鳥浜トメの戦後

「ホタル帰る」赤羽礼子・石井宏 著 より

知覧は軍の基地のあった町なので真っ先に米軍が占領すると言われたのに、実際には米軍はなかなかやってこなかった。十二月になってようやく米軍が来ることになった。その情報が流れると、知覧の町民の不安は頂点に達した。つい先日までは"鬼畜米英〃であったから、何をするかわからない凶暴な人間たちがやってくるのだと人々は思った。富屋の向かいの内村旅館が米軍の宿舎となることに決まり、突貫工事で改装が行われた。井戸をやめて水道とし、畳をはがして板張りとする。問仕切りはすべて襖ではなく壁とし、便所は洋式トイレとなり、風呂場はシャワーになった。大型のベッドが持ちこまれ、見たこともない大型の冷蔵庫などが持ちこまれた。

しばらくして福元警察署長がトメのところに折り入って相談にやってきた。署長によると、米軍の本隊は約二十人がまもなく到着する。さらに署長は語を継いで、トメヘの"折り入ってのお願い"の内容を話した。その願いとは、つい先頃まで特攻兵たちが富屋に出入りし、そこでくつろいで楽しい時を過ごしたように、米兵が来たら、富屋に自由に出入りさせて、楽しい時を過ごさせてやってくれということだった。特攻兵を可愛がったトメさんなら、それができる。もしトメさんがあいつらを手なずけてくれれば、あいつらが知覧の町をうろつく必要がなくなり、町の人に危害を加える機会も減るというものだ。こういう仕事はいやだろうが、トメさん以外にはできない。どうか町の治安を維持するためにご協力いただけないか。トメは即座に断った。自分の耳には、特攻として散っていったあの子たちが「小母ちゃん」と呼ぶ声がいまも聞こえているし、ニコニコと笑いかけてくる顔が目の前に浮かんでいる。あの子たちの命を守ることのできなかった自分の無力さに、いまも涙を流す毎日なのに、どうして掌を返したように、あの子らの敵であるアメリカ兵たちをチヤホヤしなければならないのか。

進駐軍は十二月の半ばを過ぎた頃、知覧にやってきた。任務は治安状況の視察と飛行場や軍関係の施設の跡始末であった。到着の日に町として歓迎会をやることになった。なるべく米軍との関係をよくして、何事もなく駐留してもらおうというのが町側の趣旨である。警察署長の懇願で、歓迎会場は宿舎の内村旅館とは目と鼻の先の富屋食堂ということになり、開催にあたって署長はトメに日本料理を出すことを依頼した。

富屋に初めて外国人が入ることになり、知覧の歴史始まって以来の日米合同パーティーが行われることになった。米軍の一行は二二名、隊長はホールマンと言った。みんな鴨居に頭をぶつけそうな大男ばかりで、彼らが入ってくると富屋食堂が急に小さく見えた。警察署長、町長、米軍の隊長らの短いスピーチが終わって、ビールがつがれ、食事が始まった。トメはたちまち質問攻めにあった。これは何というものか、何でできているのか、食べられるのか、どうやって食べるのだ、フォークとナイフはないのか、ナプキンはないのか。

米兵は声も大きいし、遠慮を知らないらしく、思い思いに叫んだり笑ったりしている。確かに行儀は悪いが、鬼畜には見えない。隊長の前だが、兵隊たちには固苦しい様子はなく、階級差を超えて、まるで対等の仲間のようだ。日本軍の規律正しい世界を見てきたトメの前に突然に現れた自由奔放な新しい世界は、彼女を驚かすに十分であった。「よくまあ、こんな勝手な人たちに戦争ができるものだ」と。屈託ない男たちは屈託なく振る舞って出ていった。ガランとなった店内で後片付けをしながら、このあいだまでここに特攻兵たちが坐っていたことを思うと、再びトメには悲しみがこみ上げてくる。そして、敗けたという現実がどうにもならないことも身にしみて思い知らされる。

数日後、クリスマス・パーティーと称して、また米兵たちが富屋に乗りこんできた。今度は食糧持参である。内村旅館からいろいろな料理を大皿で運んできてテーブルの上に並べた。椅子を取っ払い、立ったままで缶の口からビールを飲み、立ったままで、料理を取ってむしゃむしゃと食べる。相変わらず大声で談笑し、食べながら歩きまわり、ポン、ポン、とクラッカーを鳴らす。いや行儀の悪いこと、あきれるばかりである。そのうちに、歌を歌い出した。クリスマスの歌なのだと通訳が教えてくれた。クリスマスなどという風習を知らないトメには何もわからないが、聞いたこともないような陽気な歌もあれば、ジーンとくるような歌もあった。やがて一つのテーブルに赤や緑の紙やリボンできれいに包装された大小さまざまな箱が積まれた。当番の下士官のような男が、ジョージとか、ジョーンとか名前を呼ぶと、ひとりずつ好きな箱を選んで取る。取るとその場で開封し、ワッと歓声を上げて中の品物を見せる。すると一同からドッと歓声やらひやかしの声やらが上がる。陽気で賑やかなこと、あきれるほどである。そのうちにひとり消え、ふたり消え、最後まで残っていた連中も飲みかけのビールの缶を持って出ていってしまった。あとで通訳の人に聞くと、これが〃パーティー〃というもので、立食はあたりまえで別に行儀の悪いことではないし、坐りたければ坐ってもいいし、爆竹を鳴らしてもいいし、ダンスをしてもいい。遅れてきても、先に帰ってもいい。すべてあたりまえで、陽気に一夜を過ごすアメリカ式のやり方だという。それは、上席から序列順に並んで坐る整然とした日本の宴席に比べるとひどく狼雑なものだが、そのエネルギーと活力には圧倒される。トメにとってはカルチャーショックであった。アメリカとは、まるで異次元の世界の情景だった。米軍はその年のうちにさらに二回も富屋で〃パーティー"をやった。一回はだれかの誕生日だということで、もう一回は大晦日であった。

そのたびにつきあわされたトメは、皆に紹介されたりして、顔と名前が一致するようになり、性格の個人差も少しずつわかるようになった。一様に騒いでいるように見えて、なかにはニコニコしておとなしいのもいるし、友好的なのもいれば、乱暴者もいるということがわかってきた。乱暴者のなかにハスキンというのがいて、この男はとくに危ないから注意しろと通訳に言われた。ハスキンはときおり外でピストルをぶっぱなす癖がある。富屋の裏庭でもパン、パンとやったことがある。怖い男だ。

年が変わって昭和二十一年。いよいよ知覧飛行場で、残っていた飛行機を燃やすことになった。すでに二五〇キロ爆弾の多くは信管を抜かれて枕崎の沖合に投棄されていたが、一箇だけその日のために残してあるとのことだった。、トメは飛行機を燃やすと聞いて、ぜひ、その前に飛行機に別れを告げさせてくれと申し出て許可された。トメは二人の娘に言った。「特攻の人たちのかたみの飛行機の残りがとうとう燃やされるんだって。あの人たちの心のこもった飛行機とも、これが最後のお別れになるんだからね、母さんはお見送りに行くよ。あんたたちも行きなさい。行ってあの人たちに最後のサヨナラを言うんだよ」寒い日だった。三人が関係者に伴われて陸軍の飛行場に着いたときは、冬の短い日はすでに西に傾いていた。そこはあの飛行機のエンジンが轟々と空気を響かせていたときのあの緊張はなく、ただ荒れた野原と化していた。トメたちは飛行場の端で止まるように言われた。飛行場の真ん中のあたりには、かつての特攻機が二つ三つすでにスクラップにされて山積みされていた。その残骸の遠景に向かってトメは手を合わせた。トメの胸中には、わが子の枢を見送るようなつらさがあったにちがいない。何を思ったかトメは遠からぬところに落ちていた棒杭を拾ってきた。「何もないけれど、ここに落ちていたのも何かの縁だろうから。.….」と言ってトメは地面をその棒で掘り、、先を一尺ほど植えこむようにして、その棒を地面に立てた。いま掘った土を掛けると、娘たちに言った。「さ、これがきょうからあの人たちのお墓の代わりだよ。だれも弔ってやらないからね。母さんはきょうから、これをあの人たち㊧お墓だと思って毎日お参りにくるから、あんたたちも毎日一緒にくるんだよ」娘たちは涙を拭きながらうなずいた。「あの人たちはお国のために尊い命を犠牲にしたんだよ。たった一つしかない命を投げうって死んでいったんだよ。それを忘れたら罰が当たるよ。日本人なら忘れてはいけないことなんだよ」いつしかあたりは夕闇が迫っていた。西の空の夕焼けも少しずつ消えていこうとしている。三人は携えてきたお花をその棒杭の墓の前に供えた。「こんな棒杭の墓で済まないけれど、みんなしばらくがまんしてください。いま皆さんの墓を作ったりすればすぐ壊されてしまうからね。こんな棒杭なら壊しにくる人もいないだろうからね。その代わり、毎日お参りにくるからゆるしてください」トメは生ける人に語るように、棒杭に向かって語りかけ、手を合わせた。

実際おそろしいほどの速さで世の中が変わってしまったのだ。もういまは特攻隊を称える人などだれもいない。そんなことをすれば、ただちに「軍国主義者」のレッテルを貼られて世の中から弾劾されるのだ。トメはただでさえ「軍の協力者」であり「特攻隊でもうけた富屋」と言われている。もちろんトメはなんと言われようとも耳を貸さないようにしているげれど、世間の口に戸は立てられない。聞きたくない噂も聞こえてくる。しかし、じっと辛抱するよりしかたがないとトメは思っている。いつかは逆風の遠のく日もくるだろうと。足どりも重く、三人はとぼとぼと飛行場からの道を下っていった。手にはいまお供えした花束が握られていた。もし花束が心ない人に発見されて、あの棒杭の意味がわかってしまったら、あの棒杭すら破棄されてしまうことだろう。あの墓を守るために、花を持ち帰ってきたのである。「母さんはね、いつかあそこに特攻兵の霊を弔うために観音様の像を建てるつもりだよ」とトメは娘たちに言った。「いまはまだできないけれど、きっと観音様を祀るからね。いまのような世の中では、お国のために死んだ人たちの霊は浮かばれない。でも母さんの回向くらいでは足りないからね……。大慈大悲の観音様ならあまねく衆生を済度して成仏させてくださる方だから、観音様におすがりするより、あの人たちのためにしてあげられることはないと思うのよ……」薄暮の中でトメの眼は遠くを見ていた。いつか観音像を必ず建てるという強い決意がそこにあった。

富屋に戻ると、その晩も米兵たちが騒いでいた。陽気で屈託ない若者たちはトメのことをいつのまにかママと呼ぶようになっていた。やれ、クリスマスだ、やれ大晦日だ、やれ誕生祝いだといって集まっては富屋で"パーティー"なるものをやっているうちに、彼らはトメに話しかけるようになった。もちろんトメは英語がわからないし、公用以外には通訳はつかないから、話はチンプンカンプンである。それがいつのまにか、トメのことをママと呼ぶようになったのはふしぎである。しかも、いわゆるバーの女主人などを指す「ママさん」ではなく、母親を指す「ママ」なのである。そして彼らはママに写真を見せるのだ。定期入れを大きくしたようなセルロイドのケースに何枚も写真を入れて持っている。「見てくれ、これ、おれのママだ。これダデイ」とくる。「うん、うん」とトメはうなずく。英語は知らなくても、写真の主を見れば何を言っているかわかる。「これ姉ちゃん、こっちが妹」「うん、うん」顔を見ればわかる。次をめくって米兵が写真にキスした。これもだれなのか、聞かずともすぐにわかる。一人がひととおり自分の写真を見せ終わると、隣の男も自分のを出してくる。「これマミー、これダディー」が始まる。そういうときの顔は、みな少年のようにあどけなくて、とても海兵隊の荒くれ男とは思えない。トメはあるとき通訳に彼らの齢を聞いたことがある。すると、隊長を除けばだいたい二十から二十二くらいまで、と言っていた。といえば、特攻兵たちと変わらない年齢である。それがトメのことを「母ちゃん」と呼ぶのである。どうしていつからそうなったのかわからないが、そうい

うことになった。

米兵が進駐してきた頃には、ススを顔に塗って隠れていた娘たちも、いまはトランプをしたり、本を見せてもらったりするようになった。近寄ってみれば、相手は"鬼畜"ではなかった。それにしても米兵たちが彼女らにくれるハーシーの板チョコ、キスチョコからヌガーの入ったチョコバーなどのお菓子のおいしいこと、コカコーラやジンジャーエールといった初めて見るモダンな飲料、それらは文化の落差をまざまざと娘たちに見せつけた。彼らの持ってくる雑誌などは真っ白い紙に印刷されており、写真などの芸術性もみごとで、ただ感歎するよりほかはなかったし、ふだんは作業服を着ている彼らもパーティーなどのときには制服を着てくることがある。日本兵の服は木綿だったが、彼らの服は羅紗(ウール)で、ズボンにはアイロンがかかっており、ウェストやヒップは体にぴったりで、まるでオーダーメイドのようだった。日本兵は将校といえどもこんなぜいたくな服は着ていなかった。彼らの食べ物といい、衣類といい、すべては日本人にカルチャーショックを起こさせるに十分であった。

それでも一方では、まだ特攻兵たちの記憶がきのうのことのようによみがえってくる。同じ二月十五日の日記の続きに、礼子はこう書いている。「あゝわれは乙女の整備隊」。松田さん柴本さんのお声が耳に聞こえてくるやう。何時も歌ひし三角兵舎。あゝ、昨年の四月五月の今頃は星も空いっぱい輝いていたし、エンジンの音もごうごうなつて居たであろうに。今はあの勇ましい音はなく、ただ隣の人の寝息がきこえているのみ。一一月十九日征きし方々をしのびつつ床に就く。こうした矛盾した気持ちは富屋全体を包んでいた。トメはなりたくて彼らの「母ちゃん」になったのではないが、自分でもわからないうちに大男たちが自分を慕うようになっていたのである。もっとも粗暴だといわれたハスキンも、いつのまにかトメになついてしまった。トメは最初はこの乱暴男をなるべく町に出さないようにするために、ハスキンが現れると、手真似と日本語でいろいろ日本流の生活を教えようとした。まず最初は活け花である。ある日、学校から帰った礼子が驚いたのは、トメがハスキンを床の間の前に坐らせて、花の活け方を教えていたことだった。ハサミの持ち方はこう、切り方はこう、剣山への挿し方はこう、ハイやってごらん、そうそう、うまいじゃない、じゃこの枝をこう切って……といったぐあいなのだが、意外なことに"粗暴な"ハスキンが興味を示し、神妙な手つきでトメの言うとおりにやろうとするのだ。うまく切れなかったりすると舌打ちし、「ガッデム」などと言ったりするが、うまくいってトメに褒められたりすると、まるで子供のように喜ぶのだった。次にトメが教えようとしたのは日本流の料理である。彼女はハスキンを富屋の台所に連れていって、いきなり包丁の使い方から教育しはじめた。この包丁は菜っ葉を切るの、ハイこうやって、サクサクサク、わかった?じゃやってみて、というぐあいである。これまた意外なことにハスキンは興味を示し、トメの横に立って、トメの動作を真似しながら、まな板と格闘を始めたのである。そのうちにハスキンは上手になり、トメの横で下ごしらえを手伝うようになった・もちろん、にんじんやジャガイモの皮をむくといった繊細で高級な技術は使えない。だがネギを切ったり、大根やにんじんを輪切りにしたりサイコロにしたりはできるようになり、しまいにはもっとやることはないのか、と言うようになった。竹箒で庭を掃くのも、いつのまにかハスキンの仕事になった。あの"粗暴な"男がけっこう上手に竹箒を使い、枯葉などを茂みの中からかき出したりする姿を見ていると、微笑ましくなってくる。いつのまにかハスキンはピス午ルをぶっぱなすのをやめていたし、いつのまにかトメは彼の母になっていた。どういうことなのだろうかとトメは思う。最初に警察署長に米兵の懐柔を頼まれたときには断ったのに、いつとなく米兵が勝手に富屋に入りこみ、勝手に遊びながら、トメのことを「母ちゃん」と呼ぶようになったのである。

もちろん、米兵から慕われるようになったトメのことをわるく言う人たちは後を絶たない。きのうまで特攻兵の母だづた人物が米兵に取り入ってチヤホヤしているとはなんだ。節操のないことおびただしいではないか、というのである。ある日、学校から帰ってきた礼子は泣かんばかりにして下メに訴えた。「お母さん、やっぱりアメリカ兵を可愛がるのはやめて。世間の人がみんなお母さんのことをわるく言ってるの。きのうまで特攻兵を可愛がっていたのが、戦争が終わったらとたんにアメリカ,兵を手なずけている。よくそんなに簡単に変われるものだ。死んだ特攻兵にわるいと思わないのかって」しかし、トメはこう言つた。「母さんだってアメリカ兵から慕われるようになろうとは思っていなかったよ。なりたくもなかったよ。でもね、礼子、あの人たちを見たかい。みんなポケットに両親や兄弟やら恋人やらの写真を入れているだろう。みんな自分の家族を離れて、地球の裏側の見たこともない土地に来てしまってねえ。淋しいんだよ。早く帰りたいんだよ。来たくて来たん七やないからねえ。お国のために、しかたなく来てるんだよ。そういう気持ちがわかるとねえ、せめてこの家にいるときくらい、やさしくしてやらないとかわいそうだと思えてくるの。だって、どこへ行ったって、あの人たちにやさしくしてくれる人はいないよ。日本人は敵だったんだからねえ。あの人たちは敵に囲まれているんだよ。かわいそうじゃないか。淋しいんだよ。だから、せめて富屋にいるときくらいやさしくしてやりたいと思うよ。写真を見せられたら、そうか、そうか、って言ってあげるの。何を言ってるのか、母さんにはわからないけど、何を言いたいのかはわかるよ。だから、うん、うんて聞いてあげればいいのよ、それで気が済むんだから。そうして、無事に任務を果たして、何事もなくお国へ帰ってもらいたい。だからね、礼子。もうちょっとがまんしてくれない。母さんだってわるく言われているのは知っているよ。でも母さんはけっしてわるいことをしているわけではないからねえ……。しかたがないんだよ、母さんは気の毒な人を見ると、助けてあげたくなってしまうんだよ」

別れの日は意外に早く来た。約二か月にわたって知覧に滞在した米軍は任務を終わって鹿児島市に駐留する本隊に合流することになった。二月二十五日、礼子は日記にこう記している。二月二十五日月曜今日は朝早くから家に来て居た。一時知覧出発。ジャケさん男泣き。ジャケさんやジョージさんたちは何時も私達にやさしくして下さるのだった。今頃きっと風の吹くテントの中でさむいことでせう。

米兵たちは富屋の家族と別れるのがつらいと言って泣き出す者もいた。「マーマ、さよなら」。ジープに分乗しながら、みんなトメたちに手を振って出ていった。鹿児島市には内村旅館のような宿舎はなく、仮設のテント小屋なのだそうだ。どんなに寒かろうと礼子は思った。米兵が去ってしまうと富屋はまたガランとなった。異国の大男たちも、ひと皮むけば、みんな気のいい若者だった。あの"乱暴者"といわれたハスキンでさえ、お花を活けるのに夢中になったり、トメの料理の下ごしらえを手伝ったり、庭の掃除をしたりできるふつうの子供だった。ガランとした食堂に坐っていると、特攻隊の"子供たち"の顔に、去っていった米兵の顔がオーバーラップしてくる。「みんないい子だった」とトメは思う。「アメリカ兵も日本兵もみんないい子だった」。それなのに、どうしてあの子たちは死んでいかなければならなかったのか。「みんな戦争がわるいのだ。戦争さえ起きなかったら、あの子たちは死ぬことはなかったのだ。あの子たちだって、生きていて、ここで米兵に会ったなら、お互いに心が通じあったはずだ」とトメは思う。それが、戦争というものがあったために殺しあうことになってしまった。それから五日後の土曜日、思いがけないことが富屋で起きた。三月二日土曜夜七時半頃、鹿児島から、ジョ!さん、デビさん、シストさんたちが知覧までいらした。

表の引き戸をがらりと開けると、大声で「マーマ」と呼びながら大男たちが入ってきたのには驚いた。週末、非番の連中がジープを駆って富屋に戻ってきたのである。トメを見つけると、大男たちはいきなり抱きついてきた。「マーマ、会いたかったよ」。次の男も、次の男も、トメに抱きついてヒゲづらをすり寄せてきた。人前で男に抱きつかれたことのないトメは有難いような困ったような顔になった。「はい、ありがとう、ジョーさん、元気?」「どう、しっかりやってる?」。片方は英語をしゃべり、片方は日本語でしゃべるが、国境を越え、民族を越え、言語を越えて人の心は通じる。連中は持参のビールを飲みながら夜中まで上機嫌で騒いで引き揚げていった。翌々日、月曜日、今度は「ジャケさんとジョージさん」がトメ母さんに会いにきた。二人ともトメに抱きついて涙を流した。「マーマ、会いたかったよ」。日本の男ならこんな派手な感情表現はしない。しかし、それほどにしてくれる気持ちは嬉しくて、つられて涙が出そうになる。トメは米兵の母になったのである。かつての日、「小母ちゃ…ん」と元気に表から入ってきた少年兵のかわりに、いま青い目の大男が「マーマ」と呼びながら入ってくる。鹿児島からは四〇キロもあるというのに、山の中の舗装もしていない道を、夜ジープを飛ばして会いにきてくれる。愛情に国境はないのである。一方で礼子は日記に書く。

三月二十四日日曜お兄様方が征かれましてより早一年が経とうとしています。今年も昨年と同じ桜が咲き始めましたよ。お兄様方、桜が見えるでせう、飛行場の回りの桜が。黄色い菜の花も、つばきも。富屋から特攻の思い出が消える日はない。

トメはせっせと役場に通い、観音像建立の提案を続ける。長い月日を要したが、ようやく役場も富屋のトメさんの請願には勝てないと、重い腰を上げることになる。町長は任期の最後の年に観音像設置の手続きをしてくれた。昭和三十年(一九五五)九月二十八日、観音像は完成し、旧陸軍知覧飛行場の跡地の北東の一角に、はるか開聞岳から南の海を望む形で安置された。除幕式の日、トメはその像の前に御手洗の手水鉢を寄進した。ようやくトメの願いが叶った。特攻隊員を顕彰し、その霊を慰めることが公に認知された証の観音像が建った。きのうまで特攻隊員たちの墓標の代わりに毎日拝んできた棒杭を、トメは静かに引き抜いた。この棒にこめられた思いは、いま観音像に引き継がれたのである。これからは大慈大悲の観音様がトメに代わって特攻隊員たちの霊を慰めてくださることになるのだ。その日から、棒杭参りは観音参りに変わった。

知覧特攻基地 鳥浜トメ 朝鮮人特攻隊員 Korean Kamikaze

鹿児島県 知覧 特攻基地 / 富屋食堂 鳥浜トメ

 

小林威夫少尉

 

 昭和17年1942年、鹿児島県知覧に陸軍の飛行学校ができた。その時、富屋食堂という食堂が軍指定食堂になった。食堂の女主人は鳥浜トメと言い、働き者で屈託がなく、町の人から信頼されていた。飛行学校ではまだ、20歳にならない少年兵が過酷な訓練に明け暮れた。彼らにとって明るくやさしい富屋のトメは母親代わりだった。

 

1944年3月28日、飛行学校の教官であった小林少尉がトメを突然訪ねてきた。飛行学校の少年兵同様、やさしく世話をしてもらった少尉はトメを実の母にように思っていた。「ホタル帰る」トメの次女、赤羽礼子と石井宏共著によると、

「小母さん、小林です。久しぶりにお目にかかれて、こんなにうれしいことはありません」トメは小林の好きそうなものをいろいろ作って差し出したが、小林は何ものどを通らないという。「今度はどちら方面に行くの」と聞けば「小母さん、聞かないでくれよ」と答えた時にトメはつい昨日、知覧に特攻隊基地ができたと聞いたことを思い出した。「お父さんに最後の姿を伝える便りを差し上げましょう」というと「日が経ってから知らせてくれ」と言われるが、翌29日出撃するとすぐにトメは「おゆるしください、毎日新聞を見ていてください」と書き送らざるを得なかった。

 

小林威夫少尉はエンジンの故障で沖縄に到達できず、途中で不時着炎上したため、「大分方面で事故死」とされ、特攻隊の戦死者名簿に加えられなかった。それを聞いたトメは「特攻隊員として出撃し、その心は特攻隊員と同じではないか、そうした高貴な心を持って出撃した人をどうして差別するのか」と関係筋を説得して歩いた。いま小林中尉の名は特攻隊戦死者の名簿に加えられている。

第40振武隊 中尉 小林威夫 東京都出身 昭20.3.29出撃

今これを引用している時に、正式な記録を見ても3月29日の陸軍特攻出撃戦死には「誠第十七飛行隊、誠第四十一飛行隊」の5名しかない。しかし、これ以外にトメの多くの話からその人柄は容易に想像できる。

 

 「ホタル帰る」はトメの娘である礼子がトメと共に経験した特攻隊員たちとの出来事を口述したものである。

 トメと特攻隊員との多くのエピソードはテレビ、映画、本で多く取り上げられた。一方トメは特に晩年、ジャーナリストの質問に対して多くを語らなかった。真実が伝えられていなかったからだと言われる。

 

特攻は自ら若い命を捨てて過酷な死に方をする非人間的な攻撃である一方、家族や愛するものの為の自己犠牲であり、愛する者への思いや親に先立つ不孝を嘆く声が残されており、高貴な人間性の発揮というまったく両極端の状況を両立されているが故に多くの人々が今なお心動かされる。

ただ、その感動を単純に特攻賛美と称揚のみに終わるのであれば、彼らの望まざる過酷な運命に至った歴史を再び繰り返す危険がある。それは特攻隊員こそが、敗戦から復興した日本人に決して望まなかったものであろう。この点、我々は注意が必要である。

 

卓庚鉱タクキョンヒョン (光山文博)
生年:1920年3月5日

戦死:1945年5月11日(24歳)

場所:沖縄飛行場西

出身:尚南道

卒業:京都薬学専門学校

特攻部隊:五一振武隊

出撃地:知覧

出身:特操一期

階級:少尉→大尉(特攻戦死により2階級特進)

靖国合祀。

 

 卓庚鉱タクキョンヒョン (光山文博)は当時、日本の植民地であった朝鮮半島出身者で差別に会いながらも薬学専門学校を卒業し、海軍少尉となったが、特攻戦死した。トメに世話になり特攻前夜にトメを訪れ、涙を隠しながらアリランを一緒に歌って別れた。

光山少尉とトメ

左は光山少尉、右は鳥浜トメ。

 光山文博少尉は京都薬学専門学校を卒業し、一時就職もしたが、昭和十八年、特別操縦見習士官(特操)を志願し、その一期生として大刀洗陸軍飛行学校 知覧分教場に入校し、六か月間の速成教育を受けてパイロットとなった。その知覧の生徒の頃、光山は富屋に日曜日ごとにやってきてはトメや娘たちと親しんだ。半年ののち巣立って知覧を出ていって、各地の部隊をめぐったが、行く先々から「知覧の小母ちゃん、元気ですか」と葉書が来た。

そして昭和二十年の五月の初め、富屋の表の引巻戸を開けて「小母ちゃーん」と呼びながら入ってきた男がいた。相手の顔を見ると顔がこわばった。「まあ、光山さんじゃないの」それは一年半前に知覧を出ていった光山にまちがいなかった。トメがショックを受けたのは、いまのこの時期に知覧に現れる航空兵は特攻隊員ばかりなので、光山が特攻隊員になったのをすぐに悟ったからである。

トメは光山を食堂の裏にある離れに案内した。そこは光山の"指定席"で、飛行学校の生徒の頃から彼の好きな場所であった。彼は寝ころがってウーンと伸びをした。その様子は一見して屈託なさそうだが、その横顔はトメには以前より淋しさの影が濃くなったように思われた。それから光山少尉は毎日のように富屋に入りびたっていた。このときの光山の特別に淋しそうな表情には特別のわけがあったことを、礼子たちは何十年も経ってから知ることになる。光山の母親がその前の年の暮れに亡くなっていたのだった。

五月十日の夜、「小母ちゃん、いよいよ明日出撃なんだ」とボソリと言った。「長いあいだいろいろありがとう。小母ちゃんのようないい人は見たことがないよ。おれ、ここにいると朝鮮人ていうことを忘れそうになるんだ。長いあいだ、ほんとに親身になって世話してもらってありがとう。実の親も及ばないほどだった」「そんなことないよ。何もしてやれなかったよ」「小母ちゃん、歌を歌ってもいいかな」「いいわよ、どうぞ、どうぞ」「じゃ、おれの国の歌を歌うからな」

光山は離れの床の間の床柱を背にしてあぐらをかいて坐ると、かぶっていた戦闘帽のひさしをぐいと下げた。光山の眼がそのひさしの下に隠れた。トメと二人の娘は彼のすぐ横に正座した。しばらく瞑想していた光山は、突然びっくりするような大きな声で歌い出した。
アーリラン、アーリラン、アーラーリヨ
アーリラン峠を越えていくわたしを捨てて行くきみは
一里もいけず足いたむ

光山の歌声がやんでも、部屋の中にはトメたちのしゃくりあげる鳴咽があとを引いていた。いつのまにか四人は肩を組んで泣いていた。

光山はさようならを言う前に、自分の使っていた黄色い布の財布を取り出した。布は朝鮮のものだということだった。光山は筆と硯を借りて、その財布に「贈為鳥浜トメ殿光山少尉」と書いた。「小母ちゃん、飛行兵って何も持っていないんだよ。だから形見といっても、あげるものは何にもないんだけど、よかったら、これ、形見だと思って取っておいてくれるかなあ」と言った。
トメは黙ってその財布を押し戴いた。光山は立ち上がった。飛行服のあちこちにトメが作った人形のマスコットや美阿子の作ったマスコットをぶら下げている。トメの作った人形は頭ばかり大きくてまるで照る照る坊主のような感じで、娘たちはみっともないと思ったが、トメも光山少尉も満足していた。トメは別れ際に富屋の三人の写真を渡した。「これ持ってって……」

「そうかい小母ちゃん、ありがとう。みんなと一緒に出撃して行けるなんて、こんなに嬉しいことはないよ」
光山は手を振りながら、灯火管制下の暗い夜の闇に消えていった。

 

光山少尉が出撃すると、トメはいつものように少尉の父親に出撃を知らせてあげる手紙を書こうと思ったが、住所がわからないのに気がついた。以来、いろいろな人に光山少尉の父親の消息を尋ねたがわからなかった。
戦争が終わってもトメは探しつづけた。出撃前の数日のことを知っているのは自分しかいないので、ぜひその様子を実の父親に一言伝えてやりたいと思ったのだ。しかし、光山少尉の父親のみならずなんらかのつながりのあるような人を探しても、だれも出てこなかった。トメはNHK「尋ね人」の時間でもたびたび光山少尉の遺族の消息を知りたい旨の放送をしてもらった。だが杏として消息はつかめなかった。

あるとき、トメの二女の赤羽礼子は、光山少尉の航空服と最後の遺品を詰めた袋が靖国神社の一隅に飾られているのを発見した。普通、遺品の袋などは軍の手によって親元に送還されることになっている。それが靖国神社に保管されているということは、光山少尉戦死の時点においてすでに荷物の受取人である父親をはじめとする遺族の所在は不明だったということになろう。トメの努力にもかかわらず、光山少尉の関係者を探す作業は挫折したまま、平成四年(1992)、トメは89歳でこの世を去った。もし彼女がこの世に心残りがあったとすれば、それは光山少尉の遺族の行方がわからなかったことであろう。

ところが、運命はそれから三年も経って、つまり光山少尉の死から五十年も経って、事実を明るみに出してくれることになった。ある日、韓国のテレビ局の取材班が約十名ほどで赤羽礼子を訪ねてきた。彼らは「出撃前にアリランを歌った特攻兵」のことを知っている人を探しに東京へ来たのだった。そこで礼子は右のような一夜の情景を語って聞かせ、実際にアリランを歌ってみせた。すると取材班は全員で唱和しはじめ、みな歌いながら涙を流したのであった。この礼子の回想を取材した番組は韓国で放送され、それを見た人に同じような感動を与えた。その視聴者の中に光山少尉の従兄や従妹合わせて三人の縁者がいたのである。
翌日、礼子のもとに、最年長の従兄の人から電話がかかってきて、そのあとすぐに東京に飛んできてくれた。その従兄は終戦の直前まで日本におり、もちろん光山少尉と接触があったので、数多くの写真や光山少尉の戸籍証本まで携えてきてくれた。

少尉には妹が一人あった。しかし戦局が厳しくなり、三月頃、光山少尉の特攻志願の願書が受理されたとき、少尉は自分の父と妹を朝鮮に送り返すことに決めた。そして、鉄道に勤めている従兄のところへ頼みに行った。彼は本土決戦になるかどうかはともかく、日本は生命の保証のない非常に危険な状態にある。このまま自分が特攻として死んだなら、父も妹も、面倒を見てくれる人を失い路頭に迷うかもしれない。幸い従兄にいさんは鉄道に勤務していて鉄道や連絡船の切符は手に入るだろうから、どうか父と妹を日本より安全な故郷の釜山に帰してやってくれということであった。
   こうして光山少尉の父と妹は、少尉の死を知ることもなく釜山に移動した。そして、その従兄自身も終戦前に日本を離れたので、その時点で、光山少尉の縁者は日本にいなくなってしまったのである。
そして終戦.韓国は日本から解放されると同時に、反日の姿勢を強め日本と韓国をつなぐ糸はすべて切断されてしまった。トメがいくらNHKの「尋ね人」で放送してみても、その電波は届くことはなかった。そして、まもなく光山少尉の父と妹もこの世を去ってしまったのである。


いま韓国は解放から半世紀以上を経て、ようやく日本に対して敵視の態度を弱めつつある。かつては国禁であった日本の書物やソフトウエアの輸入も解禁になりはじめた。戦後には、その従兄の話によれば、身内が日本のために働いたーとくに特攻兵だったーなどとは口が裂けても言えなかったとのことで、もしそんなことを言おうものならどんな事態が起きたかわからなかったという。

 

以上が「ホタル帰る」2001年刊だが、これはトメの次女礼子の口述なので信憑性が高い。

 

以下は「他者の特攻」による

最初にこの話が書かれたのは1957年『遺族』高木俊朗著だという。しかし、そこにはアリランをうたう場面は出てこない。アリランをうたうエピソードを最初に紹介したのは、1984年に、豊田穣が書いた長編『日本交響楽・完結編』ではないかと思われるがその内容は豊田の伝聞に基づくフィクションである。

1944年10月、陸軍最初の特攻隊として、茨城県鉾田基地で万朶(ばんだ)隊が、静岡県浜松基地富嶽(ふがく)隊が編成された。当時、鉾田基地は、体当り作戦は戦力を消耗するだけで効果はないとして強く反対していた。軍上層部は、陸軍最初の特攻隊の編成を、この鉾田基地に命じた。そして、反対の急先鋒であった岩本益臣(大尉)が隊長に指名された。反対した者が真っ先に特攻に出される現実を、同じ鉾田基地にいた卓庚鉱(光山文博)も知っていただろう。

 

5月11日、沖縄第七次航空総攻撃の一員となった彼は、知覧を出発した。飛び立った特攻機は約80機で、機体不良で引き返す飛行機のほうが多く、結局、飛び続けたのは33機だけだった。特攻機として多くの老朽機が使われた。軍上層部は満足な飛行機を与えないで、エンジントラブルなどで引き返してきた隊員を「不忠者」「臆病者」とののしり、振武寮に収容、隔離した。
しかしながら、生と死だけに限定して考えるならば、機体不良の飛行機にめぐり合った特攻兵は生きる可能性を得たことになる。この日出撃した半数以上がそれを得たのに、卓庚鉱(光山文博)の飛行機は、まともに飛ぶことができた33機の中に入っていた。

 

 光山少尉は、ノートに、和歌一首を記した。この人の一家の生活は、悲惨の限りをつくした。金がなくて、幾日も、たべることができなくて、母とそのころの少尉と妹は、抱きあって泣いた。ついに母は、食物を盗んできて、子供たちに与えた。光山少尉は、そのありのままを、私に語り、さらに、涙を浮かべて訴えたことがあった。それは、朝鮮人に対する、内地人の不当な侮蔑と、非常識な横暴であった。光山少尉の書き残した歌は、その母をしのぶものであった。
たらちねの 母のみもとぞ しのばるる やよひの空の春がすみかな
(高木俊朗『遺族』1957年・出版協同社.90頁)

 従軍記者(陸軍航空本部映画報道班員)としてインドシナ半島で従軍した後、内地に戻った高木俊朗は、知覧基地で数多くの特攻兵の最後の言葉を聞き、戦後、『インパール』『知覧』『陸軍特別攻撃隊上・下』などを書いた。右に掲げた『遺族』は、ある特攻兵(日本人)から渡された日記を、高木が遺族に届けるまでを描いたもので、その中の一節に卓庚鉱(光山文博)が登場する。硬直した思考の軍人とは違う雰囲気を持っていたのであろう、ジャτナリストの高木俊朗に対して何人もの特攻兵が、特攻で死ななければならないことの不条理を語り、軍の検閲を回避するため、高木に手紙や日記を託した。卓庚鉱(光山文博)もまた、高木俊朗に自らの差別体験を吐露した。

在日朝鮮人一・五世や二世にとってのアリランは、民族の歌、故郷の歌であるだけでなく、ソンアンジョン(宋安鍾)がいうように、「『もっぱら血みどろになって戦って』きた先人たちを追懐、哀惜するうた」であるとするならば、卓庚鉱(光山文博)が出撃の前夜に歌ったとされるアリランは、日本人がイメージするような涙と別れのシンボルとしてではなく、高木俊朗に対して吐露したように、子どもの頃から貧困と「日本人の非常識な横暴」に対して、「血みどろになって戦った」自分自身と、同じように闘った父、母、妹の思いを重ね合わせて歌った、家族を偲ぶ歌であったと考えることができよう。

「他者の特攻」

 

韓国における特攻隊員への評価

 韓国においては、戦後のかなりの間、日本の戦争に動員されて死亡した韓国人は、日本に協力した「親日派」(日本で使われる「親日派」と意味が異なる)とされ、批判的に捉えられていた。しかし、民主化の進展によって、彼らは日本の戦争による犠牲者であると位置づけられ、立法処置により、名誉の回復と補償がなされるようになった。
ところが、特攻戦死者に関しては、その社会的評価は従前の評価と変化することなく、いまなお、「日本の戦争に積極的に協力した対日協力者=親日派」とされている。強制的に動員されたのではなく、「志願して特攻した」という、「志願」の点が重視され、その結果、自ら主体的に日本のために死を選んだと解されることによるものと思われる。
加えて、韓国で制定された「親日派」に関する法律が、朝鮮人特攻戦死者の評価に影響していることも無視できない。韓国では、1990年代から法律を媒介に「過去清算」が開始され、政府の委員会によって18の「過去事(歴史的事件)」の真相糾明が行われている。これらは未来を語る上で避けては通れない作業だと認識されたもので、封印されてきた国家犯罪の解明を主たる目的とした。それは、事件の真相を明らかにするだけでなく、被害者へ補償を行い、名誉を回復させ、明らかになった事実を社会として記憶しようとする「歴史の見直し」作業であった。

2004年に成立した「日帝強占下親日反民族行為真相糾明法」は、この流れを構成する一つであり、本法律の目的は1904年から1945年までの間に、日本による植民地統治に協力した者(親日行為者)を特定することにあった。特定するためには、親日行為とは何かを規定する必要があり、列記されている項目の中に、「日本軍の少尉以上の将校で、侵略戦争に積極的に協力した者」とする一項があった。

 日本軍は朝鮮人が特攻によって死亡した場合、二~四階級特進させることを行った。彼らは、これによって全員が将校になっている。この昇進は、特攻の成果を宣伝し、後に続くことを促すために実施した政策的な「栄誉」であり、彼らは生前、将校としての役割を担わなくても、韓国においてはこの規定が存在することから、朝鮮人特攻戦死者は「反民族行為者」であるというイメージが強固になる可能性がある。

 「日帝強占下親日反民族行為真相糾明法」が、その目的のために一定の基準を設け、これに従い親日行為者を特定し、日本軍将校になった者を含むことは、「親日」を糾明するには必要だったかもしれない。しかしながら、死後に少尉に昇進し形式的に将校となった特攻兵を含むことは妥当ではないだろう。
  2010年2月、韓国政府の調査委員会は、朝鮮人特攻戦死者の一人、パクトンフン(朴東薫)の遺族に対して、彼は「生前は将校ではなかった」ことを理由に、「被害者」であると認定した。

しかし、生前から「将校」であった学徒兵は、委員会認定の論理からすると「被害者」と認めてもらうことができなくなる。彼らは、以前は学生であり、職業軍人ではなかったこと、生前は名ばかりの将校であったことを考慮すべきではないだろうか。

 

1945年5月11日出撃の特攻隊 

出撃時刻 基地 隊名 機種

海軍

 鹿屋 第八神風桜花特別攻撃隊 一式陸攻に桜花搭載 3機 総員24名

 鹿屋 神雷部隊第十建武隊 3機 零戦爆装500kg

    第五筑波隊      9  同上 

    第七七生隊     1  同上

    第六神剣隊     4  同上

    第七昭和隊     5  同上  安則盛三、小川清 所属

 串良 菊水雷桜隊     10機(30名) 天山爆装800㎏

 宮崎 第九銀河隊     6機(18名) 銀河爆装800㎏

 指宿 第二魁隊      2機(5名)零水偵爆装800㎏ 94水偵爆装500㎏

             40

    安則盛三中尉(旅順師範)、小川清中尉(早大) 空母バンカーヒル突入

              水偵 駆逐艦ハドリに突入

 

陸軍

 知覧   第四十四振武隊(一式戦「隼」)  2機

 知覧   第四十九振武隊(一式戦)     1

f:id:TokkoKamikaze:20191229114047j:plain

一式戦闘機(試作名称)キ43。愛称は隼(はやぶさ)。略称は一式戦。連合軍のコードネームはOscar(オスカー)。開発は中島飛行機。 四式戦闘機「疾風」(キ84)とともに帝国陸軍を代表する戦闘機として、太平洋戦争(大東亜戦争)における事実上の主力機として運用された。総生産機数は5,700機以上で、旧日本軍の戦闘機としては海軍の零式艦上戦闘機に次いで2番目に多い

 知覧   第五十一振武隊悠久隊(一式戦)  7   光山少尉所属

 知覧   第五十二振武隊(一式戦)     3

 知覧   第五十五振武隊(三式戦「飛燕」) 3

 知覧   第五十六振武隊(三式戦)     3

    

 都城東  第六十振武隊(四式戦「疾風」)  1

 都城東  第六十一振武隊(四式戦)     3

 知覧   第六十五振武隊(九七式戦)    3

 知覧   第七十振武隊(一式戦)      3

 知覧   第七十六振武隊(九七式戦)    3

 喜界島  第七十八振武隊桜花隊(一式戦)  1

                       33

 

 

当日特攻による米軍被害(3隻いずれも大破)

            戦死・行方不明 負傷  備考

1.空母バンカーヒル    402            264        第七昭和隊 安則、小川中尉突入

f:id:TokkoKamikaze:20191227223238j:plain

2.駆逐艦エバンズ  戦死行方不明   30    負傷    29  「隼」突入

f:id:TokkoKamikaze:20191226172707j:plain

駆逐艦USS Evans DD552

f:id:TokkoKamikaze:20191226172752j:plain

Casualties from USS Evans (DD-552) are brought aboard USS PCER-855 from USS Ringness (APD-100), after Evans was damaged by Kamikaze attacks while on radar picket duty off Okinawa on 11 May 1945. Photographed from on board PCER-855. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.

3.駆逐艦ヒュー・W ハドリ 戦死 30    負傷     121  

 桜花と水上特攻機(第八神風桜花特攻隊及び第二魁隊の水偵)含む4機命中

f:id:TokkoKamikaze:20191227221950j:plain

USS Hugh W. Hadley (DD-774), seen after completion, in the outer harbour, San Pedro, California, 11 December 1944. US National Archives, 19-N-LCM. Photo # 19-N-75462.

f:id:TokkoKamikaze:20191227222622j:plain

Starboard side of the aft deck house. From the LTJG Douglas G. Aitken collection.

                

 朝鮮半島出身の特攻戦死者

資料によって異なるが、「他者の特攻」によると、


① 生年月日②戦死した日級③戦死の場所④出生地⑤出身学校⑥所属(隊名)⑦出身期⑧階級⑨特記事項

1. 尹在雄ユンチェウン (松井秀雄)
1924年②1944年11月29日(20歳)③フィリピン・レイテ湾④不明⑤開城商業⑥靖国隊⑦少飛13期⑧伍長 尉⑨朝鮮人特攻戦死者「第一号」とされ、御用新聞『毎日新報』で大きく取り上げられた(1944年12月2日付社説「松井伍長に続こう」)。続いて松井家に総督慰間使が派遣されたこと、母校の校庭で告別式が開かれたことなどが報道された。靖国合祀不明。

2・林長守(本名不明)
1924年②1944年12月7日③フィピン・オルモック湾④大田⑤不明⑥勤皇隊⑦少飛12期⑧伍長→少尉⑨遺族のもとに「大田徴兵翼賛会」が弔問しているように、1944年9月から徴兵制により朝鮮人の入営が始まっていたことから、その状況を後押しするために、利用したか。山本隊長以下10名の隊員は富永中将自らの壮行・別盃の後、(略)山本機の通信員林長守伍長は、レイテ湾上空到着後に「我今より体当りす」と打電した後、通信は途絶した(『陸軍特別攻撃墜モデルアート七月号臨時増刊45・1995年・モデルアート社・61頁)。靖国合祀不明。

3・野山在旭(本名不明)
①不明②1945年1月30日(21歳)③フィリピン・ナスグプ沖④不明⑤不明⑥飛行15戦隊⑦特別幹部候補生⑧不明⑨桝谷健夫編集『血戦特攻隊の記録』2000年・ツバサ広業(株)発行によると、生年は1924年、所属は「海上挺進第一五戦隊」となっている。靖国合祀不明。

4・近藤行雄(本名不明)
朝鮮人ではない可能性があり、遺族を捜して確認する必要がある

 

5・岩本光守(本名不明)
①不明②1945年3月26日③沖縄那覇沖④不明⑤不明⑥独立飛行23中隊⑦航空養成所12期⑧軍曹→少尉⑨7歳の頃に父親について日本に渡り、東京で小学校を卒業後、福岡を経て都城航空機乗員養成所へ入所した。1945年4月22日付毎日新報が「先輩に続く半島神鷲岩本軍曹敵艦に必殺の攻撃」と報道。在日朝鮮人である岩本光守が、なぜ朝鮮の新聞で讃えられたのかは不明。靖国合祀不明。

6・朴東薫パクトンフン (大河正明)
①1928年4月12日②1945年3月29日(18歳)③沖縄本島洋上④成鏡南道⑤興南工業⑥誠41飛行隊⑦少飛15期⑧伍長→少尉⑨靖国合祀。


7・河東繁ハドンハン (河東繁)
① 1926年6月30日②1945年4月16日(18歳)③沖縄周辺洋上④不明⑤不明⑥106振武隊⑦少飛14期⑧伍長→少尉⑨靖国合祀不明。

8・李允範イインボム (平木義範)
1921年又は1923年2月22日②1945年4月22日(21歳又は22歳)③沖縄周辺洋上④全羅南道⑤不明⑥80振武隊⑦航空養成所5期⑧曹長→少尉⑨80振武隊の11人は基本飛行学校の教官、助教で編成され、練習機で特攻したといわれている(桐原久『特攻に散った朝鮮人』)。「留守名簿」によると父親の住所が熊本県八代郡になっていることから在日朝鮮人である可能性がある。靖国合祀不明。

9・朴正碩パクジュンソク (木村正碩)
① 不明②1945年4月28日③沖縄周辺洋上④不明⑤不明⑥77振武隊⑦少飛15期⑧伍長→少尉⑨靖国合祀不明。  

10・卓庚鉱タクキョンヒョン (光山文博)
1920年3月5日②1945年5月11日(24歳)③沖縄飛行場西④慶尚南道⑤京都薬学専門学校⑥51振武隊⑦特操一期⑧少尉→大尉⑨「留守名簿」によると父親の住所が京都市五条区になっている。靖国合祀。

11・尹在文ユンチェムン (東局一文)
①1927年3月10日②1945年5月12日(18歳)③不明④慶尚南道⑤岩倉鉄道学校⑥誠120飛行隊⑦少飛15期⑧伍長→少尉⑨知覧の名簿では日本人になっている。靖国合祀不明。

11.李賢載イヒョンジェ(広岡賢載)

①1926年8月4日②1945年5月27日(18歳)③沖縄周辺洋上④京畿道⑤不明⑥四略30振武隊⑦少飛14期⑧伍長→少尉⑨資料によっては名前が「李賢哉」となっている。金光永と行動をともにしていたといわれ、1945年5月13日付毎日新報は「出撃を控えた半島〇〇二勇士念願は巨艦の撃沈」と報じている。靖国合祀。

12・金光永キムグァンヨン(金田光永)

①1926年10月12日②1945年5月28日(18歳)③沖縄周辺洋上④忠清南道⑤不明⑥431振武隊⑦少飛14期⑧伍長→少尉⑨靖国合祀。

13・盧龍愚ノヨンウ(河田清治)
①1922年12月13日②1945年5月29日(20歳)③静岡県御前崎上空④水原郡松山面⑤京城法律専門学校⑥飛行第3戦隊⑦特操1期⑧少尉→大尉⑨河田宏『内なる祖国へーある朝鮮人学徒兵の死』2005年・原書房において詳しく紹介されている。なお、1945年7月8日付毎日新報は「優等生に陸上選手、皇土防衛の花、法専出身の河田少尉」と讃えている。靖国合祀不明。

14・石橋志郎(本名不明)
① 不明②1945年5月29日(27歳?) ③沖縄周辺洋上④不明⑤不明⑥飛行20戦隊⑦特操一期⑧少尉→大尉⑨朝鮮人であるとされているがその証拠はない。 靖国合祀不明。

15・韓鼎実ハンジョンシル (清原鼎実)
①1925年4月21日②1945年6月6日(20歳)③沖縄周辺洋上④平安北道京城工業⑥121振武隊⑦少飛15期⑧伍長→少尉⑨1945年6月12日に京城中央放送局から彼の肉声が放送された。靖国合祀。

16.崔貞根(高山昇)、17.金尚弼(結城尚弼)は、特攻隊員であるが特攻による戦死ではない可能性がある。

「他者の特攻」

 

 金尚キムサンピル(結城尚弼)についての記載は次のようにある。(一部抜粋)

 「他者の特攻」p130

 延禧専門学校(現、韓国の延世大学校。以下「延専」という)は、一九一五年にアメリカの宣教師が設立した学校で、官立の京城帝国大学に対応する私学の名門といわれていた。私立で、民族意識の高い学校であった「延専」も、一九四一年に朝鮮総督府に接収され、日本人校長が派遣されていた。
京城帝国大学教授の辛島驍(からしまたけし)が、「延専」の校長を兼務していた一九四三年頃は、教授(ほとんどが朝鮮人)約二〇名、学生(全員朝鮮人)五〇〇名で、京城(現、ソウル)の西に広大なキャンパスを有していた。この「延専」に朝鮮軍司令部の参謀長と憲兵がオートバイとサイドカーで乗りつけ、全学生は講堂に集まるよう命じられた。朝鮮軍とは朝鮮を占領する日本軍のことで、一九〇四年に朝鮮に侵攻し、以後、占領軍として朝鮮を支配していた。
「このなかで、大日本帝国の臣民ではないと思う者、手をあげよ」
反抗した者は、ひどく迫害されることを学生の誰もがよく知っていた。だから一人として手を挙げる者はいない。
「ようし、立派だ。それではここに志願書類があるから、志願せよ」
配布されたのは、特操(陸軍特別操縦見習士官)の志願用紙であった。
大日本帝国の臣民でない者は志願しないだろうが、臣民であれば志願するのは当然だからと、全員が志願したことになった。これが当時の「志願」という言葉の意味であった。
キムサンピル(金尚弼)は京城での試験に合格し、東京の航空本部での適性検査にも合格した。
「延専」からの合格者は彼一人だった。
一九四三年九月、「延専」の繰上げ卒業式の日、キムサンピル(金尚弼)の卒業祝いをしようと、彼の母、姉、兄の三人は、校門のところで待っていた。他の卒業生たちは、三々五々、嬉しそうに出てきた。彼の姿だけが、なかなか現れない、と思ううちに、予期しないことが起きた。

 

  急にエンジン音がしたと思ったら、憲兵下士官の運転するサイドカーに乗せられた尚弼が、真っ青な顔を引きつらせて、口を真一文字に結んだまま、横も後ろも振り向かず、わたしたち家族の横を通過してしまったのです。みな、一瞬、立ちすくみましたが、すぐに姉と母が、ブイゴーアイゴーと泣き叫びはじめました。歳老いた母はとうとう失神して、そこに倒れました。
延禧(「延専」)では、ただ一人の合格者ですからね、もし卒業して家に帰したら、逃亡するかもしれない、と軍は考えたのでしょう。そして、まるで罪人を拉致するように、連れ去ってしまったのです。

(桐原久『特攻に散った朝鮮人』1988年・講談社229、130頁)

以上がキムサンピル(金尚弼)の兄、キムサンヨル(金尚烈)が語る、弟が強制的に家族から引き離されたときの様子である。

 朝鮮軍はメディアを通じて特操への志願を促したが、応募は少なく、第一回の募集で、朝鮮では七七人が身体検査に合格したものの、うち朝鮮人は七人しかいなかった。日本では、この制度に合格すれば、最下級の二等兵(初年兵)を経験する必要がないことから応募者が殺到した。しかし、朝鮮での場合、朝鮮人合格者が少なかったということは、合格者のほとんどが、朝鮮の大学・高専校に通う朝鮮在住の日本人学生だったことになる。
こうしてキムサンピル(金尚弼)は、自分の意思を介在させることなく、卒業と同時に日本陸軍の軍人にされ、学徒兵と呼ばれることになった。

 

金尚弼(結城尚弼)が特攻隊員に指名されたのが1945年2月11日。そして戦死したのが4月3日。この間、彼は「何のために死ぬのか」と苦悩し、それを兄との対話という形で残している。
彼の兄、キムサンヨル(金尚烈)によると、「延専」の校門で弟を見送った後、一年以上経ってから、弟より「満州」の敦化の飛行隊にいるから面会に来てほしいと連絡があったという。特操出身者は一年で将校になれたことから、家族に将校になった姿を見せたかったのか、あるいは、将校になったことで教官からの暴力から逃れることができ、精神的余裕ができたために家族に会いたいと思った

日本陸軍将校の軍服を着た弟の姿に驚いた母と兄だが、その夜、兄は弟に必死で逃亡を勧めた。
「日本のためなんかに一生懸命働くことなんかないよ。幸か不幸か飛行機乗りになったのだから、これを活用して逃げろよ、中国か台湾へ中国には朝鮮臨時政府もあるだろう。また台湾にも独立運動の拠点があるそうだ」と勧める兄に対して、弟は「もし僕が逃げたら、やっぱり朝鮮の奴らは卑怯だと、朝鮮全体が馬鹿にされるのです。僕は日本陸軍で朝鮮を代表しているのです。(略)もしここで逃げたら、残った母さんや兄さんたちに日本の憲兵隊からどんなひどい目にあうか……だから僕は絶対逃げませんよ」と応えた.

 1945年2月14日、特攻隊である誠三二飛行隊は「満州」の平台飛行場から九州に向かった。途中、給油のため平壌(現、ピョンヤン)に着陸。ここで二泊するという連絡を受けた兄、キムサンヨル(金尚烈)は平壌の旅館に駆けつけた。
 弟、金尚弼(結城尚弼)は特攻隊員となったことを告げ、「特攻隊員といっても、そう心配することはありませんよ。もう飛行機も足りなくなっていて、いつ出撃できるかわからない」としながら、「今晩は最後になるかもしれないから、じっくり話しましょう」と兄にいった。
 このとき弟は整備兵の今野喜代人を伴って、三人で食事をしており、戦争を生き延びた今野は、「三人で食事をしながら話をしました。でも大事なことになると、会話は朝鮮語になってしまうので、私にはわかりませんでした。当時は朝鮮語は禁止されていたのですが、二人は私の前で堂々と朝鮮語で話をしていました。ただ二人とも目に一杯の涙をためて、真剣に話しているので、私は死に行く心境をこもごも語りあっているのだなあ、と思いながら聞いていました」と語っている。
 兄によると、このときも弟は、逃亡を勧める兄に対して、「兄さんの言うように飛行機だから、逃げる気なら逃げられます。でも、逃げて生きてみても民族のためにどれだけ今の状況で尽くせますか」と、逃亡という選択肢を否定したという。
  

3月28日、99式襲撃機の500㎏爆弾搭載のための機体改造が終わり、松本市を飛び立った金尚弼(結城尚弼)ら六機は宮崎県の新田原基地に到着した。
4月1日、アメリカ軍、沖縄本島上陸。この日のうちに沖縄の北、中飛行場を制圧。
4月2日、金尚弼(結城尚弼)は遺書を書き、「延専」の校長、辛島驍に送る。
4月3日、六機は沖縄に向かった。彼が遺書の通り行動したとしたら、その後、他の五機が突入したのを見届けてから、沖縄着陸を試みた後再度飛び立って敵艦戦に突入したことになる。

 

「他者の特攻」ではキムサンピル(金尚弼)は特攻隊員となったが、特攻で米軍艦船に突入はしなかったのではないかと幾多の資料を基に推定している。

 

防衛庁防衛研修所戦史室「戦史叢書ー沖縄・台湾・硫黄島方面陸軍航空作戦」1970年446頁によると

「結城少尉は部下を目標上空まで誘導し、その攻撃状況を確認のうえ、沖縄に着陸報告し、爾後再び離陸して、自ら特別攻撃を敢行した」と書く。

 

「他者の特攻」では、

 この記述を信じる者は、アメリカ軍が制空権を掌握している沖縄に、着陸するだけでも大変であるのに、着陸を成功させた後、再び離陸して、特攻するとは「神業に近いことで、凄いことをやった特攻隊員がいた」と高く評価する。
 時は1945年4月3日、アメリカ軍が沖縄本島に上陸して三日目であった。沖縄本島の北(読谷)と中(嘉手納)飛行場はアメリカ軍によって制圧されていたが、南(那覇)飛行場は、まだ日本軍が確保していたので、「沖縄着陸」は全く不可能なことではなかった。しかし、すぐ傍にはアメリカ上陸軍がおり、海上には1400隻の大艦隊がいる中で、目標を見つけたら即体当たりするよう求められていた特攻機が、なぜ、このような難しいことをやらなければならなかったのか、実際に突入できたのか、したのかと疑問を呈している。

 

日本軍の記録では結城少尉は1945年4月3日 誠第三十二飛行隊武克隊6機の隊長として九九式襲撃機に搭乗し沖縄西方洋上で特攻戦死となっている。

この日陸軍は第22振武隊2名(一式戦)第23振武隊5名(99式襲撃機)第62振武隊(99式襲撃機)1名、石垣・宜蘭より三式戦6名を含め20名が特攻出撃戦死した。

海軍も39名が特攻出撃戦死した。

主な戦果は護衛空母ウエークアイランドへの至近距離突入程度しか米軍記録にはない。

 

更に引用を続ける。

朝鮮人最初の特攻戦死者といわれる尹在雄ユンチェウン(松井秀雄)がフィリピンで戦死したのは1944年11月で、朝鮮総督府御用新聞であった『毎日新報』は「朝鮮人特攻第一号」を大々的に報道した。
次いで、林長守(本名不明)、岩本光守(本名不明)の突入が報道され、彼らの生い立ちや戦果を大きく伝えた。朝鮮人特攻戦死者は「半島の神鷲」と呼ばれ、遺族も讃えられ、生家は「誉の家」と称された。さらに、彼らの死には、二階級ではなく、四階級特進という恩典が与えられたことも新聞は伝えた。これにより少飛出身の朝鮮人特攻戦死者八人全員が四階級特進し、伍長から少尉になっている。
沖縄戦における最初の朝鮮人特攻戦死者、朴東薫(大河正明)の死も、総督府によって徹底的に利用された。彼の戦死の通知が父親のもとに届くと、朝鮮総督(第九代・阿部信行)が家まで弔問に来るという知らせがあり、村中が大騒ぎになったという。

 

朝鮮半島出身の著名日本軍人

洪 思翊(こう しよく、ホン・サイク、1889年3月4日 - 1946年(昭和21年)9月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。

日本の中央幼年学校に国費留学し、首席で卒業した後、間もなく陸軍士官学校に進学。

1923年(大正12年)には陸軍大学校(35期)も卒業。 旧韓国軍・日本陸軍士官学校時代からの旧友である韓国光復軍司令官池青天から、大韓民国臨時政府に加わったらどうかと誘われたが、朝鮮の独立には未だ時機が至っておらず、今立ち上がることは良策ではないとして、旧友の招聘を断った。だがその一方で、池青天を含む旧韓国軍出身の抗日活動家と秘密裏に友情を保ち、その家族を自費を以て支援したり(これは一歩間違えば洪本人にも危険が及ぶ行為であった)、創氏改名が行われた時も、最後まで改名を行わず、姓の洪をそのまま氏とした。1944年(昭和19年)3月に比島俘虜収容所長としてフィリピンに赴任、同年10月陸軍中将に進級、同年12月には在比第14方面軍兵站監となって終戦を迎えた。連合国軍から、捕虜収容所長時代に食糧不足から捕虜に十分給養できなかった責任を問われた洪は、軍人として弁解や証言することを潔しとせず、自らについては一切沈黙を守った。但し自身の法廷では沈黙を続けたため一切の証言記録が残っていないが、他の戦犯被告人を弁護するための証言は積極的に行ったため、洪の置かれた状況や心情は他の裁判記録によって間接的に窺い知ることができる。韓国国内では日本の陸士同期生などを中心にマスコミで救命運動が行われたが、結局流れを変えることはできなかった。その結果、マニラ軍事法廷で戦犯者として1946年4月18日に死刑判決を受け、同年9月26日にマニラで処刑された。(ウィキペディア

 

李 應俊(イ・ウンジュン、1890年8月12日 - 1985年7月8日)は、大日本帝国陸軍及び大韓民国陸軍の軍人。最終階級は、日本軍人としては大佐、韓国軍人としては中将。本貫は商山李氏(상산이씨)。号は秋研(チュヨン、추연)。創氏改名による日本名は香山 武俊(かやま たけとし)。1914年に陸軍士官学校(第26期)を卒業。同年12月25日、少尉に任官。同期には栗林忠道、洪思翊、池青天などがいる。第二次日韓協約締結と同時に、李甲が独立運動に身を投じてからは、李應俊自身も独立運動に加担するようになった。1919年に三・一独立運動が起きた際は、金擎天や池青天と共に中国への亡命を試みた。しかし金と池が亡命を決行して武装蜂起による独立運動を行ったのとは異なり、李は洪思翊などと同様に日本軍に留まり続けた。終戦の一報が入ると同時にソウルへ向かった。
以後、アメリカ軍政庁の軍事顧問に委嘱され、韓国軍を創設する際には、金錫源などと共に主導的な役割を担った。1947年に第5旅団、第1旅団を歴任。1948年に大韓民国政府が樹立された際は、初代陸軍参謀総長に就任した。1952年に現役に復帰し、陸軍大学総長。総長在任中に中将に昇進。1985年に亡くなった際は、葬儀は陸軍葬で行われ、遺体は国立ソウル顕忠院に埋葬。2007年に親日反民族行為真相糾明委員会が選定した親日反民族行為195人名簿の軍人部門にも選定され、公式に親日反民族行為者に認定されている。

 

朴 正煕(パク・チョンヒ、朝鮮語: 박정희、日本語読み: ぼく せいき、1917年11月14日 - 1979年10月26日)
1942年3月23日 - 満州国軍軍官予科を首席卒業。
1942年 - 日本陸軍士官学校編入(57期相当)。
1944年 4月20日 - 日本陸軍士官学校を三番で卒業

1961年の軍事クーデターで国家再建最高会議議長に就任し、1963年から1979年まで大統領(第5代から第9代)『漢江の奇跡』と呼ばれる高度経済成長が実現。「独裁者」との批判的評価も受けている。 1979年に側近の金載圭によって暗殺。娘は朴槿恵18代大統領。

 

朝鮮\台湾における日本軍志願兵 

『朝鮮及台湾ノ現状/1 朝鮮及台湾ノ現況 1』 アジア歴史資料センター Ref.B02031284700

    募集数   志願者数    台湾 募集数  志願者数

1938年   406 人           2,946 人                    

1939      613              12,528      

1940    3060              84,443

1941    3208            144,743

1942    4077            254,273                              1,020      425,961

1943    6300            303,294                              1,008      601,147

1944                                                                   2,497      759,276 

 

朝鮮での徴兵

1944/45 陸軍 207,703 海軍   22,299  軍属・軍要員 384,514  合計 614,516人

「未来を開く歴史」143頁

 

朝鮮半島・台湾出身の軍人軍属

厚生労働省(1990年、1993年返還名簿・当時厚生省援護局)の統計

地域      分類 動員           復員       不明又は戦没 不明又は戦没率
朝鮮      全体   242,341人       240,159人      22,182人   9.2%
        軍人  116,294人        110,116人      6,178人   5.3%
        軍属  126,047人        110,043人    16,004人     12.7%
台湾      全体     207,183人     176,879人    30,304人     14.6%
        軍人    80,433人       78,287人       2,146人      2.7%
        軍属   126,750人         98,590人       28,160人    22.2%
日本本土 全体 7,814,000人   5,514,000人   2,300,000人     29.4%

wikipidia

靖国神社には朝鮮人戦死者2万1000人が合祀されているという

 

韓国側の主張

(第六次韓日会談請求権関係資料1963)

地域   分類 動員    復員    不明又は戦没  
朝鮮  全体   365,000人 300,000人  65,000人    

 

「在日韓国・朝鮮人の補償・人権法」   

志願兵(1938-43)  20,664   

徴兵 陸軍        186,980

          海軍             22,290

軍属                  145,010

合計               374,944      復員 224,600

  

BC級戦犯の裁判の結果 (中国とソビエト分を除く)        
地域        有罪        死刑
朝鮮        129人      14人
台湾        173人     26人
日本本土 5369人   922人

 

日本のために軍人になったわけではないかもしれないが、すくなくとも日本の軍人として戦死したり、また戦犯になり処刑された方々がいたことを心に刻む。特攻隊員になり特攻戦死した方々も然り。さらに多くの軍属(軍人ではなく軍に属する通訳、捕虜監視、土木工事、工場動員など)も輸送中に輸送船が撃沈されたり、戦闘員として戦死することもあった。

 

 台湾出身特攻隊員

劉志宏(1923-1944)泉川正弘

新竹州出身 東京陸軍航空学校、所沢陸軍航空整備学校で飛行訓練

陸軍少年飛行兵(第11期)となり、操縦士ではないが通信、測量、射撃任務

1944年12月14日菊水隊 レイテ沖海戦において撃墜戦死

「日本人はなぜ特攻を選んだか」

 

高砂義勇隊

1944年11月26日45人の台湾高砂族の兵士によるフィリピン 米軍ブラウエン飛行場強襲により全員戦死。その他多くの高砂族が従軍した。軍人ではなく軍属であったが、勇猛果敢に戦い、戦死者の割合も高かった。戦後、靖国神社合祀に関し魂を祖国台湾に戻す係争や、未払い給与の係争がある。wiki

 

 

 

朝鮮人労働者

 日本が大韓帝国を「併合」した年(1910年)、日本に在住する朝鮮人は2600人しかいなかったが、敗戦時1945年には、220万6541人であった。36年間で850倍に増大した。特に、強制連行が開始された1939年以降、日本に連行される朝鮮人は年間20万人以上となり、その総数は、72万4787人にのぼった。

 

 1937年に日中戦争が始まり、広大な中国を相手にするには、膨大な軍隊と軍需品が必要となり、日本は軍需景気にわいた。生産の拡大により労働力不足が起こり、さらに男性労働者が兵士として動員されたため労働力不足が深刻化した。特に石炭鉱業における労働力不足が深刻になり、こうした労働力を補うために、朝鮮人の動員が閣議決定された(1939年)。政府は「朝鮮人労務者内地移住に関する件」を定め、総督府は「朝鮮人労務者募集並渡航取締要綱」を制定した。
 この閣議決定によって8万5000人の朝鮮人の「移入」が決められ、最初は、日本企業が朝鮮で集団的募集をする自由を政府が認め、地域を割り当て、その地域の日本人警官などが協力する「募集」として行われた。

 1942年「募集」が閣議決定で停止され、新たに「官斡旋」が行われることになった。これは、総督府の外郭団体などが動員計画に基づいて、労働者の募集と日本までの連行を行い、日本企業に引き渡すというもので、朝鮮人をさまざまな口実で警察に連行し、そこで「応募」を強制し、その場から日本に連行するなどが行われた。

 その結果、1941年まで60%台であった達成率は、42年度には92%に高まり、43年度には102%となって「超過達成」となった。この頃から、日本側は朝鮮人労働者を臨時的労働力の対象として見ることをやめ、量的にも質的にも基幹労働力と見るようになった。
「官斡旋」でも企業等の要請に応じられなくなると、1944年9月に「徴用令」を適用し、朝鮮人を徴用することが閣議決定された。この徴用から逃れるために中国への逃亡や集団的な抵抗もあったが、日本は必要な労働力をいつでも動員できるようになった。こうした政府の動員計画に基づく労働力動員の全過程が「強制連行」と定義されており、これによって72万4787人の朝鮮人が日本に強制連行された。

 

 1942年頃から、生活必需品の不足と、闇経済の横行から日本人労働者の不満が高まったため、政府は労働統制に努めた。統制強化で労働争議などを封じ込められた労働者は、強い閉塞感から自然発生的な怠業(遅刻、早退、欠勤)を全国的に発生させた。
1942年、日本人労働者の争議が減少する中で、強制連行された朝鮮人労働者は、危険な労働現場への強制配置による高い死傷率や差別賃金への怒りから、争議を増大させた。

1940年の朝鮮人労働者のストライキサボタージュ、抗争は197件、参加1万5300人。1943年、274件、1万5164人。

1944年、303件、1万5730人と増え、

特に、「集団暴行・直接行動」の増加.

1943年、147件。

1944年、255件

は政府、経営者に衝撃を与えた。
さらに、最後の抵抗として「逃亡」があった。捕まったら残酷なリンチが待っていた逃亡だが「強制連行が開始された1939年から3ヶ年問に炭鉱では35.6%が逃亡したとの数字がある(朝鮮人強制連行調査団)。また別の調査では、39年から45年3月まで連行朝鮮人のうち22万余名が逃亡したという数字がある. 

「国民動員と抵抗」岩波講座日本歴史21近代8 188頁

 

戦後の朝鮮人軍人 

 (財)石川県教育文化財団が上梓した『自分史・戦争と私』は、石川県在住の戦争経験者の体験談をまとめたもので、記載されている172人の中で、唯一人、朝鮮人として本名で登場しているのがペタンウォン(裵旦元)である。彼は戦争を生き延びた在日朝鮮人として、戦後、次のように生きた。
彼は五歳のときに朝鮮から日本に移住し、1942年に徴兵され、すぐにトラック諸島に送られた。最下層の二等兵であった。この島で四年間戦い、敗戦を迎えた。敗戦の少し前、アメリカ軍の爆撃が続き、陣地の構築ができなくなると、軍属として働かされていた多くの朝鮮人が「喰いつぶしや」と日本人将兵にののしられた。敗戦を知ると朝鮮人軍属たちは「虐待した者を出せ、暴行した者を引き出せ、と暴れ狂い、暴れに暴れた」。
この暴動は上陸してきたアメリカ軍によって鎮圧されたが、朝鮮人軍属は特別待遇を受け、真っ先に本国に帰還した。「同じ同胞でありながら私は兵隊であったために仲間に入れてもらえなかった」。その後、捕虜生活を送り、1946年2月、日本への引き揚げ船が来た。アメリカ軍の捕虜として働かされていた期間の賃金が支給された。「日本兵は外地にいると一年を四年と計算されたが、朝鮮籍の私は四倍にしてもらえなかった。日本のために、日本兵として命を捨てる覚悟をしていたのに」。
日本に着くと、復員局の役人から、家族は朝鮮に引き揚げているからもういない、このまま朝鮮に帰るように何度も勧められた。迷いに迷って、石川県に行ってみて家族がいなかったら朝鮮に帰ろうと思った。辰口町(現、能美市)に帰ると、家族全員が元気で暮らしていた。「トラック諸島から生きて帰って、五〇年、恩給も手当てもなく苦労してきた」。
戦時中、朝鮮人軍属がいかに虐げられていたか、1946年時点の日本の政策が、在日朝鮮人を追い出そうと(本国に帰そうと)するものであったことがよく判る証言であろう。
敗戦時、日本には約200万人の朝鮮人がいたといわれている。朝鮮の人口の一割に届こうとするこの数は、植民地支配によるもので、支配がなかったら存在しない数であった。朝鮮が解放されると、これらの人々は帰国したが、財産の持ち出しに厳しい制限がかけられていたために、朝鮮に生活基盤のない人は帰ることができず、約65万人が日本にとどまり、在日朝鮮人となった。
GHQ在日朝鮮人、在日台湾人を「解放民族」としながらも、一方で「敵国人」としても扱おうとし、日本政府も、「戸籍法の適用を受けない者は、当分の間、参政権を停止する」として、徴兵という血の代償として朝鮮人が得た国政参政権は一度も行使されないまま権利を停止し、いまだに停止されたままになっている。
日本国憲法が施行される前日の1947年5月2日、天皇の最後の「勅令」として「外国人登録令」が施行された。これにより、旧植民地出身者は「当分の間、外国人とみなす」とされ、強制退去の対象とされた。
日本人になるよう強要され、天皇のために死ぬよう求められた旧植民地出身者は、天皇の名において簡単に切り捨てられた。
日本人になるように強要しておいて、戦争に負けた途端、日本人にはしないと前言を翻したことになる。

 ただし、旧植民地出身者にすれば、日本人になる必要などなかったし、なりたくもなかっただろう。問題は、旧植民地出身者は植民地支配の被害者であるのに、被害者としての立場が認められず、加害者である日本人が居直ることによって、人権や民族性を回復する機会を奪われ、日本社会において、再び差別の対象になったことにある。
 ヨーロッパ諸国は植民地を放棄する際には、旧植民地の人々の国籍の選択権を認め、さらに二重国籍を認めた。日本は有無をいわさぬ形で国籍を剥奪し、切り捨てた。これは、日本が戦争責任と植民地支配責任から逃げたことを意味し、当事者の意思を無視した一方的な国籍剥奪は、日本国内においては、旧植民地出身者に対する植民地支配を継続するとの宣言でもあった。このときより、日本在住の旧植民地出身者は日本国籍がないことを理由に、戦後補償や社会保障から排除されることになった。
 旧植民地出身者とその子孫らによる粘り強い闘いにより、近年、社会保障が受けられるようになるなど、差別はなくなりつつあるが、居住する根拠が「永住権」ではなく「永住資格」であるために、国籍による差別(戦後補償は受けられず、公務員になれず、参政権がない)は、いまだに継続している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最初の陸軍特攻隊と9回出撃して帰還した特攻隊員

陸軍最初の特攻隊 


第二次世界大戦当時、空軍はなく、海軍と陸軍がそれぞれ航空部隊を持っていた。

1944年11月、海軍に続き、陸軍でも飛行機による特攻攻撃がフィリピンで始まる。

陸軍の最初の特攻隊は岩本益臣大尉を隊長とする万朶隊(ばんだたい)とされている。

ほぼ同時に富嶽隊も出撃した。

岩本は陸軍士官学校53期で当時は跳飛爆撃という新たな爆撃方法の開発訓練を続けており、特攻には批判的であった。

結局、岩本大尉は万朶隊隊長に任命されるが、司令部に出頭を命じられ単機でマニラ到着寸前、米軍機に撃墜され1944年11月5日戦死、自身は特攻に参加できなかった。

1943年12月に結婚し1年も経っていなかった。

 

f:id:TokkoKamikaze:20191220153328j:plain

岩本益臣

11月12日隊長を失った万朶隊は特攻を行った。 

その戦闘について、大本営は次のように発表した。
大本営発表(昭和19年11月13日午後2時)

一、我が特別攻撃隊万朶飛行隊は、戦闘機援護の元に、11月12日レイテ湾内の敵艦船を攻撃し、必死必殺の体当たりをもって、戦艦一隻、輸送船一隻を撃沈せり。本攻撃に参加せる万朶飛行隊員次の如し。

陸軍曹長 田中逸夫
同    生田留夫
陸軍軍曹 久保昌昭
陸軍伍長 佐々木友次
右攻撃において、掩護戦闘機隊員、陸軍伍長 渡辺史郎また敵船に体当りを敢行せり。

二、万朶飛行隊長陸軍大尉 岩本益臣、同隊員陸軍中尉 園田芳巳、同 安藤浩、同 川島孝、同少尉 中川勝巳は、攻撃実施数日前、敵機と交戦戦死し、本攻撃に参加する能わず

 

これは陸軍特別攻撃隊についての、最初の大本営発表であった。しかし、この発表のなかの佐々木伍長は体当りもしていないし、戦死もしていなかった。陸軍と大本営の勇み足であり、この後も、佐々木は何度も出撃を繰り返しながら生還し、戦後を迎える

 

陸軍では7月には特攻隊の検討が始まっていた。

 

元来、陸軍の爆弾は、地上の攻撃に効果のあるように作られている。艦船を目標に爆撃すると甲板に当ってすぐ爆発するが、海軍の爆弾は徹甲爆弾で甲板を貫通した後に爆発する。戦線は南東方面に拡大していたので、陸軍機の艦船攻撃は、ますます必要になろうとしていた。第一線の実戦部隊からは、海軍と同じような、艦船攻撃に効果ある徹甲爆弾を要求したが実現しなかった。

 

 陸軍が特攻用に最初に使った飛行機は九九式双発軽爆撃機であった。爆弾搭載量や航続距離よりも、戦闘機並みの速度と運動性能が重視し、主として敵飛行場において在地敵機を撃滅することを目的として開発された。それでも戦闘機に比べると速度、機動性に劣り、特攻で戦果を挙げるのは難しかった。乗員は、操縦者・無線手・射手(2名)の計4名。

f:id:TokkoKamikaze:20200113171552j:plain

飛行する九九式双発軽爆撃機(キ48) (飛行第34戦隊所属、1944年以前撮影)

f:id:TokkoKamikaze:20200113170552j:plain

特攻機に改造された九九式双発軽爆撃機、突き出ている3本の管が爆弾の起爆管、のちに1本に改修された

f:id:TokkoKamikaze:20200113202744p:plain

フィリピンへ出発直前の万朶隊、前列左から3人目が隊長の岩本益臣大尉

 九九双軽は胴体下部に通常装備では300kgの爆弾を懸吊するが、特攻機では800㎏爆弾を括り付け、機内から落とせないように改造された。機首には長さ三メートルほどの金属の細い管が三本突き出している。これは起爆管で何かにふれると爆弾は爆弾倉の中で爆発し、機体も乗員も吹き飛ばす。

 

これを知った岩本大尉は万一敵艦を見つけられず帰還する場合などに備え、爆弾を投下できるように改造した。

 

10月21日 陸軍士官学校出身の将校操縦者4名、下士官操縦士8名、通信係4名、機体整備11名の万朶隊が結成された。

 

10月29日万朶隊はフィリピンのリバ飛行場に到着した。

f:id:TokkoKamikaze:20200113202818p:plain

フィリピンに到着した直後の隊長の岩本益臣大尉と万朶隊隊員

 

f:id:TokkoKamikaze:20200113203117p:plain

フィリピンで爆弾を搭載し訓練飛行中の万朶隊の九九式双発軽爆撃機、改造後で機首の起爆管が1本になっている

10月30日岩本大尉は操縦士だけを集合させた。

「我々の任務はレイテ湾のアメリカ艦隊を爆撃、撃沈させることにある。その攻撃方法を研究するのだが、その前に我々の飛行機について説明する。我々の九九双軽で角が3本あるものは爆発を確実にするためというが、実際には1本あれば十分である。また3本もあると飛行に差しさわりがある。そこで3本のものは1本にしてもらった。また、爆弾を投下できないようになっていたのを、できるようにした。

操縦者も飛行機も足りないというときに、一度だけの攻撃でおしまいというのは、余計に損耗を大きくする。要は爆弾を命中させることで、体当たりで死ぬことが目的ではない。これは岩本が命が惜しくてしたのではない。自分の命と技術を、最も有意義に使い生かし、できるだけ多くの敵艦をしずめたいからだ。」

 

岩本は急降下爆撃について話し、

「これぞと思う目標をとらえるまでは、何度でも、やり直しをしていい。それまでは、命を大切につかうことだ。決して無駄な死に方をしてはいかんぞ」

岩本はフィリピンの150近い着陸地点を示した地図を配った。

「出撃しても、爆弾を命中させて帰ってこい」

それからは急降下だけでなく着陸訓練も繰り返し行われた。

 「不死身の特攻隊」p69

 

1944年11月5日午前8時、岩本大尉他4人の将校は九九双軽に搭乗しただ一機でリバ飛行

場からマニラに向かった。万朶隊の操縦将校全員であった。直線距離で90キロ、約20分。しかし、いつ頻繁に空襲に来る米軍機と遭遇するかわからなかった。

岩本達が飛び立ったリバ飛行場では、その日も米軍機の空襲があった。石綿軍曹が頭に負傷した。整備のために来ていた民間人が死亡した。特攻機も二機破壊された。

岩本大尉の九九双軽はマニラ上空にさしかかったその時グラマンF6Fヘルキャット2機が後方から襲撃、撃墜され、最終的に岩本達全員が戦死してしまった。

なぜこのようなときに、マニラに行ったのか?

 

f:id:TokkoKamikaze:20200114181356j:plain

f:id:TokkoKamikaze:20200114180159j:plain

マニラには岩本達が所属する第四航空軍の指令部があり、冨永軍司令官が特攻隊員のための宴会をするために岩本大尉らをマニラに呼んだ。冨永軍司令官は特攻隊に対しては、熱誠あふれるという態度で会見し、さらには必ず宴席を設けて、壮行を激励した。その温情ぶりには、多くの特攻隊員は感銘をうけていた。これは冨永中将が陸軍次官や人事局長の要職にいた間に身につけた宴会政治による人心をとらえる手段でもあった。岩本大尉は、その前にも、冨永軍司令宮に着任の申告のために、バコロド基地まで飛んだ。これは、冨永軍司令官が特攻隊員と早くあいたいという要望のためであった。

 

11月8日万朶隊はリバからカローカン飛行場に移った。残された下士官操縦士で健在なのは佐々木を入れて5名。

 

「万朶隊」隊員を激励するため、11月10日に第4航空軍司令官富永は同じ特攻隊の「富嶽隊」隊員と共に全隊員をマニラでの会食に招いた。その席で富永は自ら「万朶隊」の隊員ひとりひとりに酒を酌して回り、「とにかく注意してもらいたいのは、早まって犬死にをしてくれるな」「目標が見つかるまでは何度でも引き返してかまわない」と声をかけた。

 

体当たりをせずに爆弾を投下して帰還しようと密かに考えていた佐々木は、富永の「何度でも引き返してかまわない」という言葉に心をひかれた。富永はさらに「最後の1機には、この富永が乗って体当たりする決心である。安んじて大任を果たしていただきたい」という言葉をかけたが、それを聞いた佐々木は「これほど温情と勇気がある軍司令官なら、自分の決死の計画も理解してもらえる」と意を強くした。

 

富永は、その後、比での敗北が明確になった後、体当たりすることもなく、その上、命令もないのに台湾に脱出した。一方、佐々木は何度も特攻出撃し、そのたびに帰還した。

f:id:TokkoKamikaze:20200113204641p:plain

隊長の岩本益臣大尉ら士官が戦死したのちマニラに招かれた万朶隊隊員、酒を酌しているのが第4航空軍富永恭次中将、酒を注がれているのが空襲で負傷し頭に包帯を巻いてる石渡俊行軍曹

f:id:TokkoKamikaze:20200113204748p:plain

初出撃日に日本酒で乾杯する万朶隊隊員、左から佐々木友次伍長、生田留夫曹長、田中逸夫曹長、久保昌昭軍曹、奥原秀孝伍長

 11月12日の空は快晴。カローカン

午前4時に第4航空軍司令官富永が隊員ひとりひとりと握手をかわすと訓示を行った。

出撃は4機の「九九式双発軽爆撃機」に5名の「万朶隊」隊員が搭乗して行われた。本来、「九九式双発軽爆撃機」は4名で運用するが、機銃などは特攻機改造で身軽にするため全て撤去しており、通信士の搭乗する1番機を除いては、全機操縦士1名で飛行した。

先に戦死した岩本以下4名の霊位の紙片が入った白木の箱を抱いた「万朶隊」隊員には、日本酒が振る舞われ、海苔巻きや餅も出された。

4機は多くの幕僚、飛行兵、整備兵に見送られながら順に離陸、飛行場上空を一週すると編隊を組んでレイテ湾に向かった。護衛には一式戦闘機「隼」が11機ついた。途中で1機がエンジン故障で引き返したが、残り3機はレイテ湾に突入した。援護についていた「隼」は船団を護衛していた「P-38」と空戦となり、空戦で被弾した第24中隊の渡邊史郎伍長も、搭乗していた「隼」で「万朶隊」と共に敵艦隊に突入した。しかし特攻機種、特攻の時間から万朶隊の攻撃による損失とみられる米軍報告はない。

 

第4航空軍はこの攻撃で戦艦1隻、輸送艦1を撃沈したと戦果判定し、南方軍司令官寺内寿一大将より戦死した4名への感状が授与がされることとなった。この戦果は、戦果確認の将校直掩機が3機も帰還して報告したにもかかわらず 過大戦果発表であった。

 

突入した「万朶隊」の4名は全員戦死と思われていたが、後に佐々木が敵艦に体当たりせず通常攻撃を行い、ミンダナオ島のカガヤン飛行場に生還していたことが判明した。ミンダナオからカローカンに帰ってきた佐々木に、第4飛行師団参謀長の猿渡が「どういうつもりで帰ってきたのか」と詰問したが、佐々木は「犬死にしないようにやりなおすつもりでした」と答えている。第4航空軍司令部にも出頭し、参謀の美濃部浩次少佐に帰還を報告したが、美濃部は大本営に「佐々木は突入して戦死した」と報告した手前「大本営で発表したことは、恐れ多くも、上聞に達したことである。このことをよく胆に銘じて、次の攻撃には本当に戦艦を沈めてもらいたい」。

天皇に報告した通りに死ななければいけないという不条理に佐々木は憤然としたが、軍司令官の富永は思いのほか優しく、軍司令官室に入って佐々木が敬礼するなり「おお、佐々木、よく帰ってきたな」「よくやった。これぞという目標をとらえるまでは、何度でも帰ってこい。はやまったりあせってはいかん」と下士官に対しては破格の声をかけて、「昼飯を一緒に食べようと思ったら、他に予定があるそうだ。せっかくだから、お土産を進呈しよう」と上機嫌で缶詰を佐々木に手渡した。佐々木は軍司令官から贈り物をもらって光栄な思いを抱きながら司令部から退去した。

 

11月15日、負傷から復帰した石渡俊行軍曹が隊長となり、前回出撃から漏れた近藤行雄伍長、前回出撃しながら帰還した奥原と佐々木の4機が「万朶隊」第二回目の出撃を命じられたが、初出撃日と違って天候に恵まれず上空に雲が多かった。4機は離陸後に飛行場上空で空中集合して編隊を組んで進撃する予定であったが、初陣の近藤機が自分の位置を見失って墜落、佐々木機と奥原機は雲に遮られて予定の空中集合ができずに再び帰還した。隊長の石渡は単機で進撃したと思われるが、そのまま行方不明となった。佐々木はこの日に再び特攻に失敗したとされて、戦死公報は取り消され、感状の授与は見送られた。こののち、「万朶隊」初回出撃の戦果によって、11月12日に戦死した田中と生田と久保の3名に感状の授与、さらに一緒に敵艦に突入して戦死した護衛戦闘機隊の渡邊を含めた4名に対して少尉への特進と、特旨による論功行賞が発令されている

 

その後の11月25日に3回目の「万朶隊」の出撃がわずかに残っていた奥原、佐々木の2名に命じられたが、出撃直前にアメリカ軍艦載機の空襲を受けて、奥原が爆撃により戦死、両名の九九双軽も撃破されてしまった。負傷により入院中の2名を除けば「万朶隊」は佐々木ただひとりとなってしまった。

 

11月28日4度目の出撃命令。ただ一機での出撃だった。猿渡参謀長は「立派に体当たりするんだ」と命じ、佐々木は直掩機6機とともに飛び立った。しかし隊長機はレイテ湾が見える距離で急旋回し、僚機も佐々木も基地に戻った。

 

12月4日5度目の出撃命令。ただ一機の出撃。「隼」二機が直掩した。

 

この日まで10月25日の海軍最初の特攻隊、敷島隊以来、陸海軍合わせて40隊以上が特攻出撃していた。米軍は対策として空母に乗せる急降下爆撃機の数を半減させ、艦上戦闘機の数を倍にした。また特攻機の目標である空母の前方60海里(約110キロ)にレーダー警戒駆逐艦を多数配備し、近づく特攻隊をいち早くレーダーで捕捉し、多数の艦上戦闘機が上空で待ち構え、それも通常三波の体制で迎え撃った。

 

さらに米軍は近接信管(VT信管)という目標に当たらなくとも目標物が15メートル以内に近接すれば電波発信機などで爆発しその破片で機体を破壊できる信管を開発した。また、40ミリ機関砲を艦船に大量に増設し特攻機が接近することを困難にした。

 

 レイテ湾上空、米軍戦闘機の編隊が現れた。佐々木は編隊を離脱し、800㎏爆弾を投下しネグロス島バコロド飛行場に着陸した。すでに夜になっていて、翌朝マニラ近くのルバング島に着陸し、マニラの空襲が終わるのを待ちカローカンに帰った。

 

帰るとすぐに6度目の出撃を命令された。内地から来た九九式襲撃機3機の特攻隊「鉄心隊」と共に出撃、「どれでもいいから、見つけ次第突っ込め」と言われた。すでに800㎏爆弾はなく500㎏爆弾を装着発進した。

12月6日、佐々木は「鉄心隊」(九九式襲撃機、隊長松井浩中尉)と一緒にカローカン飛行場から出撃、数時間の飛行でレイテ湾まで到達し、アメリカ軍の無数の艦影を確認し突入していく松井機に続いて佐々木機も急降下を開始した。佐々木はやがて大型船(艦種不詳)を視認したので、攻撃突入した。無数の対空砲弾を掻い潜りながら、大型船から200mから300mの高度で爆弾を投下、命中の瞬間は海面すれすれでの待避し確認できなかったが、振り返ると大型船に火柱が上がってはいなかったものの傾いていたように見えたので、この大型船を撃沈したと判断し「レイテで大型船を撃沈しました」と報告している。しかし米軍記録に該当するとみられるものはない。

 

佐々木は1回目と同様、ミンダナオ島カガヤン飛行場に着陸した。

カガヤンで佐々木は耳が聞こえなくなっているのに気が付いた。2日間宿舎で休んだ。12月8日3回目の開戦記念日。耳が回復した佐々木は短波放送で大本営発表を聞いて耳を疑った。12月5日に万朶隊の一機が戦艦か大型巡洋艦一隻を隊は炎上し、万朶隊隊員として佐々木と石綿軍曹の名前が挙げられた。佐々木にとって2度目の戦死発表だった。

佐々木はこの出撃で「戦死した」と第4航空軍から陸軍中央に報告されており、天皇から金鵄勲章と勲6等旭日章が授与されることが決定した。この一連の受勲によって佐々木は公式には戦死扱いとなった。しかし、今回カガヤンにいることは無線で連絡し、返電も来ていた。さらに2回目の出撃で行方不明になった石綿軍曹の名前も挙げられていた。

 

佐々木の故郷、当別村は大本営発表と新聞発表で、大騒ぎになった。最初の特攻戦死、次に生還、そして2度目の特攻戦死。再び大掛かりな葬式が行われた。

 

12月9日佐々木は午後4時にカガヤンを離陸、悪天候の中、暗闇となったマニラの北に不時着した。幸運にもゲリラに襲撃されず村のフィリピン人村長の家に泊めてもらった。

カローカンに戻り、司令部に呼び出されると、戦果については触れられず、帰ってきたことを責められた。反論は許されなかった。佐々木は「体当たりした」と報告した直掩隊の操縦士に会って事情を聞いた。操縦士は、佐々木が爆弾を落としたところまでは見たが、自分が一機だけになり、急いでその場を離れたため、その後の確認はできなかったことを正直に話した。

 

「特攻隊が体当たりしないで生きていると周りがうるさいだろう」と言われると

「いろいろ言われますが、船を沈めりゃ文句ないでしょう」と佐々木は答えた。

 

12月14日7回目の出撃命令。百式爆撃機「呑竜」(どんりゅう)9機の菊水隊特攻に参加せよという命令だった。直掩3機。百式重爆は爆撃専門で最高速度は500kmに満たない。米軍ヘルキャットは600キロ、ムスタングは700キロを超える。直掩「隼」は550キロ前後。動きの遅い重爆の結果は明らかだった。

午前7時離陸。急に佐々木の機体は動揺し滑走路から飛びだした。整備不良だった。重爆は特攻に進撃し、佐々木は取り残された。

 

12月16日早朝8回目の出撃。旭光隊(きょっこうたい)と共に出撃、ただし、旭光隊の2機はミンドロ島の東回り、佐々木は一機で西回り、直掩なしで、援護も戦果確認も不可能だった。佐々木は攻撃せずに帰還した。

 

12月18日9回目の出撃命令。マニラ上空で異常な爆音が発生し、空気と燃料の混合比を表示する計器に異常。カローカンに帰還した。事故報告後、発熱。何日も40度の熱を出してマラリアで休んでいる時のことを若桜隊の池田伍長が手記に書いている。

「ぼくらは毎日、万朶隊の佐々木伍長の部屋に行き、話し合いました。彼は何度か出撃し、戦果を挙げて帰還していました。僕らはその考えを何度も難詰しました。彼は『死んで神様になっているのに、なんで死に急ぐことがあるか。生きられれば、それだけ国のためだよ。また出撃するさ』と、タンタンとしておりました」

佐々木が高熱で休んでいるときに出撃命令が出た。

「命令伝達に来た将校が、本人が起きることもできないでいるのに、『貴様は仮病だろう』と聞くに堪えない悪罵を残して帰っていきました。彼(佐々木)は、『軍神は生かしておかないものなあ』と言って、寂しく笑っていました。この光景は私たちに大きい衝撃となって心に焼き付いてしまいました。この時のことを一生忘れることはないと思います。僕はこの時、はっきりと、特攻隊という言葉からくる重圧感から解放されて、命ある限り戦うことを固く心に決めました。死ぬことの苦悩から解放された後は、案外さっぱりした気分になって過ごしたものです」

池田伍長は、21日特攻隊として出撃したが、生還した。

 

帰還を続ける佐々木に猿渡参謀長は「爆撃で敵艦を沈めることは困難だから、体当たりをするのだ。体当たりなら確実に撃沈できる」と次回出撃時は確実に体当たりするよう諭したが、佐々木は「私は必中攻撃で死ななくてもいいと思います。その代わり、死ぬまで何度でも行って、爆弾を命中させます」と反論している。上官に対する明白な反抗で本来であれば軍法会議行きでもおかしくなかったが、この時はさらに罵倒されただけで不問とされている。佐々木が特攻から幾度となく帰還しても処罰されなかったのは、司令官の富永の裁量であったとも言われる。初出撃前の宴会で顔見知りとなっていた毎日新聞の従軍記者の福湯には「むざむざ死ぬ必要はないでしょう。生きていた方が、それだけ仕事ができるものですからね」と別にふてくされた様子も無く、笑顔で話していたという。

 

 1月6日マニラ北西リンガエン湾に、米艦隊が進撃し、艦砲射撃を開始。米艦隊は700隻近い大船団であった。1月9日米軍上陸開始。

1月16日冨永司令官は台湾に逃亡した。本人は電報で命令を受けたと言ったが、大本営南方軍も命令を出していなかった。

1月23日陸軍省は佐々木を含めた特攻隊の数名の戦死者に感状が出され、上聞に達した(天皇に報告した)と発表した。佐々木は2度、生きたまま死んだと報告された。

1月24日命令を受け佐々木はカローカンからエチャーゲにたどりついた。しかし、そこには、「死んで来い」と何度も言った猿渡参謀長がいた。「お前は死んだんじゃなかったか、お前には死なねばならんことを言い聞かせたはずだ。勝手にしろ」と言われた。

 

1月25日母イマは大日本国防婦人会から表彰された。

 

エチャーゲからは軍人や民間人が台湾に脱出していた。ツゲガラオからは台湾へ飛行機が出ていて、操縦者は優先して送り出されていたが、証明書が必要だった。しかし佐々木は戦死しているのだからと言って証明書を出さなかった。

5月末には台湾向け空輸は米軍が完全に制空権を確保し不可能になった。

6月15日ごろ、米軍がエチャーゲに進撃。佐々木は山の中に逃げ込んだ。粗末な仮小屋を作り、フィリピン人から盗むか食べれるものは草でも虫でもなんでも食べた。

8月15日終戦。降伏を勧めるビラがまかれた。

マニラ近くの捕虜収容所を経て、カンルーバン収容所に送られた。そこで佐々木は読売新聞の鈴木英次記者と再会する。彼は驚く話をした。

「第四航空軍は佐々木と津田少尉の銃殺命令を出していた。大本営発表で死んだ者が生きていては困るからそんな命令を出したのだ。その命令は第四飛行師団の猿渡参謀長が実行するはずだった。わからないように殺すために狙撃隊まで作っていた」と。

同じころ、津田少尉もまた、高千穂空挺隊の大尉から、殺せという命令が出ていたという話を聞いた。

 

1946年1月6日マニラから場合によっては自ら沈めたかもしれない米軍楊陸船で帰国

浦賀の収容所に2日いて、収容所から浦賀駅に向かって復員部隊が歩いていくと

「日本が負けたのは、貴様らのせいだぞ」

「捕虜になるなら、なぜ死ななかったのか」と罵声が浴びせられた

佐々木は東京駅から市ヶ谷の第一復員局に行った。そこで責任者に会った。

それはかつて自分を幾たびも特攻に向かわせた猿渡参謀長だった

しわが深く薄汚れた姿は何の威厳もなかった

 

1950年佐々木は結婚した。北海道で農業を続け、4人の子供を育てた。

2016年2月佐々木は92歳で札幌の病院で亡くなった。

 

 

佐々木は1923年6月27日北海道石狩群当別村生まれ

7男5女の12人兄弟、開拓農家の6男

父藤吉は日露戦争の時、旅順を攻撃する白襷しろだすき隊の一員だった。ロシア軍の機関銃は敵味方を識別する白い襷を目標に銃弾を浴びせ大損害を出させた。藤吉はこの激戦から生還した。子供達には「容易なことで死ぬものではない」と教えた。

佐々木友次は17歳で逓信省航空局仙台地方航空機乗員養成所入所、平時は民間の仕事に従事し、実際は陸軍の予備役を作る養成所だった。軍隊同様の厳しい生活でしごきや体罰があった。鉾田陸軍飛行学校に配属後、九九双軽で急降下爆撃訓練を受け、腕を上げ陸軍最初の特攻隊に選ばれた。

 

冨永恭二司令官は台湾逃亡後、5月5日予備役編入の処置がとられ、日本へと帰国した。しかし、「死ぬのが怖くて逃げてきた人間を予備役にして戦争から解放するのはおかしいのではないか」という根強い批判もあって、7月に召集し、第139師団の師団長。この部隊は関東軍の主力が南方に転出した後の穴埋め用根こそぎ動員部隊の一つである。8月のソ連参戦、第139師団はソ連軍と戦闘することはなく、終戦後の8月22日に武装解除されて捕虜となり、富永ら司令部准士官以上は、9月将校大隊に編入後、沙河沿飛行場に移動。掖河に移動後、11月3日綏芬河経由でソ連へと送られた。

捕虜となった富永は、ハバロフスクの収容所に一時拘禁されたのち、モスクワに護送され、ルビャンカの監獄に拘置された。ソ連の諜報員で戦後ソ連当局に逮捕されて禁固刑に処されたレオポルド・トレッペルによれば、ブティルスク監獄において冨永と同室だったとしている。

富永は、大使館付の武官補佐官として、ヨーロッパ方面にいる白系ロシア人と連絡を取るためフランスに派遣されたり、関東軍の参謀時代にも対ロシア諜報や謀略に携わり、参謀本部の作戦部長のときは東條の下で対ソ連攻撃計画にも深く関与するなど、常にソビエト連邦と密接な関係を有する職務にあったので、尋問は非常に綿密に行われたが、富永がなかなか核心に触れなかったので、尋問は長期に渡って行われ、その期間は6年もの長きに渡った。

しかし、その尋問で富永が、1941年のソ連攻撃計画(いわゆる関東軍特種演習)について「私は宮中に行き、天皇閑院宮載仁親王にこの計画を説明した」「数日後、天皇はこれを承認した」という自供をしたとされ、この自供は天皇の戦争責任を追求するためのソビエト連邦プロパガンダとして利用されて、1946年8月31日にはモスクワから全世界に向けてラジオ放送されている。
その後、1952年1月モスクワ軍管区の軍法会議にかけられ、当初は死刑を求刑されていたが、懲役75年の判決が確定して、シベリア鉄道とバイカル・アムール鉄道(バム鉄道)の沿線となるタイシェットのラーゲリに送られた。バム鉄道沿線のラーゲリの労働条件はもっとも厳しく、特にバム鉄道の建設に従事させられた抑留者は「枕木1本に日本人死者1人」と言われたぐらい死亡者が多かったという。

そのような環境下で、富永は将官であったからといって特別扱いを受けることは無く、一般の兵士と同様に、材木のノコギリ引き、建材製造、野菜の選別、雪かき、掃除等の重労働が課せられた。その後も、2年で4カ所のラーゲリを転々とさせられ、ラーゲリ内では看守から踏んだり蹴ったりという暴力を振るわれていたという。
ラーゲリでは、ソ連側の政治教育が継続的に行われていたが、もっとも重要視されたのは、天皇制破壊、天皇制打倒だった。ソ連は教育を受け入れた者は早めに帰国させるという条件を出していたので、早く故国に帰りたいという一心でソ連の政治教育を受け入れた抑留者も多かったが、富永はそれをはねのけていたという。そのためか体調がすぐれない富永に他の健常者と同様な強制労働が課せられていたが、同じ抑留者たちが富永を支えてくれたので、どうにか生き長らえることができた。しかし、1954年春に高血圧症から脳溢血を発症して入院、医師の診断の結果、今後、強制労働につくのは無理とされて、裁判により釈放が決定された。富永はその判決を病院までわざわざ出向いてきた裁判官から直接聞かされたという。 

1955年、10年の捕虜生活後、帰国し、1960年68歳で亡くなった。

長男富永靖は慶應義塾大学卒業後に特別操縦見習士官1期生となったが、特攻隊員に志願。第58振武隊員特攻隊員として、1945年5月25日、父恭次から貰った日章旗と母セツが準備した千人針を携えて、四式戦闘機「疾風」爆装機に搭乗し都城飛行場より出撃し特攻戦死した

 

富嶽

鉾田の万朶隊同様、1944年7月、浜松教導飛行師団は特攻隊編成の内示を受け、同師団の第1教導飛行隊を母隊として特攻隊を編成し1944年10月26日、参謀総長代理菅原道大航空総監が出席し出陣式が行われ、富嶽隊と命名された。

改造された四式重爆撃機(飛龍)は海軍の八十番(800kg)徹甲爆弾2発を内蔵。1発は爆弾倉に入れるが、800㎏爆弾は長すぎてそのままでは入らない(通常最大500㎏爆弾まで)ため、尾翼をはずし、もう1発は通路に縛り付け、爆弾倉の爆弾が爆発すると誘爆して爆発する。信管安全装置は機上で解除。機首・背部銃座の機銃をはずし機関砲のダミーとして黒色の棒を装着、乗員数を通常8名から2〜3名に減らした。また、万朶隊の軽爆撃機同様、機首から長く付きだした棒状の信管が装備されたが、これは空力的に悪影響があったという。少なくとも15機が特攻機に改造された。

 

f:id:TokkoKamikaze:20200308150303j:plain

四式重爆撃機

隊長は陸軍士官学校50期、西尾恒三郎少佐。以下26名。西尾少佐は4月に結婚して、半年。母一人子一人。

 

11月1日西尾少佐以下5名がルソン島マルコットからネグロス島バコロド飛行場に富永指令官への挨拶に飛んだ。米軍を避けるため17時に出発、島かげから島かげへと低空で米軍のレーダを避けながらの飛行だった。彼らは無事に帰ったが、11月5日万朶隊の岩本隊長他4名はマニラに戻った富永司令官へ呼ばれて到着寸前で米軍機に撃墜された。

 

11月7日西尾少佐以下11名出撃 

第一編隊 一番機、西尾少佐(操縦)柴田少尉(航法)米津少尉(無線)
     二番機、山本中尉(操縦)浦田軍曹(機関)
第二編隊 三番機、石川中尉(操縦)本谷曹長(無線)
     四番機、曾我中尉(操縦)前原中尉(機関)
     五番機、国重准尉(操縦)島村准尉(機関)

しかし敵艦を発見できずリンガエン飛行場に戻った石川機以外はマルコットに帰還した。山本機も一旦基地上空まで戻ったが、そのままレイテ湾方向に進撃し、その後帰還せず、特攻戦死扱いとなった。山本機には無線も載せていなかった。

 


『陸軍特別攻撃隊』&『特攻護国隊』

11月12日午前二時出撃命令。2度目の出撃で、今度は機関係が増え13名の編成。

午前3時万朶隊もカローカンから出撃。富嶽隊は敵艦隊を発見できずマルコット飛行場に帰った。午後、万朶隊の戦果が発表されたが(大本営発表は13日)事実とは異なっていた。

11月13日、マルコット飛行場は朝から空襲だった。富嶽隊は午後三時出撃命令。暗闇の中、百司偵の確認報告では隊長西尾常三郎少佐以下6名2機が米機動部隊に突入して戦死した。 戦艦1隻撃沈と発表されたが米軍記録には被害がない。

 

陸軍中央は海軍が「万朶隊」と「富嶽隊」のような爆撃機ではなく、小回りの利く「零戦」や艦上爆撃機「彗星」などの小型機による特攻で成果を挙げていることを知り、明野教導飛行師団で一式戦闘機「隼」などの小型機による特攻隊を編成し、「八紘隊」と名付けてフィリピンに投入した。その後は、万朶隊や富嶽隊のような特攻改造をしない戦闘機や古くなって生産中止となるような襲撃機などが使われた。


Kamikaze Attack 1944 color film

 

 

神風特攻隊第一号 First Kamikaze

 


神風特別攻撃隊の実写映像【第二次世界大戦】

  海軍大尉 関行雄

 

                       関行雄 Seki Yukio

 1944年10月28日、

「海軍大尉、関行雄を隊長とする神風特別攻撃隊敷島隊は10月25日に米軍艦に体当たり攻撃し、航空母艦1隻撃沈、同1隻炎上撃破、巡洋艦1隻轟沈した」と当時の海軍省は公表した。

新聞各紙は翌日、一面トップでこれを報じ、

「日本人のみの敢行しうる至誠の華」

「一億必死必中の新たなる決意を以て続かねばならない」

「機上の神々」などと褒めたたえた。

 

関行雄は最初の神風特攻隊隊長となった。

1921年8月29日生まれ、1938年12月海軍兵学校入学17歳(70期)、

1941年20歳卒業、

この写真は兵学校4回生の時。

 

兵学校卒業の3年後、1944年10月25日、戦死23歳

同年5月26日に結婚していた。結婚3か月後に台湾に赴任。

横浜航空隊の波止場から飛行艇での赴任で、妻満里子も見送りに来た。ところが、予定の飛行艇の調子が悪く、欠航となり、満里子は手をたたいて喜んだという。

翌日、関は出発、台湾赴任後、フィリピンに転属し特攻に出たため、二人はその後会うことはなかった。

父は戦前病死していた。

戦後、特攻隊は軍事国家の片棒を担いだということで、戦中、尊敬の的であったのと全く逆の扱いを受けた。行雄が戦死したとき多くの弔問客の相手で忙しがった母は戦後、生活にも苦労し5年目に学校の用務員室で亡くなった。行男の墓をつくるために大事に預けておいた弔慰金は、敗戦で価値を失い墓地を手に入れることもできなくなった。墓とは別に、りっぱな慰霊碑が建ち、慰霊祭が行わるるようになったが、「神風特別攻撃隊」の名付け親である源田実が来ると聞いてから、母は参列しなくなったという。

 

「親一人、子一人」「長男」「妻子持ち」を特攻隊員に選ぶことは避けたといわれるが行雄は「母一人」の「長男」で「新婚の若妻」がいた。

その後の特攻隊員の中には幼い子供の父親もいる。

 

特攻隊隊長 指名

フィリピン配属まもなく突然、出頭命令があり、階下の士官室へ行ってみると、副長の玉井浅一と参謀の猪口力平から250キロ爆弾を装着した零戦の編隊を指揮し、レイテ方面のアメリカ機動部隊めがけて体当たりする攻撃隊の隊長を打診された。

 

すぐには答が出ない。まだ赴任早々。もともと艦爆乗りであり、零戦そのものに馴れていないし、その編隊を指揮したこともない。その上、下痢続きで衰弱し、休んでいるところを、深夜起こされ、呼び出されてのいきなりの発令。とっさに「はい」とは答えられない。そのあげく、ようやく、「一晩考えさせて下さい」と答え、ひとまず粗末な寝室へと戻ったというのが、後になってわかった真相のようである。(「敷島隊の五人」「指揮官たちの特攻」)

 

ところが、当の幕僚たちの書いた本によると、ちがう。

関大尉は唇をむすんでなんの返事もしない。両肱を机の上につき、オールバックの長髪を両手でささえて、目をつむったまま深い考えに沈んでいった。身動きもしない。

一秒、二秒、三秒、四秒、五秒、… と、かれの手がわずかに動いて、髪をかきあげたかと思うと、しずかに頭を持ちあげて言った。

「ぜひ、私にやらせてください」

すこしのよどみもない明瞭な口調であった。(猪口力平・中島正著『神風特別攻撃隊』)

 

大西司令長官の副官門司親徳(ちかのり)は『回想の大西瀧治郎』で、関大尉が決意した直後の光景として、次のように伝えている。

深夜、大西中将が階下へ降りて行ったので、門司副官は急いで半長靴をはき、上着をつけて降りると、士官室兼食堂には、大西中将と猪口参謀、玉井副長、指宿正信大尉、横山岳夫大尉と、もう一人の士官が坐っていた。髪の毛をボサボサのオールバックにした痩せ型の士官であった。猪口参謀がその士官に向かって、「関大尉はまだチョンガー(独身)だっけー」と訊く。これに対して、関は、

「いや」

と言葉少なに答えた。

「そうか、チョンガーじゃなかったか」

と猪口参謀がいった。

 

 10月20日同盟通信社の記者で海軍報道班員の小野田政はマバラカット西飛行場の傍を流れるバンバン川の畔で関と話した。関は小野田に対して次のように語った。

 報道班員、日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。僕なら体当たりせずとも、敵空母の飛行甲板に50番(500キロ爆弾、関の特攻ゼロ戦が装備したのは250キロ爆弾)を命中させる自信がある。僕は天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛のKA(海軍の隠語で妻)のために行くんだ。命令とあらば止むを得まい。日本が敗けたらKAがアメ公に強姦されるかもしれない。僕は彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだ。素晴らしいだろう。

 

 森史郎著「敷島隊の五人」では関大尉の特攻隊隊長指名について種々の疑問を呈している。当の関自身、自分が特攻に選ばれたことに疑問だった。

 

神風特別攻撃隊 敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊

 神風特別攻撃隊は敷島隊5名以外に、大和隊、朝日隊、山桜隊が編成された。
その隊名は本居宣長の詩から取られた。
     敷島の 大和心をひと問はば 朝日に匂(にお)ふ山桜花

 

f:id:TokkoKamikaze:20190921143806j:plain

 

 10月20日第一航空艦隊司令長官に内定した大西瀧治郎中将がマバラカット西飛行場にて関と敷島・大和両隊隊員と最後の対面を行い、別れの水杯を交わす。

左から関、中野磐雄、山下憲行、谷暢夫、塩田寛(大和隊)、宮川正(大和隊→菊水隊)。後姿は左が玉井、中央が大西。大西はマニラの本部に帰る前に特攻隊員に会った。(日映・稲垣浩邦カメラマンが10月20日に撮影)

関行雄 Seki Yukio

関は宿舎で妻満里子宛および母サカエ宛の遺書をしたため、満里子の親族に対するお礼や、教官時代の教え子に対しては「教へ子は 散れ山桜 此の如くに」との辞世を残した。また、この日に日本から戻ってきたばかりの同僚にも不満や残る家族への思いを打ち明けた。10月20日には米軍がフィリピン レイテ島に上陸を開始した。

 

10月21日朝、100式司令部偵察機がレイテ島東方洋上でアメリカ機動部隊を発見。敵艦隊発見の報を受けて出撃は敷島・朝日の二隊に決定する。

 

関は玉井に遺髪を託し、9時に僚機を伴ってマバラカット西飛行場を発進した。

しかしマバラカット東飛行場から発進した「朝日隊」と合流して敵艦隊を目指すも見つけられず、燃料状況から攻撃を断念してレガスピに不時着した。関は10月22日早朝、「敷島隊」と「朝日隊」を率いてマバラカットに帰投し、玉井に「相済みません」と涙を流して謝罪した。

 

大和隊 久野好孚中尉

10月21日に初出撃した特攻隊は「敷島隊」「朝日隊」の他に、セブに移動していた「大和隊」があった。16時25分に爆装2機と直掩1機が発進したが、悪天候に阻まれて爆装1機と直掩機は引き返した。しかし隊長の久納好孚中尉は帰らなかった。

 
久納は飛行機が好きで、法政大学の学生時代から学生飛行連盟的なもののメンバーになり、羽田で飛ぶなどしていた。ピアノも巧みに弾き、出撃前夜まで、基地内の洋館のピアノを借り、「月光」など弾いている。

 

中島正飛行長の回顧によると久納は出撃に当たって、「機関銃も無電も不要、外して残して置く」と言う。中島は敵が見つからず帰還中、敵に遭遇したら機銃は必要だと諭したが、「空母が見つからなかったら、レイテへ行きます。レイテに行けば目標は必ずいますから、決して引き返すことはありませんよ」と答えた。

 後日に本人の出撃前の決意から推して、体当たりしたものと発表された。 しかし、最初の特攻隊として発表されたのは後で出撃した敷島隊であった。関が三度も出撃・帰還を繰り返している間に、久納は関より四日早く出撃して、帰らなかった。

    

 

 

10月19日米軍はレイテ島東方約100kmのスルアン島に上陸、巡洋艦駆逐艦などがこれを支援。20日にはレイテ島上陸作戦を開始、戦艦3隻、駆逐艦6隻による艦砲射撃と艦載機約1200機、地上機約3200機による空爆で始まり、ロケット砲装備の上陸用舟艇の先導のもと約700隻の艦船と20万人以上の陸上部隊が押し寄せた。久納が出撃した21日にレイテ湾には多数の米軍艦船がいるという久納の予想は正しかった。

 

アメリカ側の10月21日の記録ではオーストラリア海軍重巡洋艦「オーストラリア」がこの日午前6時30分、日本軍機の攻撃を受けた(戦死行方不明30名、負傷64名、沈没はせず)。しかし、久野が発進したのは午後4時25分なので、これは久野ではないと言われる(「ドキュメント神風」)。日本軍機は99式艦上爆撃機だったともいわれ、久納の乗ったゼロ戦ではなかった。重巡オーストラリアはレイテ島への米軍上陸を援護射撃していた。

 

      攻撃を受け一番煙突が倒壊した重巡洋艦「オーストラリア」

      f:id:TokkoKamikaze:20190921160913j:plain

 

f:id:TokkoKamikaze:20200712105624j:plain

九九式艦上爆撃機

 Task Force 74 was absorbed on 11 October into Task Unit 77.3.2, assigned to provide close cover for the landing force in the operation to recapture Leyte, and departed that day for Hollandia.[114] At 15:30 on 13 October, Task Group 77.3 (including Australia and her companions) began the seven-day voyage to Leyte.[115] At 09:00 on 20 October, Australia commenced shelling targets prior to the amphibious landings, then was positioned to provide gunfire support and attack targets of opportunity throughout the day.[116] At around 06:00 on 21 October, Japanese aircraft attacked attempted to bomb the Allied ships in Leyte Bay.[117] An Aichi D3A dive-bomber dove for Shropshire, but broke away after heavy anti-aircraft fire was directed at it.[117] The Aichi, damaged by Bofors fire, turned and flew at low level up the port side of the nearby Australia, before striking the cruiser's foremast with its wingroot.[117][118] Although the bulk of the aircraft fell overboard, the bridge and forward superstructure were showered with debris and burning fuel.[117][118] Seven officers (including Captain Dechaineux) and twenty-three sailors were killed by the collision, while another nine officers (including Commodore Collins), fifty-two sailors, and an AIF gunner were wounded.[45][119] Observers aboard Australia and nearby Allied ships differed in their opinions of the collision; some thought that it was an accident, while the majority considered it to be a deliberate ramming aimed at the bridge. Following the attack, commander Harley C. Wright assumed temporary control of the ship. [118][120] Although historian George Hermon Gill claims in the official war history of the RAN that Australia was the first Allied ship hit by a kamikaze attack, other sources, such as Samuel Eliot Morison in History of United States Naval Operations in World War II disagree as it was not a preplanned suicide attack (the first attack where the pilots were ordered to ram their targets occurred four days later), but was most likely performed on the pilot's own initiative, and similar attacks by damaged aircraft had occurred as early as 1942. wiki

敷島隊 突入

 10月23日、「朝日隊」「山桜隊」はマバラカットからダバオに移動した。唯一マバラカットに残った「敷島隊」は23日・24日にも出撃したが悪天候に阻まれて帰投を余儀なくされた。関は帰投のたびに玉井に謝罪し、副島泰然軍医大尉の回想では出撃前夜まで寝る事すら出来なかった状況だったという。久野中尉に後れを取ったと思ったかもしれない。

 

この日レイテ湾突入を目指してブルネイを出撃しパラワン島沖を航行していた栗田艦隊は潜水艦攻撃を受け 重巡愛宕と摩耶が沈没、高雄が大破しブルネイに退避、愛宕は旗艦だったので、戦艦大和を旗艦に変更した。

次の日、10月24日シブヤン海に突入。米軍機延べ264機の攻撃で戦艦武蔵が沈没、重巡妙高脱落、駆逐艦2隻離脱。戦艦大和も命中弾受けるも戦闘継続、レイテ湾へ向かう。

 

ルソン島沖では空母プリンストンルソン島内の基地から出撃した日本軍機 彗星の徹甲爆弾により、爆発沈没(士官10名と兵員98名が戦死)。その爆発で救援に横付けした軽巡バーミンガムも損傷し、死者233名、負傷者426名。

 

夜、栗田艦隊とともにレイテ湾突入を計画しブルネイを出撃していた西村艦隊が栗田艦隊の到着遅延により、単独突入を決める。これを察知したオルデンドルフ少将第七艦隊第2群(戦艦6隻、重巡洋艦4隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦26隻、魚雷艇39隻)は夜戦準備をし、西村艦隊を全滅(戦艦山城、扶桑、重巡最上、駆逐艦4隻)。そのあとを追ってきた志摩艦隊の多くを損傷した。

 

唯一空母を有し比島北東で囮となった小沢艦隊(空母瑞鶴、千代田、千歳、瑞鳳、戦艦伊勢、日向、軽巡6、駆逐艦5)もハルゼー将軍率いる米軍機、米水上部隊、潜水艦の攻撃で空母のすべてを失うなど大打撃を受けた。史上最大の海戦といわれる比島沖海戦(レイテ沖海戦)の中で特攻は開始された。日本は比近海で艦隊と行動を共にする空母はなく、比島の航空基地からの攻撃機に頼り、それも事前の米軍の空襲を受けて破壊され圧倒的に数が足りなかった。

 

 10月24日、大西中将はマバラカット、セブおよびダバオの各基地に対し、10月25日早朝の栗田健男中将のレイテ湾突入に呼応して最初の特攻隊出撃を命じる。栗田艦隊のレイテ湾突入による米軍攻撃はレイテ沖海戦における日本軍の最重要作戦であった。

「敷島隊」には戦闘311飛行隊から関と同じ愛媛出身の大黒繁男上等飛行兵が加わり、直掩には歴戦の西澤廣義飛曹長が加入した。

10月25日7時25分、関率いる「敷島隊」10機(爆弾を装着した爆装6機、援護と成果確認のための直掩4機)はマバラカット西飛行場を発進する。途中、初出撃から行動を共にしていた山下機がエンジン不調でレガスピに引き返し、「敷島隊」の爆装機はこの時点から5機と直掩4機となる。

 10時10分 レイテ湾突入を断念して突然、引き返す栗田艦隊を確認した後、

 10時40分 護衛空母6隻、駆逐艦7隻の米第七艦隊第77.4.3任務群を発見、

 10時49分 隊長機を先頭に全5機突入し戦死した。

 

敷島隊の特攻攻撃を受けた米第七艦隊第77.4.3任務部隊(タフィー3)司令官クリフトン・スプレイグ少将栗田艦隊のレイテ湾突入を防ぐためレイテ湾東方にいたが、その構成は

護衛空母 6隻

  ファンショー・ベイ(旗艦)、ホワイト・プレインズ、カリニン・ベイ、

  セント・ロー、キトカン・ベイ、ガンビア・ベイ

駆逐艦3隻、護衛駆逐艦4隻。

 日出後30分、クリフトン・スプラーグ少将は哨戒機から、戦艦四隻、巡洋艦七隻、駆逐艦一一隻からなる日本水上部隊が、スプラーグ隊の北西二〇カイリの海面を三〇ノット(時速56km)で接近中との報告を受ける。栗田艦隊がレイテ湾に突入すべく突撃してきたのだ。

 「キトカン・ベイ」の見張員が、日本軍戦艦のパゴダ・マストを水平線に発見、パイロットに発進命令。戦力が圧倒的に劣る米艦隊は煙幕を張りながら東方に針路を変え、全速力でスコールめざして走る一方、救援を他の空母部隊やキンケイドの第七艦隊あてに電報で要請。

 午前6時59分、戦艦「大和」が射撃を開始。高速巡洋艦部隊の一部を直衛駆逐艦とともに派遣し、米護衛空母隊を、日本戦艦部隊の主砲の射程内に後退させようとした。巡洋艦部隊は、米護衛空母群に接近すると射撃を開始。

 米艦隊は急角度変針、ガンビアベイとカリニンベイが取り残され、日本の巡洋艦の砲撃を受ける。ガンピアベイは転覆、カリニンベイは右舷に傾斜。しかし、

 午前9時11分栗田艦隊は戦闘を突然中止し、変針。

 

午前10時、米空母セントローの乗組員は、やれやれとコーヒーを飲むなど休息をとっていた。甲板には、戦闘機、雷撃機の出撃の準備のため魚雷4本、爆雷6個、爆弾55発、多量の機銃弾が置かれていた。その時、

 

 午前10時49分、上空にいた関は翼を振って部下に突撃を指示、自ら突入した。

 セントローの艦尾1000メートル付近で急降下をやめた零戦一機が、飛行甲板に着艦するような姿勢で、高度約30メートルで「セント・ロー」めがけて飛んできた。20ミリ機銃一挺と連装40ミリ機銃一基がこれに向かって発砲したが、効果はなかった。この零戦パイロットは避弾運動をとることなくめざして突進してきた。

午前10時52分零戦は爆弾を飛行甲板に投下し、横転して、飛行甲板の五番制動索付近の、中心線から5メートル左舷寄りのところに激突、爆発した。惰力のため機体は、飛行甲板に沿って回転しながら艦首まで飛ばされた。

体当たりしたゼロ戦は甲板上に火のついたガソリンをまき散らし猛烈な火災が発生した。同時に、飛行甲板を貫通して格納庫内でとまった爆弾が爆発した。飛行甲板の舷側張出し待避所までかけ込む時間のなかった何名かの乗組員は、火のついたガソリンを体にあびた。

友軍機が着艦するさいに備えて用意されていた消火ホースが、すぐひき出されて使用された。消火ホースのうち二本は泡沫消火ホースであった。爆弾の貫通により飛行甲板にあいた穴の直径は、六〇センチたらずのものであった。マッケンナ艦長がみたかぎりでは、「セント・ロー」の損害はこれだけであった。

 

だが、飛行甲板の下では、状況は非常にちがっていた。撒水装置が作動しなかった。乗組員が消火ホースをひっぱり出したが、十分な水圧を持っていたのはそのうちの一本のホースだけで、それもきわめて短時間しか水が出なかった。爆弾の爆発後30秒たったとき、格納庫内にあった高オクタン価ガソリン搭載の飛行機がバラバラに吹き飛んだ。ガソリンが格納庫甲板一面にとび散り、烈しく燃えだした。第二回目の爆発により、多数の負傷者が出た。飛行甲板上で、爆弾が貫通した穴から消火ホースで格納庫内に放水していた応急班員でさえ、火炎と濃い黒煙が吹き出してきたので、ひどい火傷をした。

午前10時54分、鮮やかな黄色の閃光が走ったかと思うと、これまでのものよりいっそう猛烈な第三回目の爆発が起きた。この爆発で飛行甲板の一部が吹き飛ばされ、後部エレベーターも空中に投げ出された。このときの爆発で巡洋艦ミネアポリス」のウィリアム・P・テイラー大尉は舷側張出しのドアから海中に吹き飛ばされた。「セント.ロー」の多数の乗組員が舷外に吹き飛ばされ、さらにより多くの乗員が死亡した。

マッケンナ艦長は、「総員退艦用意」の命令を出した。

 午前10時56分、四度目の爆発が起こった。二分後さらに五回目の爆発が起こり、格納庫の左舷隔壁を破壊した。マッケンナ艦長は、「総員退艦」を命じた。乗組員たちが、節を作ったロープや消火ホースを伝わったり、甲板から跳びこんだりしながら、海中に逃れていたとき、爆発がさらにつづいて三回起こった。最後に艦を離れることになっているマッケンナ艦長がまだ艦橋にいたとき、六回目の爆発が起こった。艦長は七回目の爆発のあと退艦した。八回目の爆発後五分間で「セント・ロー」は右舷に傾き沈没していった。

駆逐艦護衛駆逐艦が現場に急行し、生存者の救助に当たった。救助された「セント・ロー」St Lo CVE63の乗組員は784名で、そのうち約半数が負傷したり、火傷を負っていた。乗組員のうち戦死したものは24名であった。

f:id:TokkoKamikaze:20191216211619j:plain

St Lo (CVE63)

 

f:id:TokkoKamikaze:20191216211600j:plain

特攻を受けたSt Lo

f:id:TokkoKamikaze:20191216211902j:plain

特攻を受けたSt Lo

f:id:TokkoKamikaze:20191218175500p:plain

2019年海底で発見されたセントロー




「ドキュメント神風」(デニスウオーナ、ペギーウオーナー著)には次の記述がある。

 

 関大尉はみずから編隊の先頭に立って、彼自身の改撃を「カリニンベイ」 に向けた。「カリニン・ベイ」は、その日の朝早く、日本軍の砲撃を受け、少なくとも「大和」の46センチ砲弾一発を含む砲弾が命中していた。
「セント.ロー」が特攻機の体当たり攻撃を受けるよりも一分かそこらまえに、関は「カリニン.ベイ」に向けて突撃を始めた。関が乗っていた零戦は、彼が約60度の急降下からきりもみ状態にはいったとき、煙を発しながら飛行甲板に命中して甲板に数個の穴をあけ、それから横すべりして左舷艦首から海中に落ちた。小火災を多数発生させたが、これらの火.災はすぐに消しとめられた。関が抱えていた爆弾は爆発しなかった。隊長が任務の一部しか遂行できなかったのをみて、関の率いる編隊機のパイロットの一人が、彼にならって突撃した。繰り返し対空砲火の命中弾をあび、火災を発していたその二番機は、もうすこしのところで「カリニン・ベイ」をはずれるところであったが、海面に突入するまえに斜めに体当たりした。こんどは爆弾が破裂して、「カリニン・ベイ」の乗組員に軽傷だが多くの負傷者と、その船体に小さな破孔をいくつかあけた。

 

f:id:TokkoKamikaze:20200104161939j:plain

The U.S. Navy escort carrier USS Kalinin Bay (CVE-68) underway at sea, circa in 1944.

f:id:TokkoKamikaze:20200104162219j:plain

Flight deck damage from the third of four airplanes that attacked USS Kalinin Bay (CVE-68) after the engagement of the Battle of Samar, 25 October 1944. "At 1050 the task unit came under a concentrated air attack; and, during the 40-minute battle with enemy suicide planes, all escort carriers but Fanshaw Bay (CVE-70) were damaged. One plane crashed through St. Lo's flight deck and exploded her torpedo and bomb magazine, mortally wounding the gallant carrier. Four diving planes attacked Kalinin Bay from astern and the starboard quarter. Intense fire splashed two close aboard; but a third plane crashed into the port side of the flight deck, damaging it badly. The fourth hit destroyed the aft port stack." (Quoted from DANFS, Dictionary of American Naval Fighting Ships.) National Archives (College Park, MD) photos: 80-G-270509 (NS0306807) 80-G-270510 (NS0306807a)

f:id:TokkoKamikaze:20200104162135j:plain

Deck scene on USS Kalilin Bay (CVE-68) as she is near missed by Japanese shells, during the battle off Samar, 25 October 1944. Japanese ships are faintly visible on the horizon. Photograph by Phi Willard Nieth. National Archives and Records Administration (NARA) photo, # 80-G-288132.

敷島隊の攻撃は続く。「キトカン・ベイ」の見張員が午前10時49分に、四番機とその直掩機を発見した。四番機の零戦は「キトカン・ベイ」の頭上を左舷から右舷に通過し、対空砲火をあびた。四番機はそれから急上昇、反転して機銃を掃射しながら、艦橋をめがけて真っすぐに突っ込んできた。艦橋をはずれたあと、この零戦パイロットは飛行甲板に体当たりするためには、時機を失せず機首を下げるべきだったのに、それに失敗して、その代わりに「キトカン・ベイ」の左舷外側通路に衝突したあと、舷側から約30メートルの海中に突入した。
爆弾が爆発して、艦内に火災を発生させたが、少しばかりの損害をあたえたにすぎなかった。

f:id:TokkoKamikaze:20191216212345j:plain

USS Kitkun Bay CVE71

f:id:TokkoKamikaze:20191216212447j:plain

キトカンベイ上空を通過して墜落する日本軍機


敷島隊の最後の五番機は、「ホワイト・プレインズ」に向かった。五番機が飛行甲板の後部に体当たりするよう突進中、「ホワイト・プレインズ」の砲手がこれを徹底的に射撃した。零戦がまさに衝突しようとしたとき、「ホワイト・プレインズ」が取舵を一杯とった。この零戦は左側外側通路のわずか数センチ上をかすめて、舷側通路と水面とのあいだで火の玉となって爆発し、その破片が飛行甲板のうえに夕立のように落下した。この至近弾によって「ホワイト・プレインズ」の船体が激しくねじ曲げられ、一時停電し、装甲鉄板がへこんだ。

f:id:TokkoKamikaze:20191216212633j:plain

USS White Plains CVE66

f:id:TokkoKamikaze:20191216212809j:plain

ホワイトプレインスに突入する特攻機

f:id:TokkoKamikaze:20191216212931j:plain

サマール島沖で栗田艦隊の砲撃に包まれるホワイト・プレインズ(後方)。手前は航空機を発進させているキトカン・ベイの飛行甲板



 敷島隊の四機の直掩機のうち一機が、米軍の戦闘機か、「カリニン.ベイ」の対空砲火によって撃墜された。残り三機の直掩機は、何千メートルも空中高く昇った黒煙と「セント.ロー」が沈没するのを見とどけて、中島正中佐が大和隊を配備していたセブ基地へ急いで帰投した。歴戦のパイロットで、中島中佐の古い戦友でもある西沢広義飛行兵曹長が、興奮して零戦から駆け出してきて、この吉報を報告した。西沢は、編隊の先頭にいた関大尉の零戦が空母(これはその後「セント・ロー」であったと考えられた)を直撃し、ついで別の一機がこれにならって、同じ空母のほとんど同じ個所に体当たりしたと、語った。特攻機の攻撃を受けた米護衛空母の戦闘報告には、同時に特攻機二機の攻撃を受けた唯一の空母は「カリニン・ベイ」とある。

西沢は、巡洋艦一隻も撃沈され、さらに中型空母一隻火災停止と報告しているので、彼の報告は正確さの点では一段劣っていたが、彼は米軍戦闘機の攻撃を受け、その二機を撃墜しながらの特攻戦果確認であったのでやむを得ないだろう。

 セブに帰投した西沢およびその他の直掩機のパイロットたちは、翌日、一式陸攻マバラカット基地へ輸送されている途中、撃墜されたので真実は霞の中に隠れた。このように戦果確認は直掩機がいても簡単ではなかった。次第に直掩機が随伴することもなくなり戦果の確認もできなくなるとともに、最後をみとる僚友もなく突入することになる。 

 

日本映画社・稲垣浩邦カメラマンが撮影した、10月20日の大西との訣別と21日の出撃、それに28日の大本営発表を組み合わせた日本ニュース第232号「神風特別攻撃隊」が公開された。戦争中のニュースの為、将に戦意発揚の内容である。


日本ニュース第232號

 

 菊水隊 

 組織的な航空特攻の公式初戦果としては、関が率いる「敷島隊」となっている。だが、実際は「敷島隊」より3時間早くダバオを発進した「菊水隊」(特攻機2、直衛機1)が戦果を挙げていた(『戦史叢書海軍捷号作戦〈2〉フィリピン沖海戦』)。
菊水隊はミンダナオ島スリガオ沖の東方で米第77.4.1任務群「タフィー1」(護衛空母六、駆逐艦七)を発見、午前7時40分に突撃した。セブ基地に帰還した直衛機の報告で「二機正規空母ノ艦尾二命中火災停止」したことが確認された。突入したのは宮川正一飛曹、加藤豊文一飛曹。直衛は鹽(塩)森実上飛曹である。

 米側の資料によれば、午前7時40分、特攻機が機銃を撃ちながら空母「サンティー」Santeeの飛行甲板左舷前部に命中、16人が戦死、27名が負傷した。さらに空母「スワニ-」Suwanneeを別の一機が襲い、後部エレベーター前に命中した。(71名戦死、82名負傷)

「本来ならば神風特別攻撃における、戦果を確認された最初の隊として、その栄誉は菊水隊に与えられるべきであったが、確認に手間どり連合艦隊司令長官への報告が遅れたためか、その栄誉は関大尉指揮の敷島隊が担うことになった」「戦史叢書 海軍捷号作戦」報告遅れが原因だったのか、あるいは海軍エリート(海軍兵学校出身)の関を前面に出そうとしたのか。真相はわからない。

f:id:TokkoKamikaze:20191208232208j:plain

Santee

 

f:id:TokkoKamikaze:20191223214140j:plain

USS Santee (CVE-29) is hit by a Japanese kamikaze, at 0740 on 25 October 1944. Bright orange flames fed by burning avgas billow above Santee's flight deck as fragments of the Zeke, probably piloted by PO1c Kato splash to either side. Santee survived, but had to return to the U.S. for permanent repairs to battle damage and general overhaul. The escort carrier was back in the Philippines in March 1945.

f:id:TokkoKamikaze:20191223215020j:plain

Kamikaze strikes USS Santee (CVE-29), 25 October 1944. National Archives photo (# 80-G-273453).

f:id:TokkoKamikaze:20191223214613j:plain

Fires rage after the ship was hit by a Kamikaze at 0740 hours on 25 October 1944, during the 2nd Battle of the Philippine Sea (aka the Battle of Leyte Gulf.) Official US Navy photograph.

f:id:TokkoKamikaze:20191223215256j:plain

USS Suwannee CVE27

f:id:TokkoKamikaze:20191223215355j:plain

Photo of the Mitsusbishi A6M5 Navy Type 0 Carrier Fighter Model 52 piloted by PO1c Tamisaku Katsumata. Had Katsumata's Zeke maintained its dive as shown in photo [NS0302710], it would certainly have missed aft of Suwannee, so he corrected its aim point by reducing the dive angle. This is caught in this image taken aft on the carrier's flight deck, showing the underside of the fighter with the trails of tracer rounds passing underneath. Even more rare is the fact that it is known that this particular aircraft had previously been flown by the Japanese ace WO Hiroyoshi Nishizawa, but had been turned over to Katsumata because Nishizawa was scheduled to fly to Manila to pick up new aircraft. Photo NARA (National Archives and Records Administration) facility College Park, MD. Photo and text from Fire From The Sky, by Robert C. Stern.

 

f:id:TokkoKamikaze:20191223215641j:plain

kamikaze attack on USS Suwannee off Leyte, 26 October 1944. (1) As a returning American torpedo bomber (lower plane) approaches deck for landing, a Japanese suicide plane streaks out of clouds in an 80-degree dive. Photo taken from USS Sangamon (CVE-26)

f:id:TokkoKamikaze:20191223215749j:plain

 

f:id:TokkoKamikaze:20191223220240j:plain

 

f:id:TokkoKamikaze:20191223220006j:plain

(2) The Zeke crashes Suwannee's flight deck and careens into a torpedo bomber which has just been recovered. The two planes erupt upon contact as do nine other planes on her flight deck. Photo taken from USS Sangamon (CVE-26).

f:id:TokkoKamikaze:20191216111644j:plain

特攻攻撃を受けたUSS Suwannee CVE27

f:id:TokkoKamikaze:20191216112237j:plain

特攻攻撃を受けたスワニー

米軍は日本軍航空機にニックネームをつけたが、Zekeはその一つで零戦を指す。

 

「ドキュメント神風」p248によると

午前6時30分、朝日隊の上野敬一一等飛行兵曹、他の一隊ー菊水隊の加藤豊文一等飛行兵曹がダバオから発進。(日本の記録では朝日隊1、山桜隊2、菊水隊2の5機)

午前7時40分、二つの特攻隊のうちの一機が「サンティー」めがけて急降下してきた。このとき、「サンティー」は乗組員を戦闘配置につけておらず、きわめて敵から攻撃されやすい状態にあった。高性能爆薬「トルペックス」245ポンドを充填した重さ350ポンドの爆雷約24個と、TNT爆薬を充填したほぼ同数の普通爆弾が、弾薬庫から取り出されて、航空機に搭載するため格納庫内におかれていた。攻撃兵器と燃料の搭載を終えた航空機数機が飛行甲板に並んでいた。

「サンティー」めがけて急降下した日本機は最後の瞬間、彗星あるいは飛燕と誤認されたが加藤か宮川正一等飛行兵曹かが操縦していたゼロ戦で、左舷側から約五メートル内側寄りのところで飛行甲板に命中した。この特攻機は爆弾の破片から63キロの普通爆弾と識別された小型爆弾を携行していた。この爆弾は飛行甲板の下で爆発した。特攻機の命中の衝撃と爆弾の炸裂で長さ約10メートル、幅5メートルの穴が甲板にあいた。非常な幸運に恵まれて、特攻機の命中も爆弾の炸裂も、格納庫甲板の致命的兵器がおかれていた部分には影響をあたえなかった。また飛行甲板のうえにならべられていた攻撃兵器搭載済みの航空機は、特攻機の衝撃や爆弾の炸裂によって影響を受けなかった。それにもかかわらず、この攻撃のため「サンティー」の乗組員16名が戦死し、27名が負傷した。

 

それから数秒後、宮川か加藤のいずれかが操縦する第二の零戦が「スワニー」の艦尾上空を施回した。対空砲火が命中した、その零戦はらせん降下をはじめ、わずかに煙をはきながら、それから四五度の急降下に入り、「スワニー」に向かって突っこんでいった。この零戦が「サンガモン」のほとんど真上にいたとき「スワニー」から発射された五インチ砲弾が零戦に命中した。零戦はコントロールを失い、機体の破片をまき散らしながら「サンガモン」の左舷側の海面に墜落した。

もう一機の零戦が「ペトロフ・ベイ」の至近距離に突入した。

四番目の零戦が現れ、高度2500メートルの雲のなかで旋回していた。この零戦が急降下に入ったとき「スワニ一」がこれに対空砲火を浴びせた。零戦がパッと燃え出したのをみて、乗組員たちは歓声をあげたが、歓声をあげるには少し早すぎた。

午前8時4分、250キロ爆弾を抱えたこの零戦は、後部エレベーター前方の飛行甲板に体当たりし、飛行甲板を突き破って格納庫にとびこみ、飛行甲板に直径約3メートルの穴と、それよりさらに大きな穴を格納甲板にあけた。

 

「スワニー」は26日にも特攻攻撃を受けた。

10月26日、セブ基地の大和隊は、植村真久少尉を指揮官として、一隊は特攻機二機と直掩機一機、他の一隊は特攻機三機と直掩機二機からなる二つのグループを発進させた。第一のグループの日本機は全機撃墜された。

 第ニグループのなかの一機が「スワニー」に体当たりした。特攻機が体当たりしたとき、「スワニー」は飛行甲板前部にならべられた戦闘機七機と雷撃機三機、およびその他一〇機の航空機がガソリンを満載していた。特攻機パイロットは、申し分のない時機を選んで「スワニー」に体当たりした。

 午後零時三十八分、雷撃機が一機、同空母に着艦した。パイロットが雷撃機を前部エレベーターのところまで滑走させたとき、高度1000メートルから急降下した零戦が、この雷撃機の真上に体当たりした。数分後、第二の日本機から投下された爆弾が「スワニー」の飛行甲板を貫通した。引火したガソリンが、格納庫および飛行甲板にならべられていた飛行機の周囲に火災を発生させた。「スワニー」の応急指揮官は、最初の爆風で甲板にたたきつけられて気を失ったが、格納庫内で意識をとり戻すと、撒水消火装置の管制弁を自分の手で開放して、火災が拡がるのを防いだ。爆発のため、艦の操舵装置の大半の機器は破壊され、艦橋は火と煙につつまれた。この攻撃で同空母の乗組員のうち100名以上が戦死し、さらにW・D・ジョンソン艦長を含む170名が負傷した。

しばしば「戦闘配置につけ」の号令がかかるといった状況のなかで、五日間をすごしてきた「ペトロフ・ベイ」の乗組員たちは、引火したガソリンが「スワニー」の舷側から流れ出るのをみて、身ぶるいした。火災現場に近い砲座や外側通路にいた乗組員たちは、.ひどい目に会っていた。

「スワニー」が特攻機の体当たり攻撃を受けてからほんの何秒かたったとき、第二の零戦が「ペトロフ・ベイ」に体当たりしようとした。「ペトロフ・ベイ」の飛行甲板後部に飛行機がならべられていた。これら飛行機の近くにいたもの全員にとって、その零戦が彼らのところに命中したら、多数のものが焼け死ぬことは明らかであった。その零戦は、飛行甲板にならべられている航空機を目ざして一直線に、ほとんど垂直に降下してきた。「ペトロフ・ベイ」は必死になって左に転舵した。零戦は補助翼を左に90度回転させて、完全に「ペトロフ・ベイ」を追跡した。「ペトロフ・ベイ」の艦上では、戦闘配置を離れようとするものは一人もいなかった。飛行甲板まで150メートルの距離に達したとき、零戦は対空砲火のため尾翼を失った。零戦はすぐさま右に水平きりもみ運動を始め、完全に二回転したあと、五インチ砲の張出し砲座の後方約5メートルの海中に突入した。零戦がきりもみを始めたあとでさえも射撃をつづけて零戦の機体をバラバラにうち砕いた。

ムーア中佐はこう語っていた。「これらの乗組員たちは過去二日間、敵から攻撃されており、また僚艦三隻が烈しい攻撃を受けて、猛烈な火災に見舞われた有様を目撃していた。また自殺的急降下は撃退することはできない、と彼らは聞いていた」乗組員たちは、休憩をほとんどとらず、便所にもほとんどいけず、戦闘配食(大方の場合、サンドイッチであった)で我慢しながら、合計102時間も戦闘配置で頑張っていた。

 

10月25日

この日出撃した菊水隊と敷島隊は一日で大きな戦果を挙げた。

f:id:TokkoKamikaze:20191218222118j:plain

10月25日特攻隊と米護衛空母

この出撃の目的は空母を一隻も持たない栗田艦隊の援護射撃であった。栗田艦隊は戦艦大和戦艦武蔵を含む日本海軍の精鋭で、海軍のその他のほぼ全戦力の援護を受けながら、米軍のフィリピン上陸を阻止するため、レイテ湾突入を図ったのだが、日本軍には限られた空母しかなく、地上基地の戦闘機も米軍の空襲で多くを欠き、結局戦艦武蔵の沈没など連合艦隊のほとんどを失い失敗に終わった。

従って特攻隊の大戦果は海軍にとって一縷の救いであり、大いに宣伝することにもなった。特攻の戦果はこの後、長続きしないのだが、最初に予想以上の戦果を挙げた故に、沖縄戦から敗戦まで被害甚大な特攻という戦法が続き、またこれしかないという戦法になる。

 

 

 10月21日25日26日の特攻隊

10月21日1625セブ発進

第一神風特別攻撃隊大和隊

零戦250kg爆装機 久納好孚  法大11 中尉 (事実上最初の特攻と推定)

 

10月23日0500セブ発進  

第一神風特別攻撃隊大和隊

零戦250㎏爆装機 佐藤馨  丙飛4 上飛曹 (詳細不明)

 

10月25日

0630ダバオ発進(下記敷島隊の1時間前0740、第七艦隊77.4.1に特攻攻撃)

護衛空母サンティー損傷(戦死行方不明16名、負傷27名)

護衛空母スワニー損傷 (戦死行方不明71名、負傷82名)

 

第一神風特別攻撃隊朝日隊

 零戦250㎏爆装機 上野敬一 甲飛10 一飛曹

第一神風特別攻撃隊山桜隊

 零戦250㎏爆装機 宮原賢一 甲飛10 一飛曹   

零戦250㎏爆装機 滝沢光雄 甲飛10 一飛曹   

第一神風特別攻撃隊菊水隊

 零戦250㎏爆装機 加藤豊文 甲飛10 一飛曹   

零戦250㎏爆装機 宮川正  甲飛10 一飛曹   

(甲飛10:甲種飛行予科練修正10期はおおむね19歳)

 

0725マバラカット発進

第一神風特別攻撃隊敷島隊 (最初の特攻として公式発表、米第七艦隊77.4.3に10:49、突入、零戦250㎏爆装 全機命中) 

1番機 関行雄   23歳  (海兵70期)         大尉
2番機 谷暢夫   20歳  (甲種飛行予科練習生10期)  一飛曹
3番機 中野磐雄  19歳  (甲飛10期)         一飛曹
4番機 永峰肇   19歳  (丙種飛行予科練習生15期 ) 飛長
5番機 大黒繁男  20歳  (丙飛17期)         上飛曹

直掩機
西沢広義飛曹長、本田慎吾上飛曹、菅川操上飛曹、馬場良治飛長
このうち菅川上飛曹は同日特攻隊戦死者となっている

                戦死行方不明  負傷

護衛空母セントロー沈没     143      370

護衛空母キトカンベイ損傷     18                        56

護衛空母カリニンベイ損傷                 5                        55 (2機命中)

護衛空母ホワイトプレインズ至近      0                        11

 

 0900セブ発進

第一神風攻撃隊大和隊(詳細不明)

   

大坪一男 一飛曹 甲飛10 零戦 250㎏爆装

荒木外義 飛長    丙飛15 零戦 250kg 爆装

大西春雄 飛曹長 甲飛3   直掩 彗星

国原千里 少尉     乙飛5 直掩 彗星

 

1015第一ニコルス発進

第一神風特別攻撃隊初桜隊  野波哲 一飛曹 甲飛10(詳細不明)

 

1030マバラカット発進

第一神風特別攻撃隊彗星隊(詳細不明)

500㎏爆装彗星(急降下爆撃機、二人乗り複座)

 須内則男 丙飛10 二飛曹  

浅尾弘     乙飛13 上飛曹

 

1140セブ発進

第一神風特別攻撃隊若桜

零戦250㎏爆装 中瀬清久 甲飛10  一飛曹 (詳細不明)

 

10月26日セブ発進

第一神風特別攻撃隊大和隊

 零戦250㎏爆装 植村真久   立大    少尉 (後述)

零戦250㎏爆装備 五十嵐春雄 丙飛12 二飛曹

直掩 日村助一                         丙飛10 二飛曹

零戦250㎏爆装 勝又富作        甲飛10 二飛曹

零戦250㎏爆装 塩田寛           甲飛10 一飛曹

零戦250㎏爆装 勝浦茂夫       丙飛15 飛長

直掩 移川晋一                        甲飛10 一飛曹

 

(勝又の乗ったゼロ戦は25日敷島隊直掩で西沢広義が乗ったもの。スワニー写真参照、西沢については後述) 

前日に続き2回目の特攻を受け 護衛空母スワニー損傷 

 (戦死行方不明100名、負傷170名)

 

出身や階級はさまざまであるが、特攻隊員の中心は16歳から22歳くらいの若者であった。敷島隊の関隊長は母一人の新婚だったが、大和隊の植村隊長は一人娘がいた。

f:id:TokkoKamikaze:20191220165017j:plain

植村真久

立教大学経済学部商学科在学中はサッカー部主将として活躍。学徒出陣で'43.9.23繰上げ卒業。 海軍に入隊、第13期飛行予備学生。神風特別攻撃隊大和隊、昭和19年10月26日、比島セブから発進してレイテ湾に向い米第七艦隊攻撃。25歳戦死。

愛児への便り(遺書)

素子 素子は私の顔をよく見て笑いましたよ。私の腕の中で眠りもしたし、またお風呂に入ったこともありました。素子が大きくなって私のことが知りたい時は、お前のお母さん、佳代伯母様に私のことをよくお聴きなさい。私の写真帳もお前のために家に残してあります。素子という名前は私がつけたのです。素直な、心の優しい、思いやりの深い人になるようにと思って、お父様が考えたのです。私は、お前が大きくなって、りっぱな花嫁さんになって、しあわせになったのを見届けたいのですが、もしお前が私を見知らぬまま死んでしまっても、決して悲しんではなりません。お前が大きくなって、父に会いたいときは九段へいらっしゃい。そして心に深く念ずれば、必ずお父様のお顔がお前の心の中に浮びますよ。父はお前は幸福ものと思います。生れながらにして父に生きうつしだし、他の人々も素子ちゃんを見ると真久さんに会っているような気がするとよく申されていた。またお前の祖父様、祖母様は、お前を唯一つの希望にしてお前を可愛がって下さるし、お母さんもまた、御自分の全生涯をかけてただただ素子の幸福をのみ念じて生き抜いて下さるのです。必ず私に万一のことがあっても親なし児などと思ってはなりません。父は常に素子の身辺を護っております。優しくて人に可愛がられる人になって下さい。お前が大きくなって私のことを考え始めた時に、この便りを読んでもらいなさい。

昭和十九年九月吉日父

植村素子へ
追伸 素子が生れた時おもちゃにしていた人形は、お父さんがいただいて自分の飛行機にお守りにしております。だから素子はお父さんと一緒にいたわけです。素子が知らずにいると困りますから教えてあげます。

 

f:id:TokkoKamikaze:20191220165649j:plain 

 植村家の墓所内には、十字を刻む植村眞久の個人墓、洗礼名はポール。

左側に『愛児への便り』の全文が刻まれた碑が建つ。

植村の戦死から22年後の'67(S42)、娘の素子は父と同じ立教大学を卒業。 同年4月に父が手紙で約束したことを果たすため、靖国神社に鎮まる父の御霊に自分の

成長を報告し、母親や家族、友人、父の戦友達が見守るなか、文金高島田に振袖姿で日本舞踊「桜変奏曲」を奉納した

f:id:TokkoKamikaze:20191220165205j:plain

「雲流る果てに」「特攻隊員への鎮魂歌」 

 

西沢広義飛曹長

f:id:TokkoKamikaze:20191225134255j:plain

西澤 廣義/西沢 広義

f:id:TokkoKamikaze:20191225134150j:plain

ソロモン諸島上空を飛行する西沢広義の零式艦上戦闘機 (A6M3)(1943年)

日本の撃墜王の一人(撃墜公認記録143機内単独では36機、87機とも)

10月25日、関行男大尉率いる神風特別攻撃隊敷島隊の直掩を務め戦果を確認する。10月26日、乗機をセブ基地の特別攻撃隊に引渡し(これに大和隊勝又富作が搭乗しスワニーに特攻したという写真が前述)、新しい飛行機受領のため、マバラカット基地へ輸送機に便乗して移動する。その途中、輸送機がミンドロ島北端上空に達したところで、ハロルド・P・ニュウェル中尉のグラマンF6Fの攻撃を受けて撃墜され、西沢は戦死した

 

 

 

 

 

注 

艦上爆撃機艦爆):航空母艦から運用でき、急降下爆撃能力を持つ爆撃機。艦船に対して攻撃を行う場合、目標が常に機動することからその精度が重視され、低空から肉迫して行う雷撃と、急降下爆撃とが主な攻撃手段となる。雷撃に求められる機体の性能は重い魚雷を搭載する能力である。急降下爆撃用の機体に求められる性能は急降下時の加速を抑えるエアブレーキの装備と、急激な機体の引き起こしに耐えられる運動性能と機体強度である。両者は要求性能が著しく異なり、第二次世界大戦前までは同一機による両立が難しかった。このためそれぞれ専用の機体とせざるを得ず、魚雷攻撃を行う機種を艦上雷撃機日本海軍においては攻撃機)とした。ウイキペディアより。

 

 

 

他へのリンク 「小金井公園の梅」 

2021 梅 | Koganei

 

nyc7syd3yyz84.wixsite.com