航空特攻隊員  


航空特攻戦死者

海軍 特攻隊には真珠湾攻撃などを行った特殊潜航艇や、人間魚雷回天、モーターボートによる特攻「震洋」(多くの学徒兵や海軍飛行予科練習生出身者を含む約2500名以上の戦死)、また沖縄に海上特攻で出撃した戦艦大和(2740名戦死)などがあるがこれらを含まず航空機(桜花を含む)による航空特攻のみを数えると2568名。(主として「特別攻撃隊の記録海軍編」の名簿より)

 

陸軍特攻隊には空挺部隊の特攻やマルレと言われた特攻モーターボート、戦車特攻があったが、これらを除く航空機による航空特攻だけ では1305名。(主として「特別攻撃隊の記録陸軍編」から)

 

陸海軍を合わせると4千名弱が航空特攻で戦死。

その中で海軍は飛行予備学生・生徒と呼ばれた大学・専門学校卒業・卒業見込者と満14歳以上の飛行予科練習生(予科練)が主体であり、

陸軍は高等学校・専門学校の卒業生と大学の卒業生・在学生を対象とする特別操縦見習士官(特操)、および少年飛行兵(少飛、技術生徒は満15歳以上)が主体

 

陸海軍とも戦争が進むに従い従来、軍隊の士官を占める海軍兵学校陸軍士官学校出身の戦死を大学・専門学校在学・卒業者から補充し、下士官(士官と兵の間)である少年兵と共に大量に特攻隊とした。航空兵は軍隊の中でも特に心身共優秀な者を厳選し、さらに厳しい訓練で操縦適正のないものを振り落としながら一人前に育て上げた。

 

敗戦が近づくに従い、飛行機も航空兵も不足し、飛行機は性能不良となり、航空兵は訓練期間が短縮するばかりで、十分に敵と空戦できないまま、1944年後半から1945年8月の終戦までは、ひとえに敵艦に体当たりすることだけを主眼に短期育成された。そのため米軍の特攻対策も進み敵艦に突入する前に撃ち落とされることも多くなった。

 

特攻戦死したのは最年少16歳から20代前半の若者が主体だった。彼らは死にたくなかった。しかし、国のため、家族のため、みずからの矜持のために命をかけた。

  

階級と出身(明治以来種々変更があった)

特攻隊員は中尉、少尉から下士官が中心、その前後もいる。

        海軍          陸軍

士官     大将、中将、少将

       大佐、中佐、少佐、    同左

       大尉、中尉、少尉

        士官候補生

准士官 飛行兵曹長(飛曹長)      准尉

下士官 上等飛行兵曹(上飛曹)     曹長

    一等飛行兵曹(一飛曹)     軍曹

    ニ等飛行兵曹(二飛曹)     伍長

兵   飛行兵長(飛長)        兵長

    上等飛行兵(上飛兵)      上等兵

    一等飛行兵(一飛兵)      一等兵

    ニ等飛行兵(二飛兵)      二等兵

 

大本営海軍部が侍従武官符に提出した「ご説明資料」では

特攻隊が帝国海軍の従来の決死隊と異なる点は、計画的に敵艦に突入するので、隊員生還お公算が絶無であると説明されていた。

また、戦死した隊員たちの取り扱いでは

戦争初期、特殊潜航艇の攻撃で戦死した士官と下士官は、死後、二階級特別進級していた。

体当たり攻撃で戦死した特攻隊の士官は二階級特進下士官兵は三階級あるいは四階級特進。下士官は少尉に、兵は兵曹長に死後、特進。「特攻 空母バンカーヒルp275」

 

 日本で最初の特攻隊となった関行男は

1938年(昭和13年)12月に旧制中学を経て海軍兵学校江田島)に入学した(海兵70期)。兵学校4号(1年生)のときの写真。1941年11月3年で卒業(かつては最長4年制であったが戦争の拡大で徐々に短縮)海軍の中では士官として下士官・兵隊を命令・指揮するエリート中のエリートになることが約束されていた。65期から69期の入学倍率は20倍以上。同期の卒業は432名。兵学校全78期の卒業生総数が12,433名、平均約160名/年. 実質75期が1945年最後の卒業で、74期卒業は実に1000名を超えている。戦死者の増大で急激な養成が必要だった。

 

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兵学校4号生徒時代

少尉候補生として戦艦「扶桑」乗組。1942年6月少尉。

1943年1月飛行科学生(39期)霞ヶ浦海軍航空隊に入隊。6月海軍中尉任官。8月宇佐空で艦上爆撃機の実用機教程。1944年1月飛行教官就任、5月結婚、10月特攻戦死。

 

関がたどった兵学校→艦船勤務→飛行学生(霞ヶ浦航空隊約1年)→実用機訓練(戦闘機、艦上爆撃機、艦上攻撃機、陸上攻撃機、水上偵察機など) というのは海軍の航空戦闘部隊の指揮権を担う兵科士官の通常のコースであった。これは海軍予備学生や海軍飛行予科練修生の操縦者よりも養成期間が長かった。

 

隊長 関大尉の敷島隊

 中野 一飛曹 甲飛10期

 谷  一飛曹 甲飛10期

 永峰 飛長  丙飛15期

 大黒 上飛曹 丙飛17期

 が部下として突入戦死した。甲飛とは甲種飛行予科練習生、丙飛とは丙種飛行予科練習生で、予科練と呼ばれ、満14歳(時期により15歳以上)から霞ヶ浦海軍航空隊で教育・訓練を受けた。一期生は73倍の競争率。

甲飛10期は1942年4月1日卒業1097名。777名戦死。

丙飛15期は1942年12月1日卒業(特丙と合わせ)737名。494名戦死。

予科練出身の特攻戦死者は海軍特攻戦死者の62%。兵学校出身の5%に比べて圧倒的に多い。関隊長の兵学校70期は航空科以外を含め卒業が432名しかいない。特攻隊は少年兵と学徒兵が主力だった。

 

海軍特攻隊戦死者  2557名

               海軍兵学校、海軍機関学校 出身  120名         5%

    飛行予備学生・生徒 出身      651名    25% 

    予科練 出身           1582名 62%    

              その他(准士官下士官出身など)   204名  8%

 

 陸軍で最初に特攻隊万朶隊隊長となったのは岩本大尉。陸軍士官学校53期。万朶隊で士官操縦者はそれ以外には、園田中尉(陸士55期)安藤中尉(56期)川島中尉(56期)

 

陸軍特攻戦死者 1305名

    陸軍航空士官学校士官学校出身  152名 11%

     特別操縦見習士官(特操)出身    311名 23% 

    少年飛行兵(少飛)出身      418名 30%

     幹部候補生             110名        8%

    航空機乗員養成所 出身      182名 14%

    その他(不明を含む)       132名 14%

    (少年飛行兵以下は下士官

 

万朶隊は士官が全員特攻前に死亡したため、士官なしで出撃した。通例は士官が隊長となり、その突入命令に従って士官を先頭に全軍突撃する。

陸軍曹長 田中逸夫  昭和12の徴集兵 士官全滅し隊長となった
同    生田留夫  不明(田中曹長機に同乗、通信手)
陸軍軍曹 久保昌昭  少飛10期
陸軍伍長 佐々木友次 仙台乗員養成所(逓信省所轄、実態は陸軍航空兵養成)

   佐々木は援護の隼が帰還し突入したと報告したが、誤りで後日帰還

 

万朶隊に(出撃できなかったが)4名もの陸軍士官学校出身者がいたように、陸軍の特攻戦死者の中で士官の比率は11%と海軍5%より高い。一方、少飛(少年飛行兵)の比率が30%と最も高く、特操(高等学校・専門学校の卒業生と大学在学・卒業生)が23%と、海軍同様、特攻の主体は少年飛行兵と在学・卒業学生であった。

 

海軍のその他には操縦練習生・偵察練習生を含む。これは海兵出身で下士官兵の内部選抜。当初、下士官パイロットの養成コースはこれのみ。草創期に坂田三郎(敵機64機撃墜16歳で四等水兵、戦艦霧島・秦名の砲手から38期操縦練習生)などのエースパイロット(5機以上の撃墜王)を含む優秀なパイロットを輩出した。坂田著「大空のサムライ」によると数千名の応募者から合格したのは40名。そのうち操縦練習生を卒業できたのは25名。

 
少年兵

 特攻戦死者の中で最年少は16歳で、18歳以下が207人(海軍178人、陸軍29人)いたとされている。


戦前の日本では、このようなことが問題視されることはなく、子どもを軍人として教育する公的な機関、陸軍の場合はエリートを養成する陸軍幼年学校があり、陸軍戦車学校では少年戦車兵が養成され、操縦者や通信手を養成する陸軍少年飛行兵学校(少飛)があった。
少飛の採用年限は14歳以上17歳未満で、基礎教育一年、地上準備教育一年、基本操縦一年、戦技教育など六ヶ月、合計三年六ヶ月の教育で操縦者が育成された。
従来、東京だけだった少飛は、1942年に滋賀県に、1943年に大分県に新設され、年間8000人の子どもが教育されることになり、さらに同年、東条英機の航空大拡充によって、教育課程を半分に短縮する制度(乙種)がつくられた。この速成制度は1943年4月入校の一四期乙種からで、特攻戦死した最後のクラスは一五期乙種(1943年10月入校)であった。
小学校(国民学校)を卒業して、すぐに少飛に入校すると一四歳で軍人になるわけだが、この年代の子どもたちは、皇国史観による教育と戦争という時代の影響を全身に受けて、「立派な軍人になって、手柄をたて、立派に戦死する」ことと、「大空への憧れ」をかなえることが結びついていた。

 

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5月27日出撃と思われる。万世基地より出撃、九九式襲撃機(複座)。

第72振武隊 少飛15期6名(写真以外に 久永正人伍長)

      指揮官 航空士官 佐藤睦男中尉 新井一夫軍曹

 

第72振武隊 陸軍伍長 荒木幸雄の父親宛遺書

最后の便り致します
其後御元気の事と思ひます
幸雄も栄ある任務をおび
本日出発致します。
必ず大戦果を挙げます
桜咲く九段で会う日を待って居ります
どうぞ御身体を大切に
弟達及隣組の皆様にも宜敷く さようなら

 

同じ日第431振武隊 九七式戦闘機で少飛14期5名が知覧基地より出撃

この中には朝鮮半島出身の平岡賢哉(李賢載 イヒョンジェ)伍長を含む

 

米軍記録では九九式襲撃機(米軍ニックネームVal)が駆逐艦Braine(DD-630)に2機突入。特攻機2機は命中し同艦は大破し66名戦死、78名負傷。この日は4月1日に米軍が沖縄本島に上陸して、すでに2ヶ月近い。特攻作戦は4月6日の海軍菊水1号作戦/陸軍第一次航空総攻撃に始まってこの日は菊水8号作戦/第九次航空総攻撃であり、まとまった航空攻撃は6月22日が最終。6月23日に沖縄における日本軍の組織的抵抗は終わる。

 

Damage to USS Braine (DD-630)

At 0744 on 27 May 1945, BRAINE was attacked by Japanese "Val" suicide planes while on Picket Station No. 5 off Okinawa. One plane carrying a 550 pound bomb crashed into No. 2 handling room from ahead. The bomb detonated in wardroom. The bridge was seriously damaged and No. 2 handling room was ablaze. Almost simultaneously a second plane carrying a bomb crashed into sick bay. The bomb exploded in the uptake for No. 3 boiler. The after stack was blown clear of the ship and the superstructure from the galley to the torpedo workshop was demolished. Serious fire raged in sick bay. Sixty six were dead, 78 wounded.

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5月27日は日本海海戦の記念日で海軍記念日であった。特攻戦死者、海軍34名、陸軍13名うち11名が荒木伍長以下第72振武隊を含む少年兵。(「ドキュメント神風」によるとこの日、175機が特攻に飛び立ったとある)

また海軍戦死者34名のうち32名は練習機「白菊」(250kg爆弾2発装着、航続距離を稼ぐため燃料タンクを増槽し時速180kmしか出ず、あまりに遅いため護衛の戦闘機は白菊離陸15分後に離陸、白菊を追い越して敵機と交戦した)による特攻であった。白菊隊の出身は海兵1名、予科練18名、飛行予備学生・生徒12名、予備練習生1名。脆弱な練習機による特攻には強硬な反対もあったが、結局実行された。驚くべきことに戦果もあった。別途記載する。

 

 

 

 第6航空軍編成担当参謀倉澤忠少佐は飛行機、操縦士、特攻隊委員の管理を行っていた。陸軍士官学校から航空士官学校1期生として卒業した生え抜きの陸軍航空士官である。倉澤は特攻から帰還した操縦士を収容、軟禁する振武寮」の管理もしていた。

 

倉澤に2003年3月から7月にかけて林えいだい氏がインタビュー。その中で当時86歳の倉澤が語っている。(「振武寮」p255)

「途中で命が惜しくなってね。そういうのがいっぱい帰ってきている。そういうものたちも収容したのが振武寮です。結果的に隔離所になるわけですよ」

振武寮は福岡の司令部に隣接し、周囲には鉄条網が張り巡らされ、銃を持った衛兵が入り口に立っていた。

「軍人のクズがよく飯を食えるな。おまえたち、命が惜しくて帰ってきたんだろう。そんなに死ぬのが嫌か」、「卑怯者。死んだ連中に申し訳ないと思わないか」と罵倒、竹刀で滅多打ちにした。

特攻基地を飛び立った者に対して、その日をもって死亡、二階級特進の手続きをとっており、帰還してくる隊員たちに対して、帰還してきたことを伏せるよう箝口令を敷いていた。命が惜しくて帰ったものもいるかもしれない。しかし、出撃後、飛行機の不調や敵艦を発見できずに突入せず帰還した特攻隊員の思いが書かれている。

 

少年飛行兵についても、インタビューで語っている。

「十二、三歳から軍隊に入ってきているからマインドコントロール、洗脳しやすいわけですよ。あまり、教養、世間常識のないうちから外出を不許可にして、その代わり小遣いをやって、うちに帰るのも不十分な態勢にして国のために死ねと言い続けていれば、自然とそういう人間になっちゃうんですよ」

 86歳になって本音が出たのか?航空兵になってすぐに事故で目を負傷し、地上勤務になった経歴も影響したか?

 

 

 

少年兵の中に台湾出身者がいる。

泉川正宏伍長 劉志宏、1923年台湾新竹生まれ少年飛行兵11期

1944年12月14日百式重爆でフィリピン・クラーク基地から菊水隊47名出撃の一人

百式爆撃機は搭乗員8名の爆撃機

米軍損害記録なし

 

戦死しなかったっが戦後、国民党が台湾に逃げてきた時に政治犯となった。台湾出身の元少年兵。その後陸軍航空士官学校を経て、特攻兵として訓練中に終戦。「台湾・少年航空兵 大空と白色テロの青春期」

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アメリカでは、太平洋戦争開始後、ルーズベルト大統領が飛行機年産五万機、パイロット養成年間二万名の計画を実行に移していた。これに対して日本では、航空士官学校五十六期生が、十八年五月に卒業して、士官候補生となったが総数六二七名にすぎず、他に年間二六〇〇名を採用した少年飛行兵を加えてもアメリカとの差は大きかった。飛行機の生産と操縦者の養成には桁違いの開きがあった上に、双方を酷使し、消耗品として使い捨てにしたのだから、結果は目に見えていた。


陸軍士官学校とは一八七四年に設置された職業軍人(指揮官)を養成する学校。一九二〇年に予科が設置され、ここを二年で卒業すると本科(歩兵、工兵、航空兵など)と配属先(連隊)が決められ、本科では個別の軍事技術が教えられた。入学資格は旧制の中学四年程度の学力とされ、学歴は問わず、かつ官費だったので、多額の学費を必要とする一般大学と比べ、地方都市の中小地主や軍人の子弟が多かったといわれている。毎年二〇~三〇倍の志願者があり、ここを卒業すると二〇歳くらいで将校(少尉)になった。一九三四年入校の四九期から、朝鮮人も日本人と同じように試験に合格すると入校できるようになり、累計で一二五人の朝鮮人卒業生がいた。

 

米軍パイロットの場合 

How the US Navy Trained its Pilots in WWII – the Bar for Entry was High
https://www.warhistoryonline.com/world-war-ii/how-the-us-navy-trained-its-pilots-in-wwii-the-bar-for-entry-was-high.html

The first step in preparing pilots was to pick the best men for the job.
During the late 1930s, the Navy shifted from producing a small number of superb pilots to producing a larger number of excellent ones. Even with the slight slackening in the demands placed on Navy pilots, the bar for entry was kept high. All potential pilots had to complete at least two years of college, to prove their intelligence and provide them with a decent level of education. They had to be between 18 and 26 years old, ensuring young, healthy candidates with a long career potential. They also had to be unmarried.