、佐々木は「私は必中攻撃で死ななくてもいいと思います。その代わり、死ぬまで何度でも行って、爆弾を命中させます」と反論している。上官に対する明白な反抗で本来であれば軍法会議行きでもおかしくなかったが、この時はさらに罵倒されただけで不問とされている。佐々木が特攻から幾度となく帰還しても処罰されなかったのは、司令官の富永の裁量であったとも言われる。初出撃前の宴会で顔見知りとなっていた毎日新聞の従軍記者の福湯には「むざむざ死ぬ必要はないでしょう。生きていた方が、それだけ仕事ができるものですからね」と別にふてくされた様子も無く、笑顔で話していたという。

 

 1月6日マニラ北西リンガエン湾に、米艦隊が進撃し、艦砲射撃を開始。米艦隊は700隻近い大船団であった。1月9日米軍上陸開始。

1月16日冨永司令官は台湾に逃亡した。本人は電報で命令を受けたと言ったが、大本営南方軍も命令を出していなかった。

1月23日陸軍省は佐々木を含めた特攻隊の数名の戦死者に感状が出され、上聞に達した(天皇に報告した)と発表した。佐々木は2度、生きたまま死んだと報告された。

1月24日命令を受け佐々木はカローカンからエチャーゲにたどりついた。しかし、そこには、「死んで来い」と何度も言った猿渡参謀長がいた。「お前は死んだんじゃなかったか、お前には死なねばならんことを言い聞かせたはずだ。勝手にしろ」と言われた。

 

1月25日母イマは大日本国防婦人会から表彰された。

 

エチャーゲからは軍人や民間人が台湾に脱出していた。ツゲガラオからは台湾へ飛行機が出ていて、操縦者は優先して送り出されていたが、証明書が必要だった。しかし佐々木は戦死しているのだからと言って証明書を出さなかった。

5月末には台湾向け空輸は米軍が完全に制空権を確保し不可能になった。

6月15日ごろ、米軍がエチャーゲに進撃。佐々木は山の中に逃げ込んだ。粗末な仮小屋を作り、フィリピン人から盗むか食べれるものは草でも虫でもなんでも食べた。

8月15日終戦。降伏を勧めるビラがまかれた。

マニラ近くの捕虜収容所を経て、カンルーバン収容所に送られた。そこで佐々木は読売新聞の鈴木英次記者と再会する。彼は驚く話をした。

「第四航空軍は佐々木と津田少尉の銃殺命令を出していた。大本営発表で死んだ者が生きていては困るからそんな命令を出したのだ。その命令は第四飛行師団の猿渡参謀長が実行するはずだった。わからないように殺すために狙撃隊まで作っていた」と。

同じころ、津田少尉もまた、高千穂空挺隊の大尉から、殺せという命令が出ていたという話を聞いた。

 

1946年1月6日マニラから場合によっては自ら沈めたかもしれない米軍楊陸船で帰国

浦賀の収容所に2日いて、収容所から浦賀駅に向かって復員部隊が歩いていくと

「日本が負けたのは、貴様らのせいだぞ」

「捕虜になるなら、なぜ死ななかったのか」と罵声が浴びせられた

佐々木は東京駅から市ヶ谷の第一復員局に行った。そこで責任者に会った。

それはかつて自分を幾たびも特攻に向かわせた猿渡参謀長だった

しわが深く薄汚れた姿は何の威厳もなかった

 

1950年佐々木は結婚した。北海道で農業を続け、4人の子供を育てた。

2016年2月佐々木は92歳で札幌の病院で亡くなった。

 

 

佐々木は1923年6月27日北海道石狩群当別村生まれ

7男5女の12人兄弟、開拓農家の6男

父藤吉は日露戦争の時、旅順を攻撃する白襷しろだすき隊の一員だった。ロシア軍の機関銃は敵味方を識別する白い襷を目標に銃弾を浴びせ大損害を出させた。藤吉はこの激戦から生還した。子供達には「容易なことで死ぬものではない」と教えた。

佐々木友次は17歳で逓信省航空局仙台地方航空機乗員養成所入所、平時は民間の仕事に従事し、実際は陸軍の予備役を作る養成所だった。軍隊同様の厳しい生活でしごきや体罰があった。鉾田陸軍飛行学校に配属後、九九双軽で急降下爆撃訓練を受け、腕を上げ陸軍最初の特攻隊に選ばれた。

 

冨永恭二司令官は台湾逃亡後、5月5日予備役編入の処置がとられ、日本へと帰国した。しかし、「死ぬのが怖くて逃げてきた人間を予備役にして戦争から解放するのはおかしいのではないか」という根強い批判もあって、7月に召集し、第139師団の師団長。この部隊は関東軍の主力が南方に転出した後の穴埋め用根こそぎ動員部隊の一つである。8月のソ連参戦、第139師団はソ連軍と戦闘することはなく、終戦後の8月22日に武装解除されて捕虜となり、富永ら司令部准士官以上は、9月将校大隊に編入後、沙河沿飛行場に移動。掖河に移動後、11月3日綏芬河経由でソ連へと送られた。

捕虜となった富永は、ハバロフスクの収容所に一時拘禁されたのち、モスクワに護送され、ルビャンカの監獄に拘置された。ソ連の諜報員で戦後ソ連当局に逮捕されて禁固刑に処されたレオポルド・トレッペルによれば、ブティルスク監獄において冨永と同室だったとしている。

富永は、大使館付の武官補佐官として、ヨーロッパ方面にいる白系ロシア人と連絡を取るためフランスに派遣されたり、関東軍の参謀時代にも対ロシア諜報や謀略に携わり、参謀本部の作戦部長のときは東條の下で対ソ連攻撃計画にも深く関与するなど、常にソビエト連邦と密接な関係を有する職務にあったので、尋問は非常に綿密に行われたが、富永がなかなか核心に触れなかったので、尋問は長期に渡って行われ、その期間は6年もの長きに渡った。

しかし、その尋問で富永が、1941年のソ連攻撃計画(いわゆる関東軍特種演習)について「私は宮中に行き、天皇閑院宮載仁親王にこの計画を説明した」「数日後、天皇はこれを承認した」という自供をしたとされ、この自供は天皇の戦争責任を追求するためのソビエト連邦プロパガンダとして利用されて、1946年8月31日にはモスクワから全世界に向けてラジオ放送されている。
その後、1952年1月モスクワ軍管区の軍法会議にかけられ、当初は死刑を求刑されていたが、懲役75年の判決が確定して、シベリア鉄道とバイカル・アムール鉄道(バム鉄道)の沿線となるタイシェットのラーゲリに送られた。バム鉄道沿線のラーゲリの労働条件はもっとも厳しく、特にバム鉄道の建設に従事させられた抑留者は「枕木1本に日本人死者1人」と言われたぐらい死亡者が多かったという。

そのような環境下で、富永は将官であったからといって特別扱いを受けることは無く、一般の兵士と同様に、材木のノコギリ引き、建材製造、野菜の選別、雪かき、掃除等の重労働が課せられた。その後も、2年で4カ所のラーゲリを転々とさせられ、ラーゲリ内では看守から踏んだり蹴ったりという暴力を振るわれていたという。
ラーゲリでは、ソ連側の政治教育が継続的に行われていたが、もっとも重要視されたのは、天皇制破壊、天皇制打倒だった。ソ連は教育を受け入れた者は早めに帰国させるという条件を出していたので、早く故国に帰りたいという一心でソ連の政治教育を受け入れた抑留者も多かったが、富永はそれをはねのけていたという。そのためか体調がすぐれない富永に他の健常者と同様な強制労働が課せられていたが、同じ抑留者たちが富永を支えてくれたので、どうにか生き長らえることができた。しかし、1954年春に高血圧症から脳溢血を発症して入院、医師の診断の結果、今後、強制労働につくのは無理とされて、裁判により釈放が決定された。富永はその判決を病院までわざわざ出向いてきた裁判官から直接聞かされたという。 

1955年、10年の捕虜生活後、帰国し、1960年68歳で亡くなった。

長男富永靖は慶應義塾大学卒業後に特別操縦見習士官1期生となったが、特攻隊員に志願。第58振武隊員特攻隊員として、1945年5月25日、父恭次から貰った日章旗と母セツが準備した千人針を携えて、四式戦闘機「疾風」爆装機に搭乗し都城飛行場より出撃し特攻戦死した

 

富嶽

鉾田の万朶隊同様、1944年7月、浜松教導飛行師団は特攻隊編成の内示を受け、同師団の第1教導飛行隊を母隊として特攻隊を編成し1944年10月26日、参謀総長代理菅原道大航空総監が出席し出陣式が行われ、富嶽隊と命名された。

改造された四式重爆撃機(飛龍)は海軍の八十番(800kg)徹甲爆弾2発を内蔵。1発は爆弾倉に入れるが、800㎏爆弾は長すぎてそのままでは入らない(通常最大500㎏爆弾まで)ため、尾翼をはずし、もう1発は通路に縛り付け、爆弾倉の爆弾が爆発すると誘爆して爆発する。信管安全装置は機上で解除。機首・背部銃座の機銃をはずし機関砲のダミーとして黒色の棒を装着、乗員数を通常8名から2〜3名に減らした。また、万朶隊の軽爆撃機同様、機首から長く付きだした棒状の信管が装備されたが、これは空力的に悪影響があったという。少なくとも15機が特攻機に改造された。

 

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四式重爆撃機

隊長は陸軍士官学校50期、西尾恒三郎少佐。以下26名。西尾少佐は4月に結婚して、半年。母一人子一人。

 

11月1日西尾少佐以下5名がルソン島マルコットからネグロス島バコロド飛行場に富永指令官への挨拶に飛んだ。米軍を避けるため17時に出発、島かげから島かげへと低空で米軍のレーダを避けながらの飛行だった。彼らは無事に帰ったが、11月5日万朶隊の岩本隊長他4名はマニラに戻った富永司令官へ呼ばれて到着寸前で米軍機に撃墜された。

 

11月7日西尾少佐以下11名出撃 

第一編隊 一番機、西尾少佐(操縦)柴田少尉(航法)米津少尉(無線)
     二番機、山本中尉(操縦)浦田軍曹(機関)
第二編隊 三番機、石川中尉(操縦)本谷曹長(無線)
     四番機、曾我中尉(操縦)前原中尉(機関)
     五番機、国重准尉(操縦)島村准尉(機関)

しかし敵艦を発見できずリンガエン飛行場に戻った石川機以外はマルコットに帰還した。山本機も一旦基地上空まで戻ったが、そのままレイテ湾方向に進撃し、その後帰還せず、特攻戦死扱いとなった。山本機には無線も載せていなかった。

 


『陸軍特別攻撃隊』&『特攻護国隊』

11月12日午前二時出撃命令。2度目の出撃で、今度は機関係が増え13名の編成。

午前3時万朶隊もカローカンから出撃。富嶽隊は敵艦隊を発見できずマルコット飛行場に帰った。午後、万朶隊の戦果が発表されたが(大本営発表は13日)事実とは異なっていた。

11月13日、マルコット飛行場は朝から空襲だった。富嶽隊は午後三時出撃命令。暗闇の中、百司偵の確認報告では隊長西尾常三郎少佐以下6名2機が米機動部隊に突入して戦死した。 戦艦1隻撃沈と発表されたが米軍記録には被害がない。

 

陸軍中央は海軍が「万朶隊」と「富嶽隊」のような爆撃機ではなく、小回りの利く「零戦」や艦上爆撃機「彗星」などの小型機による特攻で成果を挙げていることを知り、明野教導飛行師団で一式戦闘機「隼」などの小型機による特攻隊を編成し、「八紘隊」と名付けてフィリピンに投入した。その後は、万朶隊や富嶽隊のような特攻改造をしない戦闘機や古くなって生産中止となるような襲撃機などが使われた。


Kamikaze Attack 1944 color film