神風特攻隊第一号 First Kamikaze

 


神風特別攻撃隊の実写映像【第二次世界大戦】

  海軍大尉 関行雄

 

                       関行雄 Seki Yukio

 1944年10月28日、

「海軍大尉、関行雄を隊長とする神風特別攻撃隊敷島隊は10月25日に米軍艦に体当たり攻撃し、航空母艦1隻撃沈、同1隻炎上撃破、巡洋艦1隻轟沈した」と当時の海軍省は公表した。

新聞各紙は翌日、一面トップでこれを報じ、

「日本人のみの敢行しうる至誠の華」

「一億必死必中の新たなる決意を以て続かねばならない」

「機上の神々」などと褒めたたえた。

 

関行雄は最初の神風特攻隊隊長となった。

1921年8月29日生まれ、1938年12月海軍兵学校入学17歳(70期)、

1941年20歳卒業、

この写真は兵学校4回生の時。

 

兵学校卒業の3年後、1944年10月25日、戦死23歳

同年5月26日に結婚していた。結婚3か月後に台湾に赴任。

横浜航空隊の波止場から飛行艇での赴任で、妻満里子も見送りに来た。ところが、予定の飛行艇の調子が悪く、欠航となり、満里子は手をたたいて喜んだという。

翌日、関は出発、台湾赴任後、フィリピンに転属し特攻に出たため、二人はその後会うことはなかった。

父は戦前病死していた。

戦後、特攻隊は軍事国家の片棒を担いだということで、戦中、尊敬の的であったのと全く逆の扱いを受けた。行雄が戦死したとき多くの弔問客の相手で忙しがった母は戦後、生活にも苦労し5年目に学校の用務員室で亡くなった。行男の墓をつくるために大事に預けておいた弔慰金は、敗戦で価値を失い墓地を手に入れることもできなくなった。墓とは別に、りっぱな慰霊碑が建ち、慰霊祭が行わるるようになったが、「神風特別攻撃隊」の名付け親である源田実が来ると聞いてから、母は参列しなくなったという。

 

「親一人、子一人」「長男」「妻子持ち」を特攻隊員に選ぶことは避けたといわれるが行雄は「母一人」の「長男」で「新婚の若妻」がいた。

その後の特攻隊員の中には幼い子供の父親もいる。

 

特攻隊隊長 指名

フィリピン配属まもなく突然、出頭命令があり、階下の士官室へ行ってみると、副長の玉井浅一と参謀の猪口力平から250キロ爆弾を装着した零戦の編隊を指揮し、レイテ方面のアメリカ機動部隊めがけて体当たりする攻撃隊の隊長を打診された。

 

すぐには答が出ない。まだ赴任早々。もともと艦爆乗りであり、零戦そのものに馴れていないし、その編隊を指揮したこともない。その上、下痢続きで衰弱し、休んでいるところを、深夜起こされ、呼び出されてのいきなりの発令。とっさに「はい」とは答えられない。そのあげく、ようやく、「一晩考えさせて下さい」と答え、ひとまず粗末な寝室へと戻ったというのが、後になってわかった真相のようである。(「敷島隊の五人」「指揮官たちの特攻」)

 

ところが、当の幕僚たちの書いた本によると、ちがう。

関大尉は唇をむすんでなんの返事もしない。両肱を机の上につき、オールバックの長髪を両手でささえて、目をつむったまま深い考えに沈んでいった。身動きもしない。

一秒、二秒、三秒、四秒、五秒、… と、かれの手がわずかに動いて、髪をかきあげたかと思うと、しずかに頭を持ちあげて言った。

「ぜひ、私にやらせてください」

すこしのよどみもない明瞭な口調であった。(猪口力平・中島正著『神風特別攻撃隊』)

 

大西司令長官の副官門司親徳(ちかのり)は『回想の大西瀧治郎』で、関大尉が決意した直後の光景として、次のように伝えている。

深夜、大西中将が階下へ降りて行ったので、門司副官は急いで半長靴をはき、上着をつけて降りると、士官室兼食堂には、大西中将と猪口参謀、玉井副長、指宿正信大尉、横山岳夫大尉と、もう一人の士官が坐っていた。髪の毛をボサボサのオールバックにした痩せ型の士官であった。猪口参謀がその士官に向かって、「関大尉はまだチョンガー(独身)だっけー」と訊く。これに対して、関は、

「いや」

と言葉少なに答えた。

「そうか、チョンガーじゃなかったか」

と猪口参謀がいった。

 

 10月20日同盟通信社の記者で海軍報道班員の小野田政はマバラカット西飛行場の傍を流れるバンバン川の畔で関と話した。関は小野田に対して次のように語った。

 報道班員、日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。僕なら体当たりせずとも、敵空母の飛行甲板に50番(500キロ爆弾、関の特攻ゼロ戦が装備したのは250キロ爆弾)を命中させる自信がある。僕は天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛のKA(海軍の隠語で妻)のために行くんだ。命令とあらば止むを得まい。日本が敗けたらKAがアメ公に強姦されるかもしれない。僕は彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだ。素晴らしいだろう。

 

 森史郎著「敷島隊の五人」では関大尉の特攻隊隊長指名について種々の疑問を呈している。当の関自身、自分が特攻に選ばれたことに疑問だった。

 

神風特別攻撃隊 敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊

 神風特別攻撃隊は敷島隊5名以外に、大和隊、朝日隊、山桜隊が編成された。
その隊名は本居宣長の詩から取られた。
     敷島の 大和心をひと問はば 朝日に匂(にお)ふ山桜花

 

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 10月20日第一航空艦隊司令長官に内定した大西瀧治郎中将がマバラカット西飛行場にて関と敷島・大和両隊隊員と最後の対面を行い、別れの水杯を交わす。

左から関、中野磐雄、山下憲行、谷暢夫、塩田寛(大和隊)、宮川正(大和隊→菊水隊)。後姿は左が玉井、中央が大西。大西はマニラの本部に帰る前に特攻隊員に会った。(日映・稲垣浩邦カメラマンが10月20日に撮影)

関行雄 Seki Yukio

関は宿舎で妻満里子宛および母サカエ宛の遺書をしたため、満里子の親族に対するお礼や、教官時代の教え子に対しては「教へ子は 散れ山桜 此の如くに」との辞世を残した。また、この日に日本から戻ってきたばかりの同僚にも不満や残る家族への思いを打ち明けた。10月20日には米軍がフィリピン レイテ島に上陸を開始した。

 

10月21日朝、100式司令部偵察機がレイテ島東方洋上でアメリカ機動部隊を発見。敵艦隊発見の報を受けて出撃は敷島・朝日の二隊に決定する。

 

関は玉井に遺髪を託し、9時に僚機を伴ってマバラカット西飛行場を発進した。

しかしマバラカット東飛行場から発進した「朝日隊」と合流して敵艦隊を目指すも見つけられず、燃料状況から攻撃を断念してレガスピに不時着した。関は10月22日早朝、「敷島隊」と「朝日隊」を率いてマバラカットに帰投し、玉井に「相済みません」と涙を流して謝罪した。

 

大和隊 久野好孚中尉

10月21日に初出撃した特攻隊は「敷島隊」「朝日隊」の他に、セブに移動していた「大和隊」があった。16時25分に爆装2機と直掩1機が発進したが、悪天候に阻まれて爆装1機と直掩機は引き返した。しかし隊長の久納好孚中尉は帰らなかった。

 
久納は飛行機が好きで、法政大学の学生時代から学生飛行連盟的なもののメンバーになり、羽田で飛ぶなどしていた。ピアノも巧みに弾き、出撃前夜まで、基地内の洋館のピアノを借り、「月光」など弾いている。

 

中島正飛行長の回顧によると久納は出撃に当たって、「機関銃も無電も不要、外して残して置く」と言う。中島は敵が見つからず帰還中、敵に遭遇したら機銃は必要だと諭したが、「空母が見つからなかったら、レイテへ行きます。レイテに行けば目標は必ずいますから、決して引き返すことはありませんよ」と答えた。

 後日に本人の出撃前の決意から推して、体当たりしたものと発表された。 しかし、最初の特攻隊として発表されたのは後で出撃した敷島隊であった。関が三度も出撃・帰還を繰り返している間に、久納は関より四日早く出撃して、帰らなかった。

    

 

 

10月19日米軍はレイテ島東方約100kmのスルアン島に上陸、巡洋艦駆逐艦などがこれを支援。20日にはレイテ島上陸作戦を開始、戦艦3隻、駆逐艦6隻による艦砲射撃と艦載機約1200機、地上機約3200機による空爆で始まり、ロケット砲装備の上陸用舟艇の先導のもと約700隻の艦船と20万人以上の陸上部隊が押し寄せた。久納が出撃した21日にレイテ湾には多数の米軍艦船がいるという久納の予想は正しかった。

 

アメリカ側の10月21日の記録ではオーストラリア海軍重巡洋艦「オーストラリア」がこの日午前6時30分、日本軍機の攻撃を受けた(戦死行方不明30名、負傷64名、沈没はせず)。しかし、久野が発進したのは午後4時25分なので、これは久野ではないと言われる(「ドキュメント神風」)。日本軍機は99式艦上爆撃機だったともいわれ、久納の乗ったゼロ戦ではなかった。重巡オーストラリアはレイテ島への米軍上陸を援護射撃していた。

 

      攻撃を受け一番煙突が倒壊した重巡洋艦「オーストラリア」

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九九式艦上爆撃機

 Task Force 74 was absorbed on 11 October into Task Unit 77.3.2, assigned to provide close cover for the landing force in the operation to recapture Leyte, and departed that day for Hollandia.[114] At 15:30 on 13 October, Task Group 77.3 (including Australia and her companions) began the seven-day voyage to Leyte.[115] At 09:00 on 20 October, Australia commenced shelling targets prior to the amphibious landings, then was positioned to provide gunfire support and attack targets of opportunity throughout the day.[116] At around 06:00 on 21 October, Japanese aircraft attacked attempted to bomb the Allied ships in Leyte Bay.[117] An Aichi D3A dive-bomber dove for Shropshire, but broke away after heavy anti-aircraft fire was directed at it.[117] The Aichi, damaged by Bofors fire, turned and flew at low level up the port side of the nearby Australia, before striking the cruiser's foremast with its wingroot.[117][118] Although the bulk of the aircraft fell overboard, the bridge and forward superstructure were showered with debris and burning fuel.[117][118] Seven officers (including Captain Dechaineux) and twenty-three sailors were killed by the collision, while another nine officers (including Commodore Collins), fifty-two sailors, and an AIF gunner were wounded.[45][119] Observers aboard Australia and nearby Allied ships differed in their opinions of the collision; some thought that it was an accident, while the majority considered it to be a deliberate ramming aimed at the bridge. Following the attack, commander Harley C. Wright assumed temporary control of the ship. [118][120] Although historian George Hermon Gill claims in the official war history of the RAN that Australia was the first Allied ship hit by a kamikaze attack, other sources, such as Samuel Eliot Morison in History of United States Naval Operations in World War II disagree as it was not a preplanned suicide attack (the first attack where the pilots were ordered to ram their targets occurred four days later), but was most likely performed on the pilot's own initiative, and similar attacks by damaged aircraft had occurred as early as 1942. wiki

敷島隊 突入

 10月23日、「朝日隊」「山桜隊」はマバラカットからダバオに移動した。唯一マバラカットに残った「敷島隊」は23日・24日にも出撃したが悪天候に阻まれて帰投を余儀なくされた。関は帰投のたびに玉井に謝罪し、副島泰然軍医大尉の回想では出撃前夜まで寝る事すら出来なかった状況だったという。久野中尉に後れを取ったと思ったかもしれない。

 

この日レイテ湾突入を目指してブルネイを出撃しパラワン島沖を航行していた栗田艦隊は潜水艦攻撃を受け 重巡愛宕と摩耶が沈没、高雄が大破しブルネイに退避、愛宕は旗艦だったので、戦艦大和を旗艦に変更した。

次の日、10月24日シブヤン海に突入。米軍機延べ264機の攻撃で戦艦武蔵が沈没、重巡妙高脱落、駆逐艦2隻離脱。戦艦大和も命中弾受けるも戦闘継続、レイテ湾へ向かう。

 

ルソン島沖では空母プリンストンルソン島内の基地から出撃した日本軍機 彗星の徹甲爆弾により、爆発沈没(士官10名と兵員98名が戦死)。その爆発で救援に横付けした軽巡バーミンガムも損傷し、死者233名、負傷者426名。

 

夜、栗田艦隊とともにレイテ湾突入を計画しブルネイを出撃していた西村艦隊が栗田艦隊の到着遅延により、単独突入を決める。これを察知したオルデンドルフ少将第七艦隊第2群(戦艦6隻、重巡洋艦4隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦26隻、魚雷艇39隻)は夜戦準備をし、西村艦隊を全滅(戦艦山城、扶桑、重巡最上、駆逐艦4隻)。そのあとを追ってきた志摩艦隊の多くを損傷した。

 

唯一空母を有し比島北東で囮となった小沢艦隊(空母瑞鶴、千代田、千歳、瑞鳳、戦艦伊勢、日向、軽巡6、駆逐艦5)もハルゼー将軍率いる米軍機、米水上部隊、潜水艦の攻撃で空母のすべてを失うなど大打撃を受けた。史上最大の海戦といわれる比島沖海戦(レイテ沖海戦)の中で特攻は開始された。日本は比近海で艦隊と行動を共にする空母はなく、比島の航空基地からの攻撃機に頼り、それも事前の米軍の空襲を受けて破壊され圧倒的に数が足りなかった。

 

 10月24日、大西中将はマバラカット、セブおよびダバオの各基地に対し、10月25日早朝の栗田健男中将のレイテ湾突入に呼応して最初の特攻隊出撃を命じる。栗田艦隊のレイテ湾突入による米軍攻撃はレイテ沖海戦における日本軍の最重要作戦であった。

「敷島隊」には戦闘311飛行隊から関と同じ愛媛出身の大黒繁男上等飛行兵が加わり、直掩には歴戦の西澤廣義飛曹長が加入した。

10月25日7時25分、関率いる「敷島隊」10機(爆弾を装着した爆装6機、援護と成果確認のための直掩4機)はマバラカット西飛行場を発進する。途中、初出撃から行動を共にしていた山下機がエンジン不調でレガスピに引き返し、「敷島隊」の爆装機はこの時点から5機と直掩4機となる。

 10時10分 レイテ湾突入を断念して突然、引き返す栗田艦隊を確認した後、

 10時40分 護衛空母6隻、駆逐艦7隻の米第七艦隊第77.4.3任務群を発見、

 10時49分 隊長機を先頭に全5機突入し戦死した。

 

敷島隊の特攻攻撃を受けた米第七艦隊第77.4.3任務部隊(タフィー3)司令官クリフトン・スプレイグ少将栗田艦隊のレイテ湾突入を防ぐためレイテ湾東方にいたが、その構成は

護衛空母 6隻

  ファンショー・ベイ(旗艦)、ホワイト・プレインズ、カリニン・ベイ、

  セント・ロー、キトカン・ベイ、ガンビア・ベイ

駆逐艦3隻、護衛駆逐艦4隻。

 日出後30分、クリフトン・スプラーグ少将は哨戒機から、戦艦四隻、巡洋艦七隻、駆逐艦一一隻からなる日本水上部隊が、スプラーグ隊の北西二〇カイリの海面を三〇ノット(時速56km)で接近中との報告を受ける。栗田艦隊がレイテ湾に突入すべく突撃してきたのだ。

 「キトカン・ベイ」の見張員が、日本軍戦艦のパゴダ・マストを水平線に発見、パイロットに発進命令。戦力が圧倒的に劣る米艦隊は煙幕を張りながら東方に針路を変え、全速力でスコールめざして走る一方、救援を他の空母部隊やキンケイドの第七艦隊あてに電報で要請。

 午前6時59分、戦艦「大和」が射撃を開始。高速巡洋艦部隊の一部を直衛駆逐艦とともに派遣し、米護衛空母隊を、日本戦艦部隊の主砲の射程内に後退させようとした。巡洋艦部隊は、米護衛空母群に接近すると射撃を開始。

 米艦隊は急角度変針、ガンビアベイとカリニンベイが取り残され、日本の巡洋艦の砲撃を受ける。ガンピアベイは転覆、カリニンベイは右舷に傾斜。しかし、

 午前9時11分栗田艦隊は戦闘を突然中止し、変針。

 

午前10時、米空母セントローの乗組員は、やれやれとコーヒーを飲むなど休息をとっていた。甲板には、戦闘機、雷撃機の出撃の準備のため魚雷4本、爆雷6個、爆弾55発、多量の機銃弾が置かれていた。その時、

 

 午前10時49分、上空にいた関は翼を振って部下に突撃を指示、自ら突入した。

 セントローの艦尾1000メートル付近で急降下をやめた零戦一機が、飛行甲板に着艦するような姿勢で、高度約30メートルで「セント・ロー」めがけて飛んできた。20ミリ機銃一挺と連装40ミリ機銃一基がこれに向かって発砲したが、効果はなかった。この零戦パイロットは避弾運動をとることなくめざして突進してきた。

午前10時52分零戦は爆弾を飛行甲板に投下し、横転して、飛行甲板の五番制動索付近の、中心線から5メートル左舷寄りのところに激突、爆発した。惰力のため機体は、飛行甲板に沿って回転しながら艦首まで飛ばされた。

体当たりしたゼロ戦は甲板上に火のついたガソリンをまき散らし猛烈な火災が発生した。同時に、飛行甲板を貫通して格納庫内でとまった爆弾が爆発した。飛行甲板の舷側張出し待避所までかけ込む時間のなかった何名かの乗組員は、火のついたガソリンを体にあびた。

友軍機が着艦するさいに備えて用意されていた消火ホースが、すぐひき出されて使用された。消火ホースのうち二本は泡沫消火ホースであった。爆弾の貫通により飛行甲板にあいた穴の直径は、六〇センチたらずのものであった。マッケンナ艦長がみたかぎりでは、「セント・ロー」の損害はこれだけであった。

 

だが、飛行甲板の下では、状況は非常にちがっていた。撒水装置が作動しなかった。乗組員が消火ホースをひっぱり出したが、十分な水圧を持っていたのはそのうちの一本のホースだけで、それもきわめて短時間しか水が出なかった。爆弾の爆発後30秒たったとき、格納庫内にあった高オクタン価ガソリン搭載の飛行機がバラバラに吹き飛んだ。ガソリンが格納庫甲板一面にとび散り、烈しく燃えだした。第二回目の爆発により、多数の負傷者が出た。飛行甲板上で、爆弾が貫通した穴から消火ホースで格納庫内に放水していた応急班員でさえ、火炎と濃い黒煙が吹き出してきたので、ひどい火傷をした。

午前10時54分、鮮やかな黄色の閃光が走ったかと思うと、これまでのものよりいっそう猛烈な第三回目の爆発が起きた。この爆発で飛行甲板の一部が吹き飛ばされ、後部エレベーターも空中に投げ出された。このときの爆発で巡洋艦ミネアポリス」のウィリアム・P・テイラー大尉は舷側張出しのドアから海中に吹き飛ばされた。「セント.ロー」の多数の乗組員が舷外に吹き飛ばされ、さらにより多くの乗員が死亡した。

マッケンナ艦長は、「総員退艦用意」の命令を出した。

 午前10時56分、四度目の爆発が起こった。二分後さらに五回目の爆発が起こり、格納庫の左舷隔壁を破壊した。マッケンナ艦長は、「総員退艦」を命じた。乗組員たちが、節を作ったロープや消火ホースを伝わったり、甲板から跳びこんだりしながら、海中に逃れていたとき、爆発がさらにつづいて三回起こった。最後に艦を離れることになっているマッケンナ艦長がまだ艦橋にいたとき、六回目の爆発が起こった。艦長は七回目の爆発のあと退艦した。八回目の爆発後五分間で「セント・ロー」は右舷に傾き沈没していった。

駆逐艦護衛駆逐艦が現場に急行し、生存者の救助に当たった。救助された「セント・ロー」St Lo CVE63の乗組員は784名で、そのうち約半数が負傷したり、火傷を負っていた。乗組員のうち戦死したものは24名であった。

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St Lo (CVE63)

 

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特攻を受けたSt Lo

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特攻を受けたSt Lo

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2019年海底で発見されたセントロー




「ドキュメント神風」(デニスウオーナ、ペギーウオーナー著)には次の記述がある。

 

 関大尉はみずから編隊の先頭に立って、彼自身の改撃を「カリニンベイ」 に向けた。「カリニン・ベイ」は、その日の朝早く、日本軍の砲撃を受け、少なくとも「大和」の46センチ砲弾一発を含む砲弾が命中していた。
「セント.ロー」が特攻機の体当たり攻撃を受けるよりも一分かそこらまえに、関は「カリニン.ベイ」に向けて突撃を始めた。関が乗っていた零戦は、彼が約60度の急降下からきりもみ状態にはいったとき、煙を発しながら飛行甲板に命中して甲板に数個の穴をあけ、それから横すべりして左舷艦首から海中に落ちた。小火災を多数発生させたが、これらの火.災はすぐに消しとめられた。関が抱えていた爆弾は爆発しなかった。隊長が任務の一部しか遂行できなかったのをみて、関の率いる編隊機のパイロットの一人が、彼にならって突撃した。繰り返し対空砲火の命中弾をあび、火災を発していたその二番機は、もうすこしのところで「カリニン・ベイ」をはずれるところであったが、海面に突入するまえに斜めに体当たりした。こんどは爆弾が破裂して、「カリニン・ベイ」の乗組員に軽傷だが多くの負傷者と、その船体に小さな破孔をいくつかあけた。

 

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The U.S. Navy escort carrier USS Kalinin Bay (CVE-68) underway at sea, circa in 1944.

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Flight deck damage from the third of four airplanes that attacked USS Kalinin Bay (CVE-68) after the engagement of the Battle of Samar, 25 October 1944. "At 1050 the task unit came under a concentrated air attack; and, during the 40-minute battle with enemy suicide planes, all escort carriers but Fanshaw Bay (CVE-70) were damaged. One plane crashed through St. Lo's flight deck and exploded her torpedo and bomb magazine, mortally wounding the gallant carrier. Four diving planes attacked Kalinin Bay from astern and the starboard quarter. Intense fire splashed two close aboard; but a third plane crashed into the port side of the flight deck, damaging it badly. The fourth hit destroyed the aft port stack." (Quoted from DANFS, Dictionary of American Naval Fighting Ships.) National Archives (College Park, MD) photos: 80-G-270509 (NS0306807) 80-G-270510 (NS0306807a)

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Deck scene on USS Kalilin Bay (CVE-68) as she is near missed by Japanese shells, during the battle off Samar, 25 October 1944. Japanese ships are faintly visible on the horizon. Photograph by Phi Willard Nieth. National Archives and Records Administration (NARA) photo, # 80-G-288132.

敷島隊の攻撃は続く。「キトカン・ベイ」の見張員が午前10時49分に、四番機とその直掩機を発見した。四番機の零戦は「キトカン・ベイ」の頭上を左舷から右舷に通過し、対空砲火をあびた。四番機はそれから急上昇、反転して機銃を掃射しながら、艦橋をめがけて真っすぐに突っ込んできた。艦橋をはずれたあと、この零戦パイロットは飛行甲板に体当たりするためには、時機を失せず機首を下げるべきだったのに、それに失敗して、その代わりに「キトカン・ベイ」の左舷外側通路に衝突したあと、舷側から約30メートルの海中に突入した。
爆弾が爆発して、艦内に火災を発生させたが、少しばかりの損害をあたえたにすぎなかった。

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USS Kitkun Bay CVE71

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キトカンベイ上空を通過して墜落する日本軍機


敷島隊の最後の五番機は、「ホワイト・プレインズ」に向かった。五番機が飛行甲板の後部に体当たりするよう突進中、「ホワイト・プレインズ」の砲手がこれを徹底的に射撃した。零戦がまさに衝突しようとしたとき、「ホワイト・プレインズ」が取舵を一杯とった。この零戦は左側外側通路のわずか数センチ上をかすめて、舷側通路と水面とのあいだで火の玉となって爆発し、その破片が飛行甲板のうえに夕立のように落下した。この至近弾によって「ホワイト・プレインズ」の船体が激しくねじ曲げられ、一時停電し、装甲鉄板がへこんだ。

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USS White Plains CVE66

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ホワイトプレインスに突入する特攻機

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サマール島沖で栗田艦隊の砲撃に包まれるホワイト・プレインズ(後方)。手前は航空機を発進させているキトカン・ベイの飛行甲板



 敷島隊の四機の直掩機のうち一機が、米軍の戦闘機か、「カリニン.ベイ」の対空砲火によって撃墜された。残り三機の直掩機は、何千メートルも空中高く昇った黒煙と「セント.ロー」が沈没するのを見とどけて、中島正中佐が大和隊を配備していたセブ基地へ急いで帰投した。歴戦のパイロットで、中島中佐の古い戦友でもある西沢広義飛行兵曹長が、興奮して零戦から駆け出してきて、この吉報を報告した。西沢は、編隊の先頭にいた関大尉の零戦が空母(これはその後「セント・ロー」であったと考えられた)を直撃し、ついで別の一機がこれにならって、同じ空母のほとんど同じ個所に体当たりしたと、語った。特攻機の攻撃を受けた米護衛空母の戦闘報告には、同時に特攻機二機の攻撃を受けた唯一の空母は「カリニン・ベイ」とある。

西沢は、巡洋艦一隻も撃沈され、さらに中型空母一隻火災停止と報告しているので、彼の報告は正確さの点では一段劣っていたが、彼は米軍戦闘機の攻撃を受け、その二機を撃墜しながらの特攻戦果確認であったのでやむを得ないだろう。

 セブに帰投した西沢およびその他の直掩機のパイロットたちは、翌日、一式陸攻マバラカット基地へ輸送されている途中、撃墜されたので真実は霞の中に隠れた。このように戦果確認は直掩機がいても簡単ではなかった。次第に直掩機が随伴することもなくなり戦果の確認もできなくなるとともに、最後をみとる僚友もなく突入することになる。 

 

日本映画社・稲垣浩邦カメラマンが撮影した、10月20日の大西との訣別と21日の出撃、それに28日の大本営発表を組み合わせた日本ニュース第232号「神風特別攻撃隊」が公開された。戦争中のニュースの為、将に戦意発揚の内容である。


日本ニュース第232號

 

 菊水隊 

 組織的な航空特攻の公式初戦果としては、関が率いる「敷島隊」となっている。だが、実際は「敷島隊」より3時間早くダバオを発進した「菊水隊」(特攻機2、直衛機1)が戦果を挙げていた(『戦史叢書海軍捷号作戦〈2〉フィリピン沖海戦』)。
菊水隊はミンダナオ島スリガオ沖の東方で米第77.4.1任務群「タフィー1」(護衛空母六、駆逐艦七)を発見、午前7時40分に突撃した。セブ基地に帰還した直衛機の報告で「二機正規空母ノ艦尾二命中火災停止」したことが確認された。突入したのは宮川正一飛曹、加藤豊文一飛曹。直衛は鹽(塩)森実上飛曹である。

 米側の資料によれば、午前7時40分、特攻機が機銃を撃ちながら空母「サンティー」Santeeの飛行甲板左舷前部に命中、16人が戦死、27名が負傷した。さらに空母「スワニ-」Suwanneeを別の一機が襲い、後部エレベーター前に命中した。(71名戦死、82名負傷)

「本来ならば神風特別攻撃における、戦果を確認された最初の隊として、その栄誉は菊水隊に与えられるべきであったが、確認に手間どり連合艦隊司令長官への報告が遅れたためか、その栄誉は関大尉指揮の敷島隊が担うことになった」「戦史叢書 海軍捷号作戦」報告遅れが原因だったのか、あるいは海軍エリート(海軍兵学校出身)の関を前面に出そうとしたのか。真相はわからない。

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Santee

 

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USS Santee (CVE-29) is hit by a Japanese kamikaze, at 0740 on 25 October 1944. Bright orange flames fed by burning avgas billow above Santee's flight deck as fragments of the Zeke, probably piloted by PO1c Kato splash to either side. Santee survived, but had to return to the U.S. for permanent repairs to battle damage and general overhaul. The escort carrier was back in the Philippines in March 1945.

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Kamikaze strikes USS Santee (CVE-29), 25 October 1944. National Archives photo (# 80-G-273453).

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Fires rage after the ship was hit by a Kamikaze at 0740 hours on 25 October 1944, during the 2nd Battle of the Philippine Sea (aka the Battle of Leyte Gulf.) Official US Navy photograph.

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USS Suwannee CVE27

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Photo of the Mitsusbishi A6M5 Navy Type 0 Carrier Fighter Model 52 piloted by PO1c Tamisaku Katsumata. Had Katsumata's Zeke maintained its dive as shown in photo [NS0302710], it would certainly have missed aft of Suwannee, so he corrected its aim point by reducing the dive angle. This is caught in this image taken aft on the carrier's flight deck, showing the underside of the fighter with the trails of tracer rounds passing underneath. Even more rare is the fact that it is known that this particular aircraft had previously been flown by the Japanese ace WO Hiroyoshi Nishizawa, but had been turned over to Katsumata because Nishizawa was scheduled to fly to Manila to pick up new aircraft. Photo NARA (National Archives and Records Administration) facility College Park, MD. Photo and text from Fire From The Sky, by Robert C. Stern.

 

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kamikaze attack on USS Suwannee off Leyte, 26 October 1944. (1) As a returning American torpedo bomber (lower plane) approaches deck for landing, a Japanese suicide plane streaks out of clouds in an 80-degree dive. Photo taken from USS Sangamon (CVE-26)

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(2) The Zeke crashes Suwannee's flight deck and careens into a torpedo bomber which has just been recovered. The two planes erupt upon contact as do nine other planes on her flight deck. Photo taken from USS Sangamon (CVE-26).

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特攻攻撃を受けたUSS Suwannee CVE27

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特攻攻撃を受けたスワニー

米軍は日本軍航空機にニックネームをつけたが、Zekeはその一つで零戦を指す。

 

「ドキュメント神風」p248によると

午前6時30分、朝日隊の上野敬一一等飛行兵曹、他の一隊ー菊水隊の加藤豊文一等飛行兵曹がダバオから発進。(日本の記録では朝日隊1、山桜隊2、菊水隊2の5機)

午前7時40分、二つの特攻隊のうちの一機が「サンティー」めがけて急降下してきた。このとき、「サンティー」は乗組員を戦闘配置につけておらず、きわめて敵から攻撃されやすい状態にあった。高性能爆薬「トルペックス」245ポンドを充填した重さ350ポンドの爆雷約24個と、TNT爆薬を充填したほぼ同数の普通爆弾が、弾薬庫から取り出されて、航空機に搭載するため格納庫内におかれていた。攻撃兵器と燃料の搭載を終えた航空機数機が飛行甲板に並んでいた。

「サンティー」めがけて急降下した日本機は最後の瞬間、彗星あるいは飛燕と誤認されたが加藤か宮川正一等飛行兵曹かが操縦していたゼロ戦で、左舷側から約五メートル内側寄りのところで飛行甲板に命中した。この特攻機は爆弾の破片から63キロの普通爆弾と識別された小型爆弾を携行していた。この爆弾は飛行甲板の下で爆発した。特攻機の命中の衝撃と爆弾の炸裂で長さ約10メートル、幅5メートルの穴が甲板にあいた。非常な幸運に恵まれて、特攻機の命中も爆弾の炸裂も、格納庫甲板の致命的兵器がおかれていた部分には影響をあたえなかった。また飛行甲板のうえにならべられていた攻撃兵器搭載済みの航空機は、特攻機の衝撃や爆弾の炸裂によって影響を受けなかった。それにもかかわらず、この攻撃のため「サンティー」の乗組員16名が戦死し、27名が負傷した。

 

それから数秒後、宮川か加藤のいずれかが操縦する第二の零戦が「スワニー」の艦尾上空を施回した。対空砲火が命中した、その零戦はらせん降下をはじめ、わずかに煙をはきながら、それから四五度の急降下に入り、「スワニー」に向かって突っこんでいった。この零戦が「サンガモン」のほとんど真上にいたとき「スワニー」から発射された五インチ砲弾が零戦に命中した。零戦はコントロールを失い、機体の破片をまき散らしながら「サンガモン」の左舷側の海面に墜落した。

もう一機の零戦が「ペトロフ・ベイ」の至近距離に突入した。

四番目の零戦が現れ、高度2500メートルの雲のなかで旋回していた。この零戦が急降下に入ったとき「スワニ一」がこれに対空砲火を浴びせた。零戦がパッと燃え出したのをみて、乗組員たちは歓声をあげたが、歓声をあげるには少し早すぎた。

午前8時4分、250キロ爆弾を抱えたこの零戦は、後部エレベーター前方の飛行甲板に体当たりし、飛行甲板を突き破って格納庫にとびこみ、飛行甲板に直径約3メートルの穴と、それよりさらに大きな穴を格納甲板にあけた。

 

「スワニー」は26日にも特攻攻撃を受けた。

10月26日、セブ基地の大和隊は、植村真久少尉を指揮官として、一隊は特攻機二機と直掩機一機、他の一隊は特攻機三機と直掩機二機からなる二つのグループを発進させた。第一のグループの日本機は全機撃墜された。

 第ニグループのなかの一機が「スワニー」に体当たりした。特攻機が体当たりしたとき、「スワニー」は飛行甲板前部にならべられた戦闘機七機と雷撃機三機、およびその他一〇機の航空機がガソリンを満載していた。特攻機パイロットは、申し分のない時機を選んで「スワニー」に体当たりした。

 午後零時三十八分、雷撃機が一機、同空母に着艦した。パイロットが雷撃機を前部エレベーターのところまで滑走させたとき、高度1000メートルから急降下した零戦が、この雷撃機の真上に体当たりした。数分後、第二の日本機から投下された爆弾が「スワニー」の飛行甲板を貫通した。引火したガソリンが、格納庫および飛行甲板にならべられていた飛行機の周囲に火災を発生させた。「スワニー」の応急指揮官は、最初の爆風で甲板にたたきつけられて気を失ったが、格納庫内で意識をとり戻すと、撒水消火装置の管制弁を自分の手で開放して、火災が拡がるのを防いだ。爆発のため、艦の操舵装置の大半の機器は破壊され、艦橋は火と煙につつまれた。この攻撃で同空母の乗組員のうち100名以上が戦死し、さらにW・D・ジョンソン艦長を含む170名が負傷した。

しばしば「戦闘配置につけ」の号令がかかるといった状況のなかで、五日間をすごしてきた「ペトロフ・ベイ」の乗組員たちは、引火したガソリンが「スワニー」の舷側から流れ出るのをみて、身ぶるいした。火災現場に近い砲座や外側通路にいた乗組員たちは、.ひどい目に会っていた。

「スワニー」が特攻機の体当たり攻撃を受けてからほんの何秒かたったとき、第二の零戦が「ペトロフ・ベイ」に体当たりしようとした。「ペトロフ・ベイ」の飛行甲板後部に飛行機がならべられていた。これら飛行機の近くにいたもの全員にとって、その零戦が彼らのところに命中したら、多数のものが焼け死ぬことは明らかであった。その零戦は、飛行甲板にならべられている航空機を目ざして一直線に、ほとんど垂直に降下してきた。「ペトロフ・ベイ」は必死になって左に転舵した。零戦は補助翼を左に90度回転させて、完全に「ペトロフ・ベイ」を追跡した。「ペトロフ・ベイ」の艦上では、戦闘配置を離れようとするものは一人もいなかった。飛行甲板まで150メートルの距離に達したとき、零戦は対空砲火のため尾翼を失った。零戦はすぐさま右に水平きりもみ運動を始め、完全に二回転したあと、五インチ砲の張出し砲座の後方約5メートルの海中に突入した。零戦がきりもみを始めたあとでさえも射撃をつづけて零戦の機体をバラバラにうち砕いた。

ムーア中佐はこう語っていた。「これらの乗組員たちは過去二日間、敵から攻撃されており、また僚艦三隻が烈しい攻撃を受けて、猛烈な火災に見舞われた有様を目撃していた。また自殺的急降下は撃退することはできない、と彼らは聞いていた」乗組員たちは、休憩をほとんどとらず、便所にもほとんどいけず、戦闘配食(大方の場合、サンドイッチであった)で我慢しながら、合計102時間も戦闘配置で頑張っていた。

 

10月25日

この日出撃した菊水隊と敷島隊は一日で大きな戦果を挙げた。

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10月25日特攻隊と米護衛空母

この出撃の目的は空母を一隻も持たない栗田艦隊の援護射撃であった。栗田艦隊は戦艦大和戦艦武蔵を含む日本海軍の精鋭で、海軍のその他のほぼ全戦力の援護を受けながら、米軍のフィリピン上陸を阻止するため、レイテ湾突入を図ったのだが、日本軍には限られた空母しかなく、地上基地の戦闘機も米軍の空襲で多くを欠き、結局戦艦武蔵の沈没など連合艦隊のほとんどを失い失敗に終わった。

従って特攻隊の大戦果は海軍にとって一縷の救いであり、大いに宣伝することにもなった。特攻の戦果はこの後、長続きしないのだが、最初に予想以上の戦果を挙げた故に、沖縄戦から敗戦まで被害甚大な特攻という戦法が続き、またこれしかないという戦法になる。

 

 

 10月21日25日26日の特攻隊

10月21日1625セブ発進

第一神風特別攻撃隊大和隊

零戦250kg爆装機 久納好孚  法大11 中尉 (事実上最初の特攻と推定)

 

10月23日0500セブ発進  

第一神風特別攻撃隊大和隊

零戦250㎏爆装機 佐藤馨  丙飛4 上飛曹 (詳細不明)

 

10月25日

0630ダバオ発進(下記敷島隊の1時間前0740、第七艦隊77.4.1に特攻攻撃)

護衛空母サンティー損傷(戦死行方不明16名、負傷27名)

護衛空母スワニー損傷 (戦死行方不明71名、負傷82名)

 

第一神風特別攻撃隊朝日隊

 零戦250㎏爆装機 上野敬一 甲飛10 一飛曹

第一神風特別攻撃隊山桜隊

 零戦250㎏爆装機 宮原賢一 甲飛10 一飛曹   

零戦250㎏爆装機 滝沢光雄 甲飛10 一飛曹   

第一神風特別攻撃隊菊水隊

 零戦250㎏爆装機 加藤豊文 甲飛10 一飛曹   

零戦250㎏爆装機 宮川正  甲飛10 一飛曹   

(甲飛10:甲種飛行予科練修正10期はおおむね19歳)

 

0725マバラカット発進

第一神風特別攻撃隊敷島隊 (最初の特攻として公式発表、米第七艦隊77.4.3に10:49、突入、零戦250㎏爆装 全機命中) 

1番機 関行雄   23歳  (海兵70期)         大尉
2番機 谷暢夫   20歳  (甲種飛行予科練習生10期)  一飛曹
3番機 中野磐雄  19歳  (甲飛10期)         一飛曹
4番機 永峰肇   19歳  (丙種飛行予科練習生15期 ) 飛長
5番機 大黒繁男  20歳  (丙飛17期)         上飛曹

直掩機
西沢広義飛曹長、本田慎吾上飛曹、菅川操上飛曹、馬場良治飛長
このうち菅川上飛曹は同日特攻隊戦死者となっている

                戦死行方不明  負傷

護衛空母セントロー沈没     143      370

護衛空母キトカンベイ損傷     18                        56

護衛空母カリニンベイ損傷                 5                        55 (2機命中)

護衛空母ホワイトプレインズ至近      0                        11

 

 0900セブ発進

第一神風攻撃隊大和隊(詳細不明)

   

大坪一男 一飛曹 甲飛10 零戦 250㎏爆装

荒木外義 飛長    丙飛15 零戦 250kg 爆装

大西春雄 飛曹長 甲飛3   直掩 彗星

国原千里 少尉     乙飛5 直掩 彗星

 

1015第一ニコルス発進

第一神風特別攻撃隊初桜隊  野波哲 一飛曹 甲飛10(詳細不明)

 

1030マバラカット発進

第一神風特別攻撃隊彗星隊(詳細不明)

500㎏爆装彗星(急降下爆撃機、二人乗り複座)

 須内則男 丙飛10 二飛曹  

浅尾弘     乙飛13 上飛曹

 

1140セブ発進

第一神風特別攻撃隊若桜

零戦250㎏爆装 中瀬清久 甲飛10  一飛曹 (詳細不明)

 

10月26日セブ発進

第一神風特別攻撃隊大和隊

 零戦250㎏爆装 植村真久   立大    少尉 (後述)

零戦250㎏爆装備 五十嵐春雄 丙飛12 二飛曹

直掩 日村助一                         丙飛10 二飛曹

零戦250㎏爆装 勝又富作        甲飛10 二飛曹

零戦250㎏爆装 塩田寛           甲飛10 一飛曹

零戦250㎏爆装 勝浦茂夫       丙飛15 飛長

直掩 移川晋一                        甲飛10 一飛曹

 

(勝又の乗ったゼロ戦は25日敷島隊直掩で西沢広義が乗ったもの。スワニー写真参照、西沢については後述) 

前日に続き2回目の特攻を受け 護衛空母スワニー損傷 

 (戦死行方不明100名、負傷170名)

 

出身や階級はさまざまであるが、特攻隊員の中心は16歳から22歳くらいの若者であった。敷島隊の関隊長は母一人の新婚だったが、大和隊の植村隊長は一人娘がいた。

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植村真久

立教大学経済学部商学科在学中はサッカー部主将として活躍。学徒出陣で'43.9.23繰上げ卒業。 海軍に入隊、第13期飛行予備学生。神風特別攻撃隊大和隊、昭和19年10月26日、比島セブから発進してレイテ湾に向い米第七艦隊攻撃。25歳戦死。

愛児への便り(遺書)

素子 素子は私の顔をよく見て笑いましたよ。私の腕の中で眠りもしたし、またお風呂に入ったこともありました。素子が大きくなって私のことが知りたい時は、お前のお母さん、佳代伯母様に私のことをよくお聴きなさい。私の写真帳もお前のために家に残してあります。素子という名前は私がつけたのです。素直な、心の優しい、思いやりの深い人になるようにと思って、お父様が考えたのです。私は、お前が大きくなって、りっぱな花嫁さんになって、しあわせになったのを見届けたいのですが、もしお前が私を見知らぬまま死んでしまっても、決して悲しんではなりません。お前が大きくなって、父に会いたいときは九段へいらっしゃい。そして心に深く念ずれば、必ずお父様のお顔がお前の心の中に浮びますよ。父はお前は幸福ものと思います。生れながらにして父に生きうつしだし、他の人々も素子ちゃんを見ると真久さんに会っているような気がするとよく申されていた。またお前の祖父様、祖母様は、お前を唯一つの希望にしてお前を可愛がって下さるし、お母さんもまた、御自分の全生涯をかけてただただ素子の幸福をのみ念じて生き抜いて下さるのです。必ず私に万一のことがあっても親なし児などと思ってはなりません。父は常に素子の身辺を護っております。優しくて人に可愛がられる人になって下さい。お前が大きくなって私のことを考え始めた時に、この便りを読んでもらいなさい。

昭和十九年九月吉日父

植村素子へ
追伸 素子が生れた時おもちゃにしていた人形は、お父さんがいただいて自分の飛行機にお守りにしております。だから素子はお父さんと一緒にいたわけです。素子が知らずにいると困りますから教えてあげます。

 

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 植村家の墓所内には、十字を刻む植村眞久の個人墓、洗礼名はポール。

左側に『愛児への便り』の全文が刻まれた碑が建つ。

植村の戦死から22年後の'67(S42)、娘の素子は父と同じ立教大学を卒業。 同年4月に父が手紙で約束したことを果たすため、靖国神社に鎮まる父の御霊に自分の

成長を報告し、母親や家族、友人、父の戦友達が見守るなか、文金高島田に振袖姿で日本舞踊「桜変奏曲」を奉納した

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「雲流る果てに」「特攻隊員への鎮魂歌」 

 

西沢広義飛曹長

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西澤 廣義/西沢 広義

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ソロモン諸島上空を飛行する西沢広義の零式艦上戦闘機 (A6M3)(1943年)

日本の撃墜王の一人(撃墜公認記録143機内単独では36機、87機とも)

10月25日、関行男大尉率いる神風特別攻撃隊敷島隊の直掩を務め戦果を確認する。10月26日、乗機をセブ基地の特別攻撃隊に引渡し(これに大和隊勝又富作が搭乗しスワニーに特攻したという写真が前述)、新しい飛行機受領のため、マバラカット基地へ輸送機に便乗して移動する。その途中、輸送機がミンドロ島北端上空に達したところで、ハロルド・P・ニュウェル中尉のグラマンF6Fの攻撃を受けて撃墜され、西沢は戦死した

 

 

 

 

 

注 

艦上爆撃機艦爆):航空母艦から運用でき、急降下爆撃能力を持つ爆撃機。艦船に対して攻撃を行う場合、目標が常に機動することからその精度が重視され、低空から肉迫して行う雷撃と、急降下爆撃とが主な攻撃手段となる。雷撃に求められる機体の性能は重い魚雷を搭載する能力である。急降下爆撃用の機体に求められる性能は急降下時の加速を抑えるエアブレーキの装備と、急激な機体の引き起こしに耐えられる運動性能と機体強度である。両者は要求性能が著しく異なり、第二次世界大戦前までは同一機による両立が難しかった。このためそれぞれ専用の機体とせざるを得ず、魚雷攻撃を行う機種を艦上雷撃機日本海軍においては攻撃機)とした。ウイキペディアより。

 

 

 

他へのリンク 「小金井公園の梅」 

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